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Re[59]: 〈私〉と気づき > パニチェさんへ
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□投稿者/ みのり -(2021/08/14(Sat) 07:36:57)
| ■No15564に返信(パニチェさんの記事) > 2021/08/14(Sat) 06:49:49 編集(投稿者)
パニチェさん、レスありがとうございます。
>>ところで。 去年、〈私〉について段階を踏んで教えていただき、ありがとうございました。 > > どういたしまして。〈私〉に関してあれだけニュートラルなスタンスで先入観もなく、純粋に理解してみようということを前提にした方とレス交換したことがなく、楽しかったしパニチェにとっても有意義な試みというか実験となりました。言語表現できない〈私〉について他者に伝わったのはあれが初めてで画期的でした。
そう言っていただけると私もとてもありがたいです。
>>その時は説明についていくのが必至で、なんとか理解にかすったのかなという感じと自分では思ったのですが、それから時間を経て「ああ、こういうことなんだろうな。」というのが身から出るような感じでわかったように感じています。(身から出るってなに?ってなりそうですが。笑) > > いや、この表現分かりますよ。自分の身から出ない(実体験でない)と〈私〉ではないですからね。
伝わったんですね。よかった。^^
>>ただ、これを独自の自分自身の言葉で表現するのは難しく、「ここから開闢する」という言葉をお借りするしかないです。 > > 言葉にするのは難儀ですよね、言葉にした瞬間に万人に当てはまる>私<に変質してしまいますし。
〉私〈で、万人に当てはまる「私」を表現するというの、流行のピクトグラム風かも〜♪と、ふと楽しく感じてしまいました。 万人に共通するというのを、閉じられていない「私」の記号で表現しているのですね。
>>それでなんですが。今さっきまでテレビで野球を観てて。 >>そういう時って特に「私」というものを意識してなくて、 >>テレビの画面という世界は、私の眼のところから開闢してるのだけど、そうしたことも意識してないし、という感じです。 >>また、そのような時間というのは、好きなものを観ている時間というのに限らずけっこうあるように思います。 > > これ、ひょっとしたら三昧なのかもしれません。 > 何かに夢中になったり没頭しているときには少なくとも言語的な私は消失してますからね。 > 体験しているのは〈私〉ですが。。。。
三昧は瞑想上の境地だと思うので、熱中している、没頭している、ボケーっとして観てるなどが、私が野球を観てる際には言えてるかな、と。
>>自分というものをどのように見るか表現するかというのも、パニチェさんのおっしゃる〈私〉があり、みのりにおいては、現象であるとか起きているというような表現なんですけど、いろんなバリエーションがあって、おもしろいなと思います。 > > 全くもってその通りです。〈私〉は無垢だからいろんなものを纏うことができるのでしょうね。
> ここで聞きたいのですが〈私〉と「気づき」は隣接してますか、それとも全く違うものでしょうか。
言葉で表現するとなると、隣接というより、「気づき」に包摂される〈私〉となるのかな、と思います。 (あくまで、「気づき」からするとそう言えるだろう、ということなんですけど。)
なぜそう思うかというと。 非二元では、個人というのは存在しないとしてまして、その観方からするなら、〈私〉は「気づき」に包摂されているとなるかな、と思います。
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