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No11774 の記事


■11774 / )  Re[80]: ♪
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/08(Thu) 18:32:38)
    ■11773のつづきね

    【音楽の演奏家の例は、習慣というものが、思惟にも客観的身体に宿るのではなく、世界の媒介者としての体に宿るということを、いっそう明らかにする。周知の如く、練達のオルガン奏者は、今まで使ったことがないオルガン、つまり鍵盤の数が彼の常用のものより多かったり少なかったり、音栓の配置が違っていたりするオルガンでも、使いこなすことができる。予定の演奏ができるようになるためには、一時間も練習すれば十分である。こんな短時間の訓練では、新しい条件反射が既成の機構に置き換えられるとは考えられない。もっとも両者がそれぞれのシステムを形づくり、変化が全体的である場合は別である。だがこういう場合には、反応が楽器の全体的把握によって媒介されているのだから、われわれは機械論にとどまっていることはできない。しからばオルガン奏者はオルガンを分析するのだと、つまり、音栓、ペダル、鍵盤、ならびに空間におけるそれらの相互の関係に関する表象をつくり保存するのだと、われわれはいうだろうか。しかし演奏会に先だち短時間試奏する間、彼はイスにすわりペダルを踏み、音栓をひっぱり彼のからだで楽器の寸法をとり、方向や大きさを自己に統合し、家に落ち着くように楽器のなかに身を落ち着けるのである。それぞれの音栓やペダルについて彼が学ぶことは、客観的空間における位置ではない。彼はそれらを彼の「記憶」に委ねようというのではない。試奏の間も演奏の間と同様、音栓、ペダル、鍵盤は、彼にとって、しかじかの情緒的、ないし音楽的な値の能力でしかなく、それらの位置にもこの値が世界のなかに現れる場所にほかならない。総譜のなかに示された楽曲の音楽的本質と、オルガンの周囲に実際に響きわたる音楽との間に、きわめて直接的な関係が打ち建てられ、その結果オルガン奏者の身体と楽器とは、もはやこの関係の通過する場所にすぎなくなる。今後は音楽がそれ自身によって存在し、他のあらゆるものは音楽をとおして初めて存在する、ということになる。ここには音栓の場所に関する「追憶」などの入る余地はない。そしてオルガン奏者が演奏するのは客観的空間においてではない。ほんとうに、試奏の最中の彼の動作は祝聖の身振りなのである。この動作は感情のヴェクトルを張り渡し、情緒の泉を発見し、預言者の身振りが聖域(templum)(訳注45)を区画するように、表出(expressif)空間を創造するのである。】(MP-12)

    (訳注45)預言者の身振りが聖域(templum)を区画する、という文は一見分かりにくいが、「預言者」の語源はaugure(鳥占師)。聖域(templum)とは、鳥占いの観測区域。つまり鳥占師の魔術的仕種によって一定区間が聖別され、未来を予兆する空間となること。

    わたし楽器演奏できないから、ここらへんほんとなのかよくわかんない。

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