□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 22:51:42)
| こんばんは〜
■No11296に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > >真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったこと< > っていうところがpipitさまにあるからわたしここにきやすいのかも。< > pipitさま、お邪魔しま〜す。<
悪魔ちゃんと話すのはとてもおもしろいよ、いつもありがとう。 この前も、新鮮な発想で面白かったな〜 相手が自分に自らを示してるなんて発想、教えてくれてありがとう!
> ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、<
そういう印象は、わたしはないけどなぁ(^◇^;) 実は、みたいな? 実はそうやった、なら、おもしろいけど
>カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら? > > いつも聞いてばっかでごめんね。 > 気が向いたときでいいよ。<
いつも楽しいし、勉強にならなかった覚えがないから、こちらこそ気にしないでね。
ただ、、、悪魔ちゃんは難しいところ聞くんだよ〜
ごめん、カントの、はまだ勉強中で正確にはわからないんだけど、 今の私としては、客観とは『主観抜きを仮定して描かれる象』かなぁ。難しい。
岩井拓朗 さんと言う方の 『客観的世界を経験するとはどういうことか ―『純粋理性批判』第二類推についての考察―』 という論文があるんだけど、
//philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2016/05/b0c506bdaa5854a7f66c074cbfee5018.pdf
はじめに、で、 『『純粋理性批判(以下『批判』)』でカントは私たちが知覚に基づいて行う認識活動を「経験(Erfahrung)」と 呼び、それが客観性に関与することを強調する1 。そして彼はそうした経験の成立条件を考察している。では カントはこうした考察によって何を明らかにしようとしているのか。 P・F・ストローソンはカントの狙いが、客観的世界についての経験という考えが成立するための条件を明 らかにすることだと指摘した2 。例えば私たちは知覚を通じて、犬が移動したことや、部屋に本棚が複数ある ことなど世界に関して様々なことを知ることがある。その際に私たちは、自分達の知覚とは独立に存在し得る 事態を目の当たりにしたと考えるだろう。例えば自分たちが見ていなくても犬は移動したと考えるのであり、 私たちは自分達が客観的なものを経験したと考えるのである。カントはこうした理解の成立条件を考察してい るというのがストローソンの指摘である。』 という岩井さんの文章が載ってるんだけど、
それから、もう少し後に、 『主体は客観的な世界を経験することにおいて、単に世界に対応した何 らかの表象を手にしているだけでなく、そうした表象が客観的なもの、つまり自分が知覚しなくても存在した であろうようなものに関わっていることの理解に到達する。』 とかも、今のわたしの客観のイメージと似てる感じがしてます。
あとは、共有の可能性を備え持つもの、かなあ、客観のイメージ
ちゃんとわからなくてごめん! 機会があったら、客観を意識してカントの文章を読んでみるね おやすみ〜(^ ^)☆彡
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