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No38049 の記事


■38049 / )  Re[20]: つれづれなるままに 15
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/07/27(Sat) 20:31:45)
    No38017のつづき
    (E-2A)の用語のわたしの見方でいろいろ考えて見たんだけど、
    *「自我」を〈考えることする自〉あるいは〈自のうちにある考えること〉ってして見てるんだけど、〈考えること〉以外の〈自〉っていうのもある、っていうことね。
    *現象学では、
    No36070で見たように、「ノエシス」と「ノエマ」を区別してるみたいだから、
    〈自〉、〈自〉のなかにある〈考える作用(ノエシス)〉、〈考えられたもの(ノエマ)〉、これらを区別して見て。
    *「内的時間意識」っていうのは、
    No37595のようにして見て。

    こういうのを踏まえながら、(E-2A)から、次のような物語を作って見た。
    (E-2AA)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (a-A)
    〈自〉によって遂行される〈自〉のうちにある〈考える作用〉(あるいはそれによって〈考えられたもの〉)は、〈現(原印象)〉においてそのつど新たに「生じて」は「消え去って」ゆく。
    (たとえば、なにか考えてるとき、ふと思われたことがあって、でもそれを忘れちゃうことってある、だから忘れないうちに書いとこ、っていうことあるよね。)
    正確には、〈自〉のうちにある〈考える作用〉が遂行されなくなった後、〈考えられたもの〉は、「把持」という仕方で沈殿してゆく。
    仮に〈自〉もまた、〈自〉のうちにある〈考える作用〉(あるいはそれによって〈考えられたもの〉)のように、新たに生起・消滅するのであれば、〈以前〉の〈考えることする自〉と〈今〉の〈考えることする自〉の間に時間的隔たりがあり、両者は原理的に個別の〈考えることする自〉ということになる。

    その場合、“複数の別々の《私》〈(私の)自と体〉”が存在することになり、後から「反省/自己知覚」を遂行したときに、私〈(私の)自と体〉はみずからを同じ一つのこの私〈(私の)自と体〉〉として同じものとして定めることはできない。

    (b-A)
    ところが実際には、この私〈(私の)自と体〉は、首尾一貫して“同じ一つの私〈(私の)自と体〉”であるという信憑が、いつでもすでに成立している。
    たとえば、「数分前の私」と「現瞬間の私」は、〈同じ一つのこの私〉である、を信用してよりどころとしてることが、いつもすでに成り立ってる。
    (ここ問題となるかもね。「一年前にあそこにいた私」と「今ここにいる私」は〈別の私〉って見る場合もあるかも?)
    では、そのような〈同じ一つのこの私〉である、という同一性・一貫性は“何に由来するのか”、
    ――この問いが、まさに〈考えることする自〉の時間的な統一を生み出してくる起源――受動的総合〈感知性〉の働き――への眼差しを導くわけだが、ここで例の「内的意識」――内的時間意識〈把持-現-予持〉――の機能が際立ってくる。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    こうみたとき、後はだいたい同じなんだけど、
    *(c)の〔当の〈考える〉の主観〕と、(d)〔「同じ一つの」主観〕を、〈自〉として見たよ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (c-A)
    〈五分前〉に〈(私の)自と体〉が遂行した作用と、〈今この瞬間〉に〈(私の)自と体〉が遂行している作用が、後から反省を遂行したときに同じ一つの《この〈(私の)自と体〉》の作用であると信憑されうるためには、〈五分前〉に遂行された作用が、まさにその時点で、他ならぬ〈(私の)自と体〉の作用であるということが前もって暗々裏に気づかれている必要がある。
    ……各々の〈自〉のうちにある〈考える作用〉は、当の〈自〉のうちにある〈自の考える作用〉の遂行が中断されれば消滅してしまうにも係わらず、どの〈考える〉も〈(私の)自と体〉の〈考える〉であると言えるのは、それらが生成しては消滅する個々の〈考える〉を「貫いて」、唯一の「同じ」〈考える自〉〉が、当の〈考える〉の主観である〈自〉として連続的に意識に知られているからに他ならない。

    (d-A)
    こうして、〈自〉は、〈五分前〉の作用と〈三分前〉の作用を共に〈(私の)自と体〉の作用として把握する「同じ一つの」主観である〈自〉として、意識の流れのうちで持続したものとして構成される。それゆえ、〈自〉は、たとえ作用のうちで顕在的に機能していない場合であっても、いわば「隠れた〈考えることする自〉」として、「眠った意識/朦朧とした意識」)に随伴していると考えられねばならない。この「覚醒して」いようが「眠って」いようが、いつでもどこでも同じこの〈(私の)自と体〉の〈考えることする自〉である、という〈自〉の同一性を暗々裏に構成しているのが、他ならぬ内的意識なのである。そして、まさにそれは〈自〉を時間的な拡がりを持ったものとして・・・・・・構成するがゆえに、内的時間意識〈把持-現-予持〉とも呼ばれるのだ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    No37637の、こう見ることによってわたしにはわかりやすくなった感じ。
    なんか長くなっちゃみたいだからきょうはここまで。
    つづく

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