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No12045 の記事


■12045 / )  Re[2]:  おくったがわさんへ
□投稿者/ つばめ -(2021/04/20(Tue) 09:41:28)
    >勝手な方向に持っていきますけど、禅(または禅にヒントを得た心理療法)に、
    苦しいときは苦しいまま(腹が立つときは腹が立つまま、悲しいときは悲しいままetc.なんでも同じ)
    さらに、苦しみになりきる、というような発想があります。
    心を解決しよう・変えようと手を出さない・いじくらない 
    花は紅 柳は緑。白雲自去来 あるがまま

    >ツバメさんの文章から、自分の心や感情を自分で解決できると思う傲慢を捨てる、とかちょっと思い浮かんだ。
    花を緑に柳を紅にできるとか、雲がやってくるのを防げると思う傲慢。

    >ちなみに、禅や仏教を論じている人については、前述の発想があるかどうかで、信頼できるかどうかの目安にしていたりします。自分がきちんと学びも修行もしていないのに、そうやって人を判断するのは目茶苦茶傲慢やなぁ というのは置いといて。

    おくったがわさんから返信をいただいて、ずっととりとめもなく考えているのですが、
    禅や仏教も結局は心を解決しよう・変えようとする方法の一つなのだろうと。
    色々な方法があると思いますが、おくったがわさんの話を聞くに禅や仏教の方法は
    自分の性質に合うな、と思ったりしました。

    自分の心や感情を自分で解決できる範疇であるならば解決すればいいし、
    解決しようとするのが本性?本能?(自然)だと思う。
    そしてそのよう(本性に従い)に人は生きて日々を過ごすのだろうと。
    そこには努力もあるし、忍耐もあるだろうし、忸怩たる思いを凌駕する内面的な駆け引きや
    何かを真とする誠実さもあるだろうと思います。

    だけど事態、状況が自分の心や感情を自分で解決できる範疇を超えている場合、それに気づいたら、やっぱり黙って受け入れる・・・しか方法がないかなと。
    そしてその時は、意味なく苦しみそれでも(生きていたいなら)生きるというスタンスを自分がとれたらと願っています。

    あと、ずっと気になっていたのが、

    >苦しみになりきる、というような発想があります。

    どうも私の中では「苦しみ」=「痛み」と変換されてしまうようで、
    そして「痛み」については、痛みを発するのは自分、痛みを感じるのも自分という
    主体と客体が一緒になるような、変な感覚?腑に落ちなさ?を感じています。
    (発するのも自分、受け取るのも自分、主客合体みたいな変な感じ。)
    ・・・だから「苦しみになりきる」というのが、どうもわからない。・・・

    ああ。今気づいたけど、痛みは発した時点ですでに受けている(麻痺していなければ)、つまり(何がつまりだ。(笑))主客一体ですでに痛みになりきっている、・・というより痛み=自分・・・かなと。

    ・・・わかんなくなりました〜〜。

    ちょっと考えます。





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