□投稿者/ hana -(2024/07/08(Mon) 01:28:33)
| pipitさん、こんばんは〜
>貼っていって本当によかった、ありがとう!
良かった、安心しました。
>仏教の特色は、贅沢でも苦行でもない中道と聞いてるしね♪
中道って難しいね。 何にも捉われない、自然で自由な心になれて初めて獲得できる道なのかなと思いました。 が、こんな難しいことはないように思うのだけど。 でもこの中道を目指して仏教徒は日々努力し続けていくのかな。。 この中道こそ人々の平和へ続く道のような気がします。
>しかもその後自分を責めるとなると、どれほどの辛さ苦しさだろうかと、、、
pipitさん、ありがとうm(__)m 私ね思ったのよ。 自分が意地悪な人間なんだって自分自身を責めるってことは、 逆に言えば、自分は清廉に生きてきていると自負しすぎていたことであって、 それは自惚れなのだなって。
この間pipitさんが書いてくださった 「世界は完璧じゃない、と、開き直ってますぅー」って言葉の方が どれほど健全な言葉なんだろうって。
私がたびたび人の言葉に苦しみ、自分を責めて苦しむのは、 この自分への自惚れのような心があったからなのだと思います。
>このあとね、水や火や風でも同じように出てくるし、慈しみの瞑想などについても説かれていくみたい。 少しずつ読んでいこうと思っています( ^ω^ )
慈しみの瞑想って気になる。
>『気づきを保ち、物事をその自然なままにさせておきなさい。 そうすれば、どんな環境にいようと、あなたの心は透明な森の池のように静まっていきます。その池には珍しい動物が水を飲みにやってきたり、あらゆる種類のさまざまなことが生じるでしょうが、あなたはこれらの現象のありのままの姿を明晰に観察します。さまざまな、奇妙で不思議な現象が去来しますが、あなたは澄み切って静寂なままです。これこそが、ブッダの説いた幸福なのです。
アーチャン・チャー』<
>いろんな感情も、池に水を飲みに来る一匹の動物を見るように、達観できればいいのかなぁと改めて思いました。
様々な事象が自分の心に与える感情のことを言っていたのね。 ありがとう。
私の場合、池に波紋が生じるきっかけは、 羞恥(見栄もあるかも)だったり奢りだったり、プライドだったりかもしれません。 これをまるで「池に水を飲みに来る一匹の動物を見るように」できたら・・・ 羞恥、奢り、プライドをもし少しでも捨てることが出来たら、 素直な心で学び 自由な心で物事を見ることが出来る目が養えるのかなと思いました。 言うは易く行うは難しですが(;^_^A
pipitさん、忙しいのにお話聞いてくれてありがとう。 そして載せてくださった言葉たち、 また励ましの言葉、本当にありがとう!
少しずつだけど、pipitさんの言葉などからヒントをもらいつつ なんとか頑張っていこうと思います。
また新しい週の始まりだね。 忙しくて体壊さないように、無理しないようにね(^▽^)/
おやすみ〜
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