□投稿者/ akaimi -(2024/08/10(Sat) 17:45:00)
| 2024/08/10(Sat) 18:05:04 編集(投稿者)
ブッダがアートマンについてどのような立場でいたのかが、わかりやすく書かれているのでお借りしました。
https://note.com/brainy_hebe176/n/n5b342aaa7840
「毒矢の譬えの出ている中部経典でブッダは、永久不変たるアートマンの存在の有無について一貫して無記を貫いている。 アートマンやその他の形而上学的な存在に対して、有とも無とも解答を与えない立場を言うのである。」
とあります。
「ブッダは永久不滅なるアートマンを見つけることができなかった。しかし、苦しみを終滅するためには、種々の形而上学的な存在の有無はもちろんのこと、アートマンの存在の有無さえも知る必要がなかったのである。」
ともあります。ここを読むと正直で誠実なブッダというのを感じます。
「想いから解脱してしまった人は、囚われる想念から解き放たれてしまっているのだから、それが「有る」のか「無い」かは、測る基準がない、もはや測れない。」
すべての囚われから解き放たれたブッダにとって、有無の二辺に執着する理由はなくなっていたのですね。
形而上学的な存在についての見解において、依って立つ見解のないブッダはそれらで争うこともなかったのですね。
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以前、私は自分の中に「真の自分・・・姿形はないけれど、気づいている主体、意識のようなものがある」という感覚があった時期があり、同じようなことを言っているように感じた非二元に惹かれていた時期がありました。 私が感じた感覚、それはもしかしたらアートマンとインド哲学で言われているものなのかもしれないとも思ったりもしました。 意識・・・本当の自分(アートマン)が本来の自分であると思うことは、心に安らぎと静けさをもたらしてくれる気がしました。 そして、アートマンはではどこにあるのだろう?とそれを見つけようと思いいろいろ考えたりもしましたが、それは見つけることはできませんでした。 そもそも、非二元の本にも、それは時空間を超えているもので、それだけを見つけることはできない、対象となるものと共にしか。。というように書かれていて・・・意識を実体としてのものと考えてもそれを見つけられはしないのかも、という推測と重なる気もしました。
以前、意識についての本を読んでいたとき、「意識は司令塔ではなく、脳内で無意識のうちに考え、意志としてまとまったものを意識は受動しているだけである」という説に出会い、このとき、自分の普段考えていた、体感していたものとの一致に驚きました。 それからしばらくしてですが、本当の自分もアートマンも有るとも無いとも言えないものなのだと実感せざるをえませんでした。(見つけられないのだから、実体的なものではないということでいいと思うのです。) 空気と食物を他から取り入れ、呼吸排泄し、脳の細胞も含め日々細胞が入れ替わり、気持ちや考えも変化していく無常な人がいるだけなんですね。
自己への執着、苦しみから離れる。その目的とするところは、非二元(もとはインド哲学です)もブッダの教えも変わりはないように私には感じられます。
体験的にアートマンがあるように感じるのでそこから始めていくウパニシャッドと、探してもアートマンは見つけられないと知っていたブッダの教え、の道のりの違いなのかもしれないと考えたりします。
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意識についての今読んでいる本の、意識を司る脳の部位についてなどを少しだけまとめるのと感想を後日書いてみます。
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