□投稿者/ パニチェ -(2021/11/04(Thu) 20:40:13)
| 2021/11/05(Fri) 07:12:33 編集(投稿者)
こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
■No18272に返信(おくたがわさんの記事) > ■No18256に返信(パニチェさんの記事) >>意識は万人にある(特別な例を除く) >>で、貴方が意識という言葉で表せる存在であるとするなら >>どうやって沢山の意識が存在する意識の中で、どれが自分の意識であるか判別しない
> これ、今 についても同様なことが言えると永井さんは言ってましたよね。
「哲学探究1 存在と時間」ではマクタガートの問題提起を持ち出し、「哲学探究2 世界の独在論的存在構造」では「第9章 いかにして〈私〉や〈今〉は世界に埋め込められうるか」で論じてましたね。 私は永井氏が〈私〉と〈今〉を対比させるのはあまり面白いとは思わないんですけど。。。(笑)
> それは、ここ についても同じでしょうか? > 「ここ」の意味は複数あるかもしれませんが、<私> <今> と同様な <ここ> があるでしょうか?
私がおくたがわさんのレスを読み違えてないなら。。。 おくたがわさんや他の方が「ここ」と言ったらその人がいる場所が「ここ」になりますよね。で、移動すれば「ここ」は変わりますが、〈私〉や〈今〉は空間に位置しません。 〈ここ〉は空間の位置が特定できます。どこでも「ここ」でありえるのは時間の〈今〉とはあり方が違います。 〈今〉も〈私〉もそうとしかありえないということだと思います。
あと永井氏の〈 〉の使い方が面白くない理由のひとつでもあります。 〈 〉はあくまで独在性を伴った表記であり、この独在的性は独我論とセットです。 〈今〉は万人が共有可能で未来や過去から独在はしていますが独我(独在)論的な意味あいはありません。 私と永井氏では〈 〉の使用が異なるようです。
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