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No41208 の記事


■41208 / )  Re[49]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 13:49:04)
    【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の、 十一から、

    できるだけ省略してみたけど。/////が省略部分ね。

    (K-Ni)―――――――――――――――
    (p24)いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸(そら)し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものを――とにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、かつドイツ的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉(たの)しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。
    ////////
    それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。それは誰よりもまず――老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。
    ////////
    それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。
    ////////
    ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するに――《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった…‥
    ―――――――――――――――

    カントのやドイツ哲学の、ニーチェの見方みたいだけど、なんかおもしろい。

    『一つの能力』っていうのはたぶん「理性」のことだと思う。

    ニーチェでさえ、『簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、』って思ってるわけだから、カントの文章、わたしなんかがわかんないのは当然ね。

    『我を忘れて喜ばれたのであった‥‥』
    ってある。
    デカルトのは、「ego cogito」、「我、考える」だったと思う。この「我」を忘れて「考える」だけになっちゃった、みたいなこと言ってるのかな?

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