□投稿者/ pipit -(2020/06/18(Thu) 23:34:19)
| こんばんは! メビウスリング掲示板に投稿したものです ↓
>ハイデッガーが《未知のもの》の表現で示した、カントによる《超越論的構想力》 これを主に、みていくみたいです。<
p143からの内容
構想力、、、ドイツ語原語はEinbildungskraft 黒崎先生は、英語のimaginationとほぼ同じと考えてよい、っておっしゃってます。つまり、普通に言えば〈想像力〉のことである、って。
※pipitの今の段階で言えば、カント用語の【構想力】って、創造力とか、仏教用語のサンカーラー(形成作用)のイメージを持つんですよね。 このイメージが合ってるか間違ってるか、今の段階では私にはわかりません。
で、その【構想力】についての話題。
p145〜 小タイトルは、『二種類あったカントの「演繹論」』 第一版と第二版の演繹論では内容が違う、という説明。
黒崎先生は、まず書き換え後の第二版の演繹論から説明されます。
第二版演繹論の基本方針 ★悟性の側の自発性である超越論的統覚が、結局は、感性の側まで貫き通すという形で、人間認識の最終的で最高の統一機能としての役割を担わせてる。 「与えられた直観における多様なものもまた、必然的にカテゴリーに従う」 ことによって、認識の客観的妥当性を確立しようとしている。
でも、、、これって、ほんとにいいの? というのが黒崎先生の問いかけ。
もともと純粋理性批判の大テーマとして、現象の成立には、感性と悟性の二つの契機が必要であり、この異質なものの合一によって客観的認識が成立する、という構想があったはず。 黒崎先生曰く 『カント以前のような、感性と悟性を峻別し、感性的認識と悟性的認識という二種類の認識を設ける思想とは、人間の認識の本質をとらえるにあたって、根本的にことなっているというのが『純粋理性批判』における初心だったはずだ。』 p146
黒崎先生は、初心は感性と悟性の合一こそが肝だったはずなのに、書き換え後の第二版の内容では、あまりに悟性側の力が強くなってないかい?と思われているよう。
そして次に、書き換え前の、第一版の演繹論を見ていく、というようです。
今日はここで終わります。
おつかれさまです !
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