□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/30(Fri) 21:56:54)
| knowing itselfさん こんばんは
>>特に最後の「私達はその神の子羊に顔と顔を合わせて会えるのです。その神の子羊は、私達を愛し、私たちが永遠に天にてご臨在を楽しむことができるようにと、ご自分を犠牲にされたのです。」 >> >>というところが、イエス様の十字架の贖罪の意味が読み取れるようで大変分かりやすかったです。 > > https://youtu.be/5l-Lv9tGQwI > > 最後の方で、三位一体の神の喩えとして、神が鏡に映る自分自身の完璧な像を見ていることを挙げています。神が鏡をみて愛のため息をもらす。神が父で、像が子=イエス、愛のため息が聖霊です。天とは、この三位一体の神の交わりのど真ん中に招き入れられることだと思います。パウロに限らず、そこしかゴールはないでしょう。 > > 天とは何処かという問いを別にしても、バロン司教のこの動画は三位一体の説明として秀逸だと思います。
なるほど、ありがとうございます。
神様はお一人だが、唯一の神でありながら父と子と聖霊でもあり父と子と聖霊は、永遠に愛し合っているということでしょうか。
神様は、愛に出会うために他の相手を必要としない。神様は完全だから、私たち人間とか被造物を全然必要としないのでしょう。
神様が宇宙万物を創られたのは、それを必要とされたからではなく、父と子と聖霊の愛が溢れ出て、三位一体以外の相手を創ろうとされたからかもしれません。
そして、その相手である人間も愛のために創られたと言えると思います。
「神はその一人子をお与えになるほど、世を愛された」。
人間の本当の充実というか完成は愛のうちにあるのであり、実際、経験でも、人間は深く愛し愛される時こそ、本当の特別な喜びを感じます。
それは、人間存在の目的をそこで達しているということの表れですが、それは人間どうしの愛だけではなく、神様ご自身、父と子と聖霊が愛し合って、その交わりの中へ人間を招き入れようとされているのだと思います。
そう考えてみると、これは凄いことだと思う。親しい友達のグループ仲間に入れてもらって、皆と同じように親しく交わるのは大きな喜び。
でも人間どうしがそうだったら、神様ご自身の交わりに招き入れられるというのは、なんという素晴らしいことでしょう。私たちの理解だけではなく、想像をはるかに超えることだと思います。
その意味では、聖ヨハネが言っている「神は愛である」というのは、人間を捉えるためにも重要なこと。愛である神様に創られた人間は、愛のために創られたのですから。
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