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No16218 の記事


■16218 / )  Z 第一部 説話[12] 俳優について
□投稿者/ パニチェ -(2021/09/12(Sun) 09:12:00)
    2021/09/12(Sun) 10:11:06 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。横レス失礼します。

    No16136に返信(みのりさんの記事)

    > 俳優たち(俳優というのは、民衆に自らの創造したものを提示する人たちの喩え)は、狂信的、熱狂的に人々が自分たちの創造したものを歓迎することを望んでいて、そうされることによって自分たちの真価を見出している、という内容と思います。
    > (同書 訳注p372  を参考にしました。)

    参考までに。。。俳優たちについてのパニチェ流の解釈を以下にカキコしてみます。

    『偉大なもの、すなわち創造的なものを、民衆はあまり理解しない。だが民衆は、偉大な事柄を上演するすべての者たち、それを演ずるすべての俳優たちに対しては、感受性をそなえている。(ツァラトゥストラ 市場のハエどもについて5)』

    『俳優は精神を持っているが、精神の良心はあまり持っていない。彼がつねに信じるものは、ひとをして最も強く信じさせるための手段、──彼自身を信じさせるための手段なのだ!(ツァラトゥストラ 市場のハエどもについて7)』 

    『──だがツァラトゥストラは、ここで、もうそれ以上我慢ができなくなって、自分の杖を手に取り、ありったけの力をこめて、その嘆いている者に打ってかかった。「やめよ!」と、彼は激しい怒りをこめて笑いながら、その者に呼びかけた、「やめよ、そなた、俳優よ!そなた、贋金造りよ!そなた、心の底からの嘘つきよ!わたしにはそなたの正体がちゃんと分かっているのだ!(ツァラトゥストラ 下巻5魔法使い2-1)」』

    『とりわけ、彼らが偉大な事柄を欲する場合には!というのは、彼らの偉大な事柄に対する不信を目ざめさせるからだ、これら巧妙な贋金造りたち、俳優たちは。──(ツァラトゥストラ 下巻13 高等な人間について8-2)』

    訳注にもあるようにニーチェにとって俳優を象徴する者とは決別した際のヴァーグナーの本性である。
    「ワーグナーの音楽は、頽廃的なヨーロッパの暗雲を霧消させうる偉大な芸術であり、友人を理想化するニーチェにとって尊敬に値する人物でもあった。ワーグナーとの交流はバーゼル大学に赴任した1869年の夏季休暇後から急速に深まり、1872年に夫妻がトリプシェンからバイロイトに転居するまでの間、余程の支障がないかぎり毎週末は夫妻とともに過ごした。そんなワーグナーとの友情も、1876年バイロイトの劇場完工記念として上演された歌劇で、大衆に賞賛され、媚を売り迎合するワーグナーの姿に失望し絶縁することになる。(NIETZSCHE WONDERLAND ニーチェ伝 哲学成熟期より転記)」

    俳優とは思想や哲学、音楽や芸術など文化的なものよりも、それを伝達する手法に重きをおき大衆に賞賛されることを第一義に考える軽蔑すべき人間たちのことである。

    大衆は保守的であり新しいものや創造的なものついては敬遠する傾向がある。現代風に言えば「現状維持バイアス」の塊であり、そんな大衆に受け入れられるためには、元の創造的なものを変質さることも厭わないという言わば贋金造りにもなりえる人物を指す。

    大衆迎合的な立ち居振る舞いや修辞的な表現を用いて新しい思想や創造的な哲学そのものではなく、自分自身を賞賛させることを欲する卑しい嘘つきである。

    ニーチェは哲学者は誠実であるきと考えており、例え理解者が少数であったり、ほとんど理解されなくとも、俳優の対極に位置すべきであるとする。

    ツァラトゥストラの副題(このサイトの玄関にも表示していますが)である「万人のための、そして何びとのためのものでもない一冊の書」の意味するところは、ニーチェやツァラトゥストラと同じような耳を持ついるかもしれない、いないかもしれない読者へ向けた書ということだと解釈する。

    俳優は自分自身を賞賛されることを無意識的に第一義にしてしまう、位階(精神の高貴さ)の問題であるのに対して、道化師は自身への賞賛よりも、その役割を第一義する人間のことである。ニーチェやツァラトゥストラは前者には批判的であるが後者は肯定的な評価を下している。

    ・・・・・こんな感じです。^^

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