□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/06(Sat) 18:26:51)
| No11270のところで、
訳注で〔ドイツ語では「理性[Vernunft]」の語源は、「認知する[vernehmen]」である。〕ってある。
ネットで調べて見たら、 [vernehmen]は「聞く・聴取る・聴こえる・うけたまわる・・・」。[Vernunft]はいっぱいあったけど、「理・道理・理屈・ことわり・ふんべつ・ききわけ・・・」。 日本語で「認識」は独語では[Anerkennung]で、この独語の日本語は「賛辞・認知・認定・容認・了承・・・」。
あ〜、日本語いっぱいある〜。 でもちょっと見方、変わったかも。で、ひとまず「認知」と「認識」は区別しておくことにしといた。
No11270のところで、ちょっと気になったのが、 【‥‥いっそう根源的に「真」であるのは、アイステーシス、すなわち感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に認知することである…】っていうところ。
で、訳注のように「認知する→理性」ってしたとき、上記のところは〈いっそう根源的に「真」であるのは、感覚である。つまり、或るものを、端的に、感性的に理性ことである〉ってなる。こうなると、〈感性における理性〉ということにもなるんだけど。
No11101のアリストテレスの(A)のところに書いてあった 【…その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえんにさえ愛好されているものだからである。…】を思い出す。
古代ギリシアの話しだよ、今は違う。なに言ってるのバカじゃないの、って言われそうだけど、わたしこの見方本気で考えてる。
「理性」、いまだ思案中。 あ、わたしは合理主義じゃない、っていうことからね。
なんか、違う方向に向かってる感じ。迷子になる前にひとまず「理性」から離れなくっちゃ。
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