□投稿者/ おくたがわ -(2021/06/08(Tue) 20:18:38)
| 先日、中山さんによる解説的補足を挿入した訳が諸刃の刃となりかねないという話がありましたが、 たまたま永井均さんによる誤訳指摘のツイートが検索でかかりました。 https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1130037242779582464 >訳者が付け加えた文章なのだが、この超重要な箇所の論旨を真逆に誤解しており、ゆえにさせることになる。
『論旨を真逆に誤解させる』かどうかは、後で現物(中山さんの純理)を読んで判断しようかと。自分に分かるならですが。
***** 続くツイートの以下はたぶんカントに対する永井さんの疑義
> 「規定する/される」はいずれも「統覚の統一の普遍的条件=カテゴリーによって規定する/される」の意味だ。最後の「客体」はここでは客観的に実在する自己の意味だ。規定「する」自己の側は客観的に認識できないのだ。なのに認識できると考えてしまうのが「合理的心理学」の誤りだとカントは言う > 規定「する」自己(超越論的統覚)はまだカテゴリーが適用されていないから認識不可能なのであれば、そもそも(合理的心理学ではなく)超越論哲学はいかにして可能なのか。超越論的統覚がどう「超越論的に」働くかもやはり認識できないはずでは? 我々に認識可能なのはそれが働いた結果だけでは?
永井さんの指摘は置いといて(置いとくんか〜い ここで、規定される自己=規定する自己ではないのか というと、さっき自分の書いたことと関連するのでは。 で、 たしか純粋統覚について、自己意識を産み出すものと産み出される自己意識が、ともに純粋統覚であるかのようになってしまうカントの文章(英訳)、というのを以前pipitさんと検討したことがあり、 (pipitさんから、カントは機能自体と機能の結果を同じ単語で表現する場合があるようだといった指摘をいただいた記憶があります) 今回、幾つかの訳でチェックしたところ、全ての和訳で同様な矛盾(もしくは難解さ)が生じていました。ゆえに原文自体がそのようであるのだと思います。 もしかすると、思考する自己 即 思考される自己 的なものをカントも考えていたのか。そして機能と結果を同じ単語で表現してしまうのは、その変に理由があるのか(だんだん妄想的になってるかも自分) しかしそれをカントのような形式で文章化するのは、それは大変だと思われ、そういったところにも難解さがあるのでは。
バラバラな連投 失礼しました。(これもカント沼のとある小景)
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