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No13588 の記事


■13588 / )  Re[27]: フォイエルバッハとニーチェ
□投稿者/ みのり -(2021/06/05(Sat) 08:18:27)
    No13570に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/06/05(Sat) 06:41:01 編集(投稿者)

    パニチェさん、ありがとうございます。
    長文での引用、感謝です。

    > **** 以下「岩波 哲学・思想事典」よりの引用 ****
    > 『キリスト教の本質』
    > キリスト教の批判的分析から独自の人間学=「新しい哲学」を基礎づけたL.フォイエルバッハの主著
    > フォイエルバッハによれば、人間が必然的に関わる対象は、人間自身の対象的本質以外の何ものでもない。宗教の対象、すなわち神は、ただ人間にとってのみ存在する際立った対象であり、最もすぐれた対象である。それゆえ、上記の「対象=本質」の論理が何の制限もなく妥当する。要するに、神の意識は人間の自己意識である。神とは全知、全能、第一原因、愛、等の述語からなる無限の存在である。フォイエルバッハは、これらの神の諸規定を論じ、それが人間の類的本質──理性、意志、心性、愛──にほかならぬことを示している。ところで述語は主語の真理態であり、真の主語である。だから、神が人間の類的対象の本質であるとは、人間の類的本質こそ神、最高存在であることを意味する。ここに、主語と述語が転倒され、神は否認される。

    神の意識は人間の自己意識である、とあります。
    人間が自らの特性に似せて神を考え出した、という言説になるのですね。
    こうした書物が発禁にならず、多様性が認可される時代になったというのは大きな発展だったと思います。


    > さてしかし、キリスト教は、以上の神人同形論に立つとしても、それを意識するわけではない。キリスト教の神は愛の神であり、キリスト教の本質は心情の本質にあるが、同時にキリスト教は人間個人を自然と共同体とから切り離し、類(協同性)を否定し神として疎外する。かくてキリスト教においては、公共的要素たる愛と秘教的要素たる信仰(利己愛)とが区別される。フォイエルバッハはかかる要素の矛盾を暴き、これを止揚することによって<類=共同>の実現をはかろうとした。ただ共同だけが人類を形成する。類的本質の無限性は無限に多くの個人のうちで実現される。だから「人間が人間にとって神である」ことを公然と告白し、共同を形成すること、これこそが最高の実践的原則であり、世界史的な転回点をなす、とされた。こうして『キリスト教の本質』は、人間を原理とする新しい哲学を基礎づけるものであった。

    この部分は難しいですね。
    いつか機会があったら、きちんと理解したいと思います。

    > *** 以下、白水社「哲学・思想小辞典」よりの引用 ***
    > 1814年 フォイエルバッハの『キリスト教の本質』。無神論と人間の文化。
    > この著作は成功を収め、非常に大きな影響力をもったが、とくにマルクスに影響を与えた。それは、宗教(キリスト教)とヘーゲル主義に対して、かつてないほど徹底的に異議を申し立てるのである。だがその異議申し立ての論理はまるごとこの書自身にも跳ね返ることになる。
    > 古典的な無神論の誤りは、神の存在を否定し、宗教を除き去ることによって人間の前進が確実になると信じたところにある。実際は、宗教とはどうでもいいものではなく、厚みのある歴史的事実であり、人間が生きるために不可欠なものである。
    > 真の無神論は、なぜ人は神を肯定するのかを説明し、神とは実は人間の疎外だと言うのでなければならない。人間は自分の類的本質を自己自身から追い出し、それを絶対的な実在として立てる。類のみが無限であり、個は有限だからである。そのようにして、人間が礼拝を捧げる神が出来上がるのである。この疎外を批判することによって、人間は自分の本質をあらためてわがものとすることができる。だから神学の本質は人間学だということになる。また人間は疎外批判によって、宗教の礼拝を〔人間的な〕文化へ変えることもできる。宗教の真理は実践的人間主義なのである。人間にとって重要なすべてのことは、こうしてその神的な意味を取り戻すのである。

    こちらは、フォイエルバッハの言説に不足している部分を指摘するような内容になっていますね。

    > ニーチェがツァラトゥストラに先がけて初めて「神の死」にふれた以下のアフォリズムでは「神の殺害者であるおれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」と提起しており、ここのくだりはフォイエルバッハの「人間が人間にとって神である」を踏襲しており、神の死によってやがて訪れる最も影(プラトニズムの象徴)が短くなる大いなる正午(正午の哲学)はニーチェなりの「人間を原理とする新しい哲学」であり、フォイエルバッハと同類の実存主義(人間の実存を哲学の中心におく思想的立場)哲学であるように思う。フォイエルバッハが神学を人間学に還元したのに対し、ニーチェはセム系宗教やその道徳について心理学的に解体した上で、福音どころかこの禍音性を批判し、神に代わる新たな理想的人間像=超人と、神なき時代の理想的人間が抱くべき君主道徳(奴隷道徳のアンチテーゼ)を提起したことから考えると、よりラディカルな思想に発展させたと解釈できる。
    >
    >
    > 『狂気の人間──諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、──白昼に堤燈をつけながら、市場へ駆けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している!おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。──市場には折りしも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種となった。「神さまが行方知れずになったというのか?」とある者は言った。「神さまが子供ように迷子になったか?」と他の者は言った。・・・──彼らはがやがやわめき立て嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」、と彼は叫んだ、「おれがお前たちに言ってやる!おれたちはみな神の殺害者なのだ!・・・たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか?白昼に堤燈をつけなければならないのではないか?・・・殺害者であるおれたちはどうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、・・・どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるだろうか?・・・それをやるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった──そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」──ここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした堤燈を地面に投げつけたので、堤燈はばらばらに砕け、灯が消えた。「おれは早く来すぎた」、と彼は言った・・・(悦ばしき知識 第125番)』
    >
    > 『だが、えせ賢者たち、総じて、聖職者たち、この世に倦み疲れた者たち、その魂が女の性を持つ者たち、──おお、彼らの戯れは、昔から、我欲になんとつらくあたってきたことか!そして我欲につらくあたること、まさしくそのことが徳であるべきであり、徳と呼ばれるべきであるとされたのだ!そして、「没我的」──総じてこれらの、この世に倦み疲れた臆病者たちや十字グモたちが、そういう境地にわが身を置きたいと願ったのは、充分に理由のあることであったのだ!しかし、これら一切の者たちに、今や昼が、変化が、斬首刀が、大いなる正午が、やって来る。そのとき、必ずや多くのことが明らかになるであろう!そして、自我を健全にして神聖なものと宣言し、我欲を至福のものと宣言する者、まことに、この者はまた、一人の予言者として、自分の知っていることを語るのだ、「見よ、それはやって来る、それは近づいているのだ、大いなる正午は!」と。(ツァラトゥストラ 三つの悪について)』

    人間本来の持つ本能、欲望を取り戻しつつ、自律した人間像を理想としたニーチェ。
    青年期にフォイエルバッハの言説と出会い、やはり影響を強く受けたのですね。
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