第ニ章 アンチクリスト
3.キリスト教批判
Nietzscheあまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)

あまりにも東洋的。──何ですって?人間が彼を信仰するならば、人間を愛してくれる神だって!この愛を信じない者には怖るべき眼光と威嚇を投げつける神だって!何ですって?全能の神の感情としての但し書きつきの愛だって!名誉心や復讐欲をどうしても制しきれない愛だって!なにもかもが何と東洋的であることだ!「私が君を愛したとて、それが君に何のかかわりがあろう?」──こういうだけでもすでにキリスト教全体に対する十分の批判である。(悦ばしき知識 第141番)
Panietzscheニーチェの批判対象は、キリスト教およびユダヤ教のドグマであって、イエスという歴史上の人物に対してではない。

旧約聖書の神が何故、あれほどまでに高圧的であり、しかも絶対唯一、全知全能の神であるにもかかわらず、己自身に忠実であるべきという戒をモーゼやユダヤ民族に課したか?

旧約聖書の成立には、ヘブライ人を奴隷(エジプト)から解放し、民族国家の建国を意図した政治的要素があると考えれば辻褄が合う。

ユダヤ教はあくまでも民族宗教であり選民思想をその根幹とし、同時に旧約聖書は世界各地の神話を寄せ集めて作られたとも言われている。
「目には目を」の記述はハンムラビ法典にもあるし、洪水はギルガメッシュ神話にも書かれている。

ヤハウェがアブラハムに与えた「カナンの地(約束の地)」は、荒涼とした砂漠にあって「乳と蜜が流れる地」という意味があり、ヨルダン川西岸は緑に覆われた大地であった。

「カナン」は「ユダヤ民族が神から与えられた約束の地」を大義名分として、イスラエルは今も尚、建国の際に国連が定めた首都テルアビブを無視し、エルサレルを永久不可分の首都として占領している。

中東問題をここまでこじらせたのは、第一次、第二次大戦に勝利するためにとった英米の戦略(英国の三枚舌外交など)にもあるが、そもそもユダヤ教の成立要因にもその原因がある。

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