□投稿者/ パニチェ -(2021/10/14(Thu) 20:03:18)
| こんばんは、みのりさん。
■No17516に返信(みのりさんの記事) > 去年、パニチェさんがよく書かれている〈私〉とは、どういうものを指すのだろうと気になり、勇気を出して質問してみたことがあった。 > (まだ、ニークラに来たばかりの頃で、質問するには勇気が要ったのだ。;^_^A)
勇気なんていらなかったんですけどね。^^
> 段階を踏んで説明いただいたのだけれど、ある段階のところで私は軽い衝撃を覚えた。 > それについて書いてみます。 >・・・ 数日にわたる長いやりとりをしてくださったパニチェさんには、感謝でいっぱいでした。 > でも実は、教えていただいた直後の私の理解度は、70%ぐらいだったのだろうな、と今になっては思うのです。 > 後の30は、時間をかけて、自分の中でじわじわと実感に向かったように思っています。
お陰様で本当に充実した実験ができました。 言葉で表現できないものを指し示すことによって、どれだけ他者に伝えられることができるか?という実験は初めての経験でしたし、しかも大成功でした。 大成功だったのは、みのりさんが何の先入観も持たず、純粋な好奇心と理解してみようという真摯なスタンスだったからだと思います。 私の方こそ感謝です。
今なら以下のウィトゲンシュタインの言わんとしていることが分かるのではないでしょうか。 〈私〉が言葉で他者に伝わらないもどかしさを言葉にしています。後半はちょい分かり難い表現になっていますが。。。
【私はこう言おう。「正直なところを言えば、たしかに、私には他の誰にもない何かがあると言わねばならない」、と。──だが、その私とは誰だ。──くそっ。私の言い方はまずいがそこに何かがあるんだ!君だって私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがないことを否定すまい。──だが君はそれがたまたま孤独だと言うつもりではないだろう。君の言いたいのはその何かの文法上の位置が隣人のない場所にあるということだろう。「しかしどうしたわけか我々の言語には、そこに他と比べることのできない何か、すなわち真に現前している経験、があるということがあらわれてはこないのだ。私はそのことに甘んずるべきだと君は言いたいのか。」(おかしいことに、日常生活で日常言語を使っていて何かに甘んじなければならないと我々が感じることはまったくない。)ウィトゲンシュタイン全集6『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より】
|
|