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Re[37]: 〈仏教3.0〉を哲学する 1
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□投稿者/ おくったがわ -(2020/07/23(Thu) 07:43:46)
| 2020/07/23(Thu) 08:00:12 編集(投稿者)
おはようございます。
>>「〈仏教3.0〉を哲学するT」を購入して読みました。(三浦さんの本は延期) >>添付した画像は同書に掲載の内田興正老師作の図です。 > > おくったがわさん、読まれましたか!嬉しいなぁ〜。 > いろいろレス交換できたら有難いです。
ありがとうございます。基本的なことから始めないといけない状態なので、たぶんパニチェさんにとって有意義なやりとりはできないですよ。 間違ったことを書いていたら指摘していただけるとありがたいですが、それは自分にしかメリットのないことですし。
>><私>について、 >>自分(おくったがわ)は、意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのかという問題は分かるのですが、<私>はなぜこの私なのか という問題は分からないタイプの人間のようです。 > > なるほど。単なる私の印象でしかないのですが、「意識とは何か、どうやって生じるのか、また意識には何故「この自分」といった思いや感覚が伴うのか」という問いは、客体というか客観的な(外に向けた、あるいは一般的or普遍的、誰にでも当てはまる)問いのように思えます。(対称性がある問い) > > > 一方、「何故、私はこの私なのか?」という問いは内に向けた、あるいは主観的な問いであり、おくったがわさんがパニチェ(名前ではなく)でない限り、おくったがわさんには当てはまらない(おくったがわさんも同様の問いを自らに問うことはできるが、「何故パニチェ〈私〉なのか」の問いとはイコールにならないと思うのですが、如何でしょうか。(対称性がない問い)
「何故、私はこの私なのか?」という問いに触れた時、私おくたがわは『同様の問いを自らに問うことはできる』というまさにその問題として考えていると思います。 しかしたしかに、「意識とは」の問いと同じように、多数の異なる<私>とそれに対応する多数の異なる人間との関係として括り一般化して考えていたと思います。それは、誰が問うた場合でも同じ問いであるとして括っていたことになるかなと。
>>これは、自分が第4図までの見え方に浸りきっているからなのかとも思います(もちろん分かりません)。 > > 第四図で描く世界の中に自分がいるとして、そういう世界(自分も含めた世界)が頭の中の空想とかフィクションでしかないということについては違和感ありますか? > 花を見ている自分をリモートカメラで撮影したような、あるいは大きな鏡に自分も風景も映して見るような図式はあくまでも写真や鏡像の世界であって、リアルは、いついかなる時でも添付画像である「マッハ的光景」から世界を見ており(見ている主体であるおくったがわさんの意識は世界の中には含まれない)、これが紛れもない事実であるということなんですがどうでしょうか。
実は昨日まで「理屈ではそう言えるかな」という感じの理解でした。しかし上記を読んで、むしろ自分の見る世界の中に自分の意識や他者の意識が同等に併存しているような見方の方が理屈によって修正された解釈であって、ありのままに見るなら「世界の中に主体である自分の意識は含まれない」の方が事実なのかとピンと来始めている感じがあります。そうなると、前述した「多数の異なる<私>」を前提とするような演繹は無理になりそうですね。 つい今わかりかけているかな…という感じなので、ここからどう動くかは分かりません。 もう一度「〈仏教3.0〉を哲学するT」を読み直してみようと思っています。
>>Uも読まないといけないかと思いましたが、パニチェさんの話では読まなくても良さそうですね。 > > 私のカキコは信用するに値しませんが(笑)、さしたる進展はないですね。
分かりました。読むべき本が増えなくてありがたいです^^
>>Tで必要最小限の参考文献として挙がっている内田興正「進みと安らい」がアマゾンkindleの月極読み放題に入っていて超ラッキーと、ダウンロードして読み始めました。 > > 興味あります。おくったがわさんがおもしろいと思った箇所などを教えてもらえたら有難いです。
まだ1/3くらいで概観の段階のようです。そして以下あくまで自分にとってのみの興味だと思いますが、 多くの宗教が超越的な存在によって「人が為すべきこと・為さざるべきこと」を定められるという形を取る中で、仏教のみ(?)が、そのような超越的存在を置かず、それぞれの人間自らの中に真理があること、自己のみを拠り所とすることを教義とするとのこと。 もともと宗教が苦手で近づきたくない人間だった私が、禅だけは興味が持てて、そして仏教の真髄が禅であるといった言説から仏教に対しても苦手意識がなくなったのですが、まさに他の宗教が苦手なのも禅に興味があるのも、上述の特徴が大きいように再確認しました。 以上個人的な話ですみません。 ニーチェが仏教に肯定的だったというのも、上記の点も関係があるのでしょうか?
この本は自分にとって読んでよかった本になりそうで、また投稿すると思います。
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