□投稿者/ 四月馬鹿 -(2021/04/22(Thu) 20:00:25)
| こんばんは。pipitさん。 おじゃまします。
私の手元にあるのは買ったばかりの原佑訳の3冊(平凡社ライブラリー)です。
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さて動画メモ続き。
カント『純粋理性批判』の中心テーマである「アプリオリな総合判断はいかにして可能か?」という問いを考える。動画では、この問いにある「アプリオリ」、「総合判断」という二つの言葉についてそれらの対義語(「アポステリオリ」「分析判断」)とともに解説される。
総合判断は、「AはBである」という文において、主語の概念Aに述語の概念Bがふくまれていないことがわかる判断であり、「7+5=12」(「7+5」は「12」である)のように、AとBが合体して新たな意味が生まれる判断。これに対しAにBがふくまれる判断を分析判断とよぶ。
アプリオリは「先なるもの」という意味。何かを知る場合、観察や経験を通して知られるのではなく(カントのいう「経験によらない」=「純粋」)、数学的な推論や証明を通して知られるものをカントはアプリオリな知識とよび、経験によって知られるもの、すなわちアポステリオリ(「後なるもの」)な知識と区別する。
アプリオリ−アポステリオリ、総合判断−分析判断という4つの言葉をそれぞれ組み合わせると次の4つの判断ができあがる。 アプリオリ アポステリオリ 分析 アプリオリな分析判断 アポステリオリな分析判断 総合 アプリオリな総合判断 アポステリオリな総合判断
これらにあてはまるものをあげると、 アプリオリ アポステリオリ 分析 アプリオリな分析判断 アポステリオリな分析判断 ・合理論 ・×(判断とは認められず) 総合 アプリオリな総合判断 アポステリオリな総合判断 ・純粋数学 ・経験論 ・純粋自然科学 ・形而上学
カントにとって、純粋数学、純粋自然科学、形而上学は「アプリオリな総合判断」に基づく。この判断はいかにして可能かという問いに答えたのが『純粋理性批判』。この<純粋理性批判>とは「純粋理性」=「経験に頼らないアプリオリな総合判断をする能力」について徹底的に吟味して考えてみるという試み。純粋理性の可能性を知ることで純粋数学や純粋自然科学、形而上学の可能性を知ることができる。これはつまり、人間の知ることができるものの限界がわかるということ。以上が『純粋理性批判』の序論。
13分超えた、やっと半分か〜
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