□投稿者/ toll -(2021/05/13(Thu) 22:32:20)
| パニーチェ様 レスありがとうございます
パニーチェ様は仏教全般に明るいのでしょうね
前回 「筏の喩」についても調べていて載せようかと思ってたのですが 長くなるので止めましたがこういう事だったのですね
ーー引用始めーー
釈迦の説いた筏の喩とは、総ての教えは筏であり、悟りを開く手段であるという事であった。 この筏とはバラモン教でもよいし、キリスト教でもイスラム教でもよい。もしかしたらオウム真理教でもよいし、エホバの証人でもよい、当然日本の神道でもよい、儒教でもよい。 これらは総て筏であり悟りを開く手段であると説いたのである。
(中略)
人間が五感から感じる悟りは総て無であり、五感から悟る真実は、総て固定的なものであり、それに執着したときにもはや真実ではないと説いたのである。 この考えでは釈迦の説いた無分別智でさえも、人間がその考えに執着したときにもはや無分別智では無くなるのである。 例えば仏教で禁じられている殺生や性生活でさえ、釈迦はそのような事を言った事は無く、例え言ったとしても、それはガンジス川を渡るための筏に過ぎない。釈迦はこのような教条主義を最も嫌ったのである。
(中略)
このように、釈迦はこの筏の喩えで我々が真理であると思った時、それはもはや真理ではないと言ったのである。 なぜなら真理とは永遠のものではないからである。永遠の真実であると思った瞬間、その真実は虚偽となるのである。 ーー引用終わりーー
ttp://www1.clovernet.ne.jp/ponnpe/syaka42.html
昔『正法眼蔵』を読み始めた事がありますが 直ぐに挫折しました^^ 道元禅師が中国に渡って「椎茸和尚」と出会った時の エピソードが好きです そのせいか『典座教訓』は読むのが楽しいですね 勿論 どなたかの解説で読みますが^^
少し引用しますーー
【食事をつくることも修行である】
「若き日の道元は、「人間にはもともと仏性がそなわっているのに、わたしたちはなぜ修行をするのか」という問いを胸に抱き、仏法を学ぶために宋へ渡りました。宋の禅宗寺院において彼が体験し感激したことは、禅仏教というものが「生活禅」だということの発見です。僧堂で坐ることだけでなく、日常生活のすべてが修行だということへの気づきです。これについての道元の体験の一つが、『典座教訓(きょうくん)』に記されています。」   ■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より https://textview.jp/post/culture/26998
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