□投稿者/ 時 -(2021/10/24(Sun) 00:43:20)
| pipitさんへ
> とてもわかりやすい喩えですね。 > 解説本も同じように喩えられてたので、経典にもその喩えがあるのかな、と、思いました。
経典内にこのような譬えがあったのかどうか、定かではありません。その瞬間に思い付きました。
> >智慧を背景とした有尋有伺定、無尋有伺定等で泥自体を根こそぎ排除していくといったイメージが観瞑想です。< > > 違うかもですが、やはり、理解能力として『伺』くらいの心の論理思考能力はオンになってなくてはいけないのかな?と思いましたけど、全然勘違いかもです
四禅定の初禅に至った時には、有尋有伺ですね。 初禅(尋伺を伴い欲と不善の法から遠離し、その遠離より生じた喜楽のある処)(諸欲の滅尽)です。
尋伺を伴い・・ですから、尋と伺がある状態での定ということになりますね。ですので、有尋有伺定です。経験則ですが、初禅に至るまでは、頭の中でフル回転で教えを繰り返すと同時に、心を静める無尋無伺も行っていたように思います。
次に、欲と不善の法から遠離し・・ですから、それまでには智慧としての不善の諸法とは?とか、欲とは?等を尋伺しつつということになりそうですね。
そこでめでたく遠離できれば、そこが初禅です。この処では、ようやく欲がらみの苦から解放された感覚になり、喜びと楽な感覚に至ります。ですので、この初禅の到達で「緒欲の滅尽」となります。
同じく禅定が進むと、二禅で瞋が捨てられ、三禅で喜が捨てられ、四禅で不苦不楽の境地により、無明が捨てられます。
無明とは、苦に関する無知・苦の生起に関する無知・苦の滅尽に関する無知・苦の滅尽へ導く道に関する無知のことですので、四禅で無明が捨てられるということは、この時点で四聖諦を知っていることになります。
涅槃(貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)ですので、先ほどの初禅で(貪=緒欲)二禅で(瞋)が、四禅で(無明)が捨てられますので「貪・瞋・無明」の滅尽となりますね。
涅槃の定義の中の一つの愚痴ですが、愚痴(無明、迷妄のこと)ですので、この愚痴の中の無明は四禅で捨てられています。残る迷妄は、(物事の道理を知らず、誤りを真実と思い込む事。心の迷いの事)ですので、それまでの学びや智慧で物事の道理を知り、誤りを真実と思い込まず、心の迷いがない事に変化します。つまりは、貪・瞋・痴の滅尽で涅槃の定義と合致しますね。
ですので、四禅定のマスターで涅槃体現ということができると思われます。とまぁ、このようなことを知っているからとて、心の平安は訪れないと思いますが。
> >ですので、仏典内に記載がある、慧解脱(段階的な慧解脱の最初)は、四禅定の初禅であり、同時に緒欲の滅尽した彼岸は、ここ(初禅)より始まるという理解です。< > > 実体験で理解したいです > (とほほー(ノ_<))
ぜひぜひ、実体験しましょう。(^^)v
> インターネットで無料で拝見できる光明寺さまの経典訳のページは、本当はわたしにとって宝物なのに、怠け心で、全然読んでないです。
基本的に物に対する対価を支払うのは、現代社会では当然のことだと思いますが、こと仏教関係では、法を説いての対価は受け取らないというのが基本だと私は理解しています。法を説かずとも、それを金品に変える(引き換え)というのは、個人的には賛成しかねるのですね。支払うのはまだよいのですが、受け取るというのが少し引っかかっています。
> 決めてるのは自分ですね。
自分=私 ということで、本当に決めているのは、pipitさんご自身なのでしょうか?pipitさんの自由意志で?(笑)哲学の範疇に入りそうですね。私自身は門外漢ということでご理解ください。
では、この辺で。ご返信をありがとうございました。
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