□投稿者/ みのり -(2021/10/07(Thu) 18:05:48)
| ■No17300に返信(pipitさんの記事) > みのりさん、こんにちは(*^▽^*)♪ > ちょっとお聞きしていいでしょうか?
pipitさん、こんにちは〜。 勝手に引用しちゃってすみませんでした。
> 個別意識が本当は一つの大きな意識って、 > > 構造の考え方としては、例えば、電気みたいな感じでしょうか? > > スマホを動かしたり、電子ジャーでご飯を炊いたり、個別の働きしてるようでも、 > 全部電気、みたいな。 > > 電子ジャーが壊れて電子ジャーの中で電気が働くことができなくなっても、電気は電気みたいな。
うん、イメージ、比喩として適切な感じだと思います。 とりあえず、具体的なことに置き換えて理解してみて、別の角度から分かって来たとしたらまた、別のイメージ、比喩が浮かんだりすると思いますし。
これまでもよく出て来てる、「スクリーンとそこに上映される個別の映画」でも、 一つの意識と個別の意識の喩えになっていますよ。 もちろん、スクリーンが一つの意識です。 ラマナマハルシというアドヴァイタの覚者が最初に使った喩えだそうです。 個別の映画(個別の意識があるみたいに思う人間のそれぞれのストーリー)が上映されてない時でも、スクリーンは在りますよね。
あと、考えたのは。 カント認識論の「感性の形式」の時間・空間がそれぞれに無限である状態。 これが一つの意識とも言えるかな、と。(あくまで私の中での考えです。) その、それぞれに無限なのをギューツと人間仕様に凝縮して私たちの個別の意識みたいにしている、というもの。
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