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Re[4]: カールバルト「ローマ書講解」
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□投稿者/ 愛満開 -(2021/07/22(Thu) 22:03:59)
| 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
このことを、カールバルトは、何か教会の問題のことを中心に述べているので、教会の問題が、明確によく分からない自分としては、大変分かりづらいですね。
しかし、なぜ「エサウを憎んだ」のでしょうか?
価値あるものや大切なものを失ってはじめて分かるという経験があります。 不合格という現実があるから、合格の喜びがある。 捨てられることがあるから、選ばれることがありがたく思えるのです。
神は、このように、人が愛されていることを経験させるために、あえて「選ぶ」のですね。
つまり、神の救いのご計画の中には、ヤコブを愛しエサウを憎むという、光と闇のような両面がある。
両者が表裏で置かれていないと、人間は分からないのです。
イエス様には、神の選びと永遠の生命があり、同時に、神から見捨てられた滅びがあります。
そのためにパウロは15節で「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という旧約聖書の言葉を引用しています。
そしてそれを受けて16節で「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っています。
つまり、神の自由な選びによる神の御計画は、人間の意志や努力に対する見返りとしてではなくて、ただ神の一方的な憐れみによって人を救おうとする恵み、恩寵なのだ、ということです。
それは、本来は滅ぼされるべき罪人を、その罪にもかかわらず、ただ神の自由な憐れみによって赦し、恵みと慈しみを与えて下さるということです。
神の選びとは、気紛れにある人を選び、他の人を捨てる、ということではありません。
神は、滅びるべき罪人を選んで、恵みを与え、救いにあずからせて下さるのです。
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