□投稿者/ うましか -(2021/05/09(Sun) 17:44:41)
| こんばんは。pipitさん。 おじゃまします。
私のつたない考察にコメントいただきありがとうございます。 なにぶん暗中模索?、五里霧中?のため「わかりません」という返答ばかりとなりますがおゆるしください。
*******
>>上の引用について切り口をこう考えてみました。 >>◇ 「形而上学的〜」と「超越論的〜」のカントの用法の対比と両者の関連 >>◇それらにおいて、各々なにが行われた(行われていた)か >> >>まず引用文を整頓。 >>@ 形而上学的な根拠づけ >>思考の一般的な論理的な機能とカテゴリーの機能が完全に一致することで、 >>カテゴリー一般のアプリオリな起源が明示された<
> これ、アプリオリな起源、というのは、 > 知性そのものが起源、ということかな? > と、わたしは今のところ思いました。 > 違うかなぁ。
なるほど、そうかもしれませんが、私にはよくわかりません。
私が気になるのは、上の「切り口」であげたように「形而上学的〜」としていることの意味についてです。
「超越論的〜」も同様です。
>>A 超越論的な根拠づけ >>カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された< > > > 『直観の』とあるじゃないですか、そこがミソになるのかなぁ、という感じがしてます。 > > もともと、演繹は、直観の対象に人間が対応・呼応させる概念の正当性についての主張だと、今のところ思っているのですが、 > > 直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性、とは、 > 直観が感性的には時間・空間の形式上に現れると表現できるように、 > 直観として私たちが認識するとき、もう、カテゴリーの形式下に直観が従っている可能性についてを述べてるのかな、と、思ってます。 > ここらへんは、読んでいかなくては、と、思ってますが(><) > > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p134 では、カントの小タイトルの訳として、 > 『第ニ〇項 すべての感覚的な直観はカテゴリーにしたがう。カテゴリーは、多様なものそのものが意識のうちにまとまることができるための唯一の条件である』 > とありますね。 > > 直観を、対象としての直観と知るには、カテゴリーがアプリオリに既に仕組まれている、 > そんなイメージを持っています。 > > そういうことを述べたのが > >>A 超越論的な根拠づけ >>カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性が明示された< > > と、うましかさんがまとめてくださった、超越論的演繹ではないかと。 > もちろん、勘違いしまくってるかもです。m(_ _)m
いえいえ、ありがとうございます!
私としては、「形而上学的演繹」という言葉の出現が唐突なのと、おそらくここでしか出てこないことの不思議さが気になっています。
「形而上学的演繹」とよばれる箇所とは何項なのだろうか?それらの箇所の記述が「形而上学的〜」と称される理由とはなんだろうか?
超越論的演繹については経験的演繹との区別で説明されていますが、そちらもまだよくわかりません。途上です。
>>>だからわたしは、これらの概念が対象とどのようにアプリオリにかかわるのかを説明する作業を、超越論的な根拠づけと呼んで、経験的な根拠づけと区別することにする。< >>→カント中山元訳2、p.93
>>この引用文を理解するためには、まずその前にのべられた「根拠づけ」(演繹)の定義をおさえておく必要がありますね。法学書において権限と越権について論ずるさい“何が合法的に認められているか“という「権利問題」と“事実はどうであるか“という「事実問題」について区別しそれぞれ証明をもとめるが、権利問題について権限や権利要求を証明するdartunことを「根拠づけ」とよび、カントの「根拠づけ」は、これに由来するようです。(中山元訳2、p.91-92参照) >> >>*******< > > なんとなくですが、dartunのことを、証明書、みたいなイメージで考えたらどうかな?と、自分では思いました。
私としては、中山が同じ「明示」と訳したところの区別に注目することで、「形而上学的演繹」と「超越論的演繹」の関連性(あるいは区別)を知る手がかりをえられないかな〜とおもったわけですが、ハズレかもしれません(´;ω;`)ウゥゥ
>うましかさん、おつかれさま、ありがとうです!!
こちらこそ、おつかれさまです!
ありがとうございました! (^^)/
|
|