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結合一般の可能性/知性による総合の根源性
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□投稿者/ pipit -(2022/03/02(Wed) 14:28:32)
| みなさま、こんにちは。 No21209
※『純粋理性批判』カント/中山 元先生訳 全7巻の目次とタイトル・リストを読解の参考にさせていただきます。
https://www.kotensinyaku.jp/common/guide/pdf/kant01-07.pdf
第一五項 結合一般の可能性について 142 知性による〈総合〉の根源性 ★ 143 総合的な統一 143n 像についての意識 第一六項 自己統合の意識[=統覚]の根源的で総合的な統一について
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142 知性による〈総合〉の根源性 ★ 該当部分の英訳
Translator: J. M. D. Meiklejohn
省略 m(__)m
https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap42
DeepL機械翻訳 そして、この直観の形式は、対象が影響を受ける様式以外の何ものでもなく、私たちの表象能力の中に先験的に存在することができるのである。しかし、直観における多様体の結合(conjunctio)は、決して感覚によって与えられることはない。したがって、それは感覚的直観の純粋な形態に含まれることはできず、表象能力の自発的行為であるからである。そして、感性と区別するために、この能力を「理解」と名づけなければならない。したがって、意識的か無意識的かにかかわらず、直観の多様性、感覚的か非感覚的かにかかわらず、あるいはいくつかの概念にかかわるすべての結合は、理解による行為である。この行為に対して、我々は一般的に合成という名称を与え、それによって同時に、我々は以前に自分自身で結合したことがなければ、対象において結合されたものとして何かを表すことはできないことを示すことにしたい。あらゆる精神的観念の中で、結合の観念は、対象を通して与えられることのない唯一のものであり、主体自身によってのみ生じさせることができるものである。読者は、結合の可能性がこの行為の本質に根ざしていなければならないこと、そして、すべての結合に等しく有効でなければならないこと、そして、その反対に見える分析が、それにもかかわらず、常にそれを前提にしなければならないことを容易に理解するだろう。
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