□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/17(Sat) 17:00:45)
| knowing itselfさんこんばんは。
なかなか、三位一体は、難しいですが、カルヴァンにおいて予定論は出発点ではないのだとか。後世のカルヴィニストは予定論あるいは聖定論を神学体系の公理のように、これを先ず確定して、そこから他の教理条項を導き出そうとしたのですが。
カルヴァンはそうではない。予定論の位置も最初ではなく、救いについて論じた後である。これだけの神からは、豊かな救いが差し出されているのに、なお滅びのうちに留まる人があるのは何故か。
それは、予定があるからである、と考えるほかないというロジックのようです。
では、予定論は経験的事実から割り出した理論であるかと言えば、カルヴァンはそのような推論による教理の定立はしないものであり、これは聖書の神の言葉からの帰結であるというようです。
やはり、knowing itselfさんの仰るように、神が積極的にある人を滅びに定めているとしたわけではないようです。
自分としては、二重予定説として、宇宙の初めから、救済は定まっていると思っていたのですが、滅びを定めていたのではないのですね。
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