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Re[3]: 伝言板2 からの続き
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□投稿者/ toll -(2021/09/25(Sat) 20:38:33)
| こんばんわ
記憶は非常に曖昧です。すみません。 サンスクリット語だったかもしれません。 「オリエント急行」についても話していたような。 チラ見で どこのトピかも思い出せません。
>> 以前にニーチェが東洋語を使ったというのが >> 話題に上がっていましたよね。
>すみません、これちょっと知りません。 >もしよかったらもう少し詳しく教えてもらえますか。 >どんな文脈でどういう東洋語を使ったのでしょうか。
こちらからの抜粋ですがーーー https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0660003.pdf
本文の箇所は 3.ニーチェはいかなる意味でキリスト教を畏敬していたか 3.1.誤解を意図的に誘発する表現
(『善悪の彼岸』から) 「理解されるというのは困難なことだ。とりわけ、自分とは別様に考え、生きる人々、つ まり、クルマガティに、あるいはせいぜい、「蛙の歩み方で」マンデイカガティに、考え、 生きる人々、そういう人々ばかりの間にあって、ガンガスロトガティに考え、生きる人の 場合は、そうである 私はまさしく、みずから理解されにくくするために、全力をつ くしているのだろうか? そして、何ほどか繊細な解釈をしようという善良な意志に 対しては、それだけでもう心から感謝しなくてはならない。しかし、いつでもあまりに気 楽でありすぎるような、しかも、他ならぬ友人なのだから気楽でいる権利があるのだと信 じているような、そんな「善良な友人たち」に対しては、あらかじめ誤解のための遊技場 と雑踏広場とを用意しておいてやるといい。そうすれば、あとは笑っていればいいのだ。 あるいは、彼らを、この善良な友人たちを、全部お払い箱にしてやるのもいい そして、やはり笑っていればいいのだ!(JGB,§27)」
(本文に戻る) ・kurmagati・は「亀の這うように」、・mandeikagati・は「のろのろと」、・gangasrotogati・ は「ガンジスの流れのように」をそれぞれ意味するサンスクリット語である。必要もないのに こんな単語を混ぜ入れて読者を煙に巻いてほくそ笑んでいるのは、自分がいつも書いている文 章はこれに似たものなんだということがおわかりか、という意味である(だから、このサンス クリット語までご丁寧に日本語に訳してしまう翻訳は、ニーチェの意図を台無しにしている)。 大半の読者は、この意味不明の単語を見ただけで読むのをやめてしまう。こういう人々は、立 ち去るに任せる(お払い箱にする)のがいい。【しかし中には、苦心して梵語を解読した上で、 「亀や蛙のように卑小な者にはガンジスのように雄大なものは理解困難なのだ」というわかり やすい(気楽な)意味を読み取り、満足する者もいる。】こういう人々は、このわかりやすい意 味の遊技場の中で遊び戯れさせておくのがいい。いずれの場合もそう割り切ってしまえば、こ れらの人々が理解しないことに苦しまなくて済み、精神衛生上たいへんよろしい。それでも、 本当に繊細な解釈をすることができるごく少数の人々は、必ず真意を正しく読み取ってくれる ものだ。すなわち、水辺で生活する亀も蛙も、大河の庇護のもとで初めて生きられるのであり、 ・・・・・・・ ・・・・ いわば大河の生命の一部であるにもかかわらず(あるいはむしろ、そうであるからこそ)、大 河を理解できないのだ、というということを。 同じことが、ニーチェのキリスト教解釈についても言えるのではなかろうか。大半の読者は、 ニーチェが用いる過激で下品な表現に拒絶反応を起こし、ニーチェの言葉をただの罵詈雑言だ と断定して読むのをやめる。一方、もう少し好意的に(「善良な友人」として)これを読む者 は、キリスト教を「怨恨」の宗教と見なす洞察に一定の妥当性を見出して満足する この ような理解が、キリスト教の反作用的性格を反作用的に攻撃するという自己矛盾をニーチェに 背負わせていることには、まったく気づくことなしに 。しかし、この自己矛盾まで認識 した上でさらに慎重に解釈することで初めて見えてくるもうひとつの意図が、ニーチェの文章 には隠されているのではないだろうか。
ーーーー引用終わりーーーー
ニーチェについて ちょっぴり知ることができました。
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