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168時間以内に投稿された新着記事


■36951 / )  Re[22]: ネオダーウィニスト月蛇との激論2
□投稿者/ 転法 -(2024/03/28(Thu) 09:32:10)
    >上記にある「闘争や逃避反応」というのが、呼吸にストレートに影響を与えるわけですね。自分の呼吸をみれば、ごまかしようがないわけです。呼吸が速くなると交感神経優位で、呼吸がゆったりすると副交感神経優位。逆にいうと、常時ゆったりした呼吸をしながら心を「観る」ことに習熟できれば、脳の「闘争か逃避」という構造を変えることができる可能性があるのだと。

    ヨガなんかで、呼吸の仕方で脳をだますような手法がおマスわね。


    >「上記のことを知っているにもかかわらず獲得形質遺伝を認めないネオダーウィニストは、論敵である創造論者と同じようにドグマチックではないか?」という旨の投稿をし、ネオダーウィニズムを支持している月蛇からの猛反発を受けた。

    おましたなー。
    これは、そもそも、セッソーと銅鐸の責任でおマスかね〜。
    ご迷惑をおかけいたしましたでおます。

    獲得形質の遺伝といえば、ネズミのしっぽを切って繁殖を重ねれば、短いしっぽのネズミになるのか、そんなわけないだろ〜というのがおましたな。
    まあ、第三者がしっぽを切っても形質を獲得しておるわけで破おまへんしね。

    セッソーが印象深く思っておるのは、ヘビを見たことのないサルでも、ヘビを見て恐怖するサルを見るとすぐにヘビを恐怖するようになるが、花を見て恐怖するサルを見てもそうなることは余りないという話でおました。


    正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理
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■36950 / )  おくたがわさん江
□投稿者/ 転法 -(2024/03/28(Thu) 09:18:39)
    >「こうしないと」が自分には分かりませんでした。

    これはすべてのものに神が内在しているというよりも、すべてのものはすべてを包含する神の一部であるという考え方である。

    これはでンね、「すべてのものに神が内在している」とすると、すべてのものと神は同等になってしまいまッしゃろ。
    そこで、神を常に上位に置くために「すべてのものはすべてを包含する神の一部である」としたわけだと思いまンねん。
    神は常に最上位者であると言う、信条や思想に関係のない(彼らのとっての)揺るぎない事実を歪めないためでおマスわねー。

    すべてのものと言うと、糞と神は同等なんて事にもなりかねまへん。
    そりゃ、殺されマンがな。
    もっとも、仏教では糞と仏が同じものであっても問題ないんでおマスがねー。

    >全ての網羅は不可能なので「必然的に〜」「全ては〜」といった全称的な結論は導けない。
    >そして、網羅できない部分(未来も含め)も同様であろうという推測は「自然の斉一性原理」をよりどころとするが、それ自体が常に成立するという保証が無い。ということでしょうか。

    今までの経験でそうだったからといって、全部そうだと決めるのは早計と言うもんでッしゃろ。
    まあ、演繹しているわけではないんで、論理が全部ひっくり返るわけではないんでおマスがね。


    >帰納法によって導いた前提が帰納法の正当化に使われるという循環になる、ということでしょうか?

    その通りでおます。


    >という流れが見事だと思いました。

    いや〜、なんだか照れまンね。


    >より大きい調和の中の部分的な、あるいは変遷過程としての不調和という話があったと思いますが、
    >ある不調和が不要で有害なものなのか、時を得ればむしろ意味のあるものだと分かることはないのか。早計に解釈を限定して物理化学的に処理するのでなく、様子を見ながら全体の調和を図っていく方が有効で危険が少ないことがあるように思います。素人意見ですみませんが。

    いやいや、その通りでおマス。
    セッソーが思うに、そもそも、運動するものの調和というのは不調和のコントロールのようなもので、静止したような調和では運動になりまへんからねー。
    この辺りはカオスのストレンジアトラクターなんかが、そういう状態を現しているんじゃないかとおもーておりまンねん。
    よく、整体やカイロなんかでは、身体が歪んでいると言いマンが、そもそも身体は歪んでおるのが当たり前なのでおマス。
    だから、利き足とか利き手とかがあるわけで、いつでも素早く足が出せるのは、身体の方が転倒するような状態を保っているからでンね。


    >あと、誤植の発見が割と得意なのですが、そういうのは不要ですか?

    是非、よろしくお願いいたしますでおマス。


    正法無常宗祖師 沙門転法(/\)南無一切無常絶対超越真理

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■36949 / )  現代日本の葬式仏教
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 08:20:28)
    外道から原始仏教を見れば外道と判断されるいうことですかねぇ〜。
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■36948 / )  「ノコギリの喩え」と十善戒
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 08:10:03)
    おはようございます、pipitさん。横レス失礼します。
    以下はスルーで結構です。^^

    No36945に返信(pipitさんの記事)

    > ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    > 出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。
    > どうなのかなぁ…

    以前のYahoo!掲示板でasahi803803さんという女性の密教修行者がいました。
    凄く謙虚でかつ人格者でもあり尊敬できる方でした。

    その方は他者(少しアラシっぽい人)に自分の真意が伝えられずに度々自省していました。それに対して僭越ながら私は「本当に他者に何かを伝えたいと思うなら時には明王のような厳しさをもって接することも必要ではないか。それができないなら文字だけの掲示板で他者に理解を求めることは諦めることも必要だと思います」というアドバイスをしたところ「私には、明王ほどの悟りはなく、よって、そのような境地で『掲示板に向かうことができない』ということです。一度でも『汚い言葉(文字として)』を書き込んでしまった時から、すべてを無くしてしまうような恐怖感が拭えないのです。勿論、私の未熟さです。明王の境地にない私が、もし一度でも『明王のような』、明王の真似事をして投稿をしたならば、きっと、間違った方向へ進んでしまうのではないか、という恐怖心があるということです。これは、転法祖師のご指摘通り、密教修行者として『十善戒』を破ることへの恐怖でもあり、私の未熟さです。」と返信されたことが思い出されました。

    その方は2008年2月の行中に倒れ彼岸に旅立たれました。
    asahi803803さんを偲んで。。。。
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■36947 / )  Re[75]: 消しゴム機能
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/28(Thu) 07:39:45)
    2024/03/28(Thu) 07:40:32 編集(投稿者)

    おはようございます、田秋さん。レスありがとうございます。

    No36946に返信(田秋さんの記事)

    > https://androidjiten.com/archives/12262

    > これによれば、AIが

    > 1.消すものの輪郭を判断し(人か猫か傘かタワーか、など)
    > 2.消した部分をその周辺の景色から推測して描く

    > ということらしいです。

    > ===
    > 写真左がオリジナル。左の女性陣を消したのが写真右。しかし一番右の女性の靴が消し切れていません(下の写真)。

    ほんと凄いですねぇ〜。

    > 心霊写真のような・・・

    ははは。心霊写真も簡単に作れそうですね。
    左から二人目の女性のバッグも残ってますね。
    不思議。。。^^
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■36946 / )  Re[74]: 消しゴム機能
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/27(Wed) 22:15:50)
    こんばんは、パニチェさん

    書き込みありがとうございます。

    https://androidjiten.com/archives/12262

    これによれば、AIが

    1.消すものの輪郭を判断し(人か猫か傘かタワーか、など)
    2.消した部分をその周辺の景色から推測して描く

    ということらしいです。

    ===
    写真左がオリジナル。左の女性陣を消したのが写真右。しかし一番右の女性の靴が消し切れていません(下の写真)。

    心霊写真のような・・・
1200×900 => 600×450

kesigomu2.jpg
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■36945 / )  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 19:17:05)
    2024/03/27(Wed) 20:07:15 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No36943
    >
    > >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<
    >
    > この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。<

    うん、確かに、とも思うんだけど、

    pipitの感想として、言葉の影響まで考慮されての説法なのかなとも思えるんだよね。

    石飛先生訳の最後らへんを引用させていただくと、m(_ _)m

    『。比丘たちよ、このように学ばねばならない。
    比丘たちよ、おまえたちは鋸の喩えの教えをつねに心にとどめていなさい。比丘たちよ、おまえたちは、細かなことでも大ざっぱなことでも、承認できないようなことばの使い方を見るだろうか」
    「いいえ、尊師よ」
    「それでは、ここで、比丘たちよ、この鋸の喩えをつねに心にとどめておきなさい。それは、長夜にわたり、おまえたちの利益と安楽をもたらすだろう」と。』

    https://manikana.net/canon/kakaca.html

    ことばを何か言われても、ノコギリの喩えを覚えているように、ということかなーとpipitは上の引用文を捉えてるんだけど、
    出家した弟子なら、釈尊にこう説かれたことで、いろんな場面で心持ちが変わってくるかもしれないなぁと想像してるよ。

    どうなのかなぁ…
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■36944 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 19:00:20)
    ワンくんの散歩行ったら、遠くからけっこう大きなキツネがずっとこっちを見ていた。

    ワンくんは鈍感なので気づかない。

    うちのワンくんはしつけがなってないので、キツネに気づくと絶対取り乱して大変そうなので、気づかせないために立ち位置変えたりヒヤヒヤした。

    (ーー;)

    ワンくん、結果、最後まで気づきませんでした U・x・U
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■36943 / )  Re[25]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/27(Wed) 18:55:51)

    >経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』<

    この教え、手足を切り落とされた人が言ってるんだったら、すごい人だな、ってわたし思うけど。
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■36942 / )  Re[73]: 消しゴム機能
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/27(Wed) 16:48:36)
    こんにちは、田秋さん。横レス失礼します。

    No36937に返信(田秋さんの記事)
    > スマホの写真フォルダに《消しゴム》という機能があって、やってみました。

    > 上の写真が簡単に下の様になります。

    > 凄いですねえ〜

    > (写真は道後温泉本館)


    消した人物のブラインドになってた背景をどうやって修正してるんですかねぇ〜。

    スマホの中で修正名人の小人が直してるのかな(笑)


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■36941 / )  ネオダーウィニスト月蛇との激論3
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/27(Wed) 16:34:39)
    月蛇からの反論は以下のような内容。

    ドグマチックと言われることは(非科学的でドグマチックな)創造論者を批判しているネオダーウィニストからすれば屈辱的だし、何故そのように言われるのか納得できない。
    獲得形質は遺伝しないということは分子生物学の常識かつ科学的に証明されていることであって、これを前提とすれば、またまの変異で(例えば)蛇に恐怖する個体が生まれ、他の個体よりも蛇の餌となる(最初の哺乳類はネズミのような小型動物で恐竜を避け草陰が生活圏であったため蛇に出くわすことが多かったと思われる)リスクが軽減されることによって、その子孫が拡散し繁栄していったと考えることの方が真っ当であって、ドグマチックと言われる筋合いはない。

    ************************************

    これに対する私の反論。

    特定の動物に恐怖反応を示すような(厳密には他の個体が蛇に怯えているところを目撃することをきっかけとして恐怖反応が発動する)遺伝子配列がランダムな突然変異でたまたまできると考えることが普通ではない。例えば顔や指紋による認証システムは情報の入力(顔や指紋の登録)があって他と区別することができるわけで、何の入力(獲得形質)もなく、たまたま出来上がるなんて考えることが普通ではない。

    ************************************

    続く

    PS.上記も含め以降の激論内容については時系列的なところまで細かく覚えてないので内容が前後したり抜け落ちていることもありえる。

返信/引用返信 削除キー/

■36940 / )  日記
□投稿者/ pipit -(2024/03/27(Wed) 10:36:54)
    晴れてきたなー

    空を見ながら、味噌せんべいおやつで食べちゃおうかなー

    春だなー
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■36939 / )  気になること
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/27(Wed) 10:16:10)
    2024/03/27(Wed) 17:18:24 編集(投稿者)

    上川隆也主演の遺留捜査というドラマを観た。今回は事件に将棋の駒が関係し、その流れで糸村が「将棋打ち」という言葉を使った。

    ボクには相当違和感がある。将棋は「指す」で、「打つ」は碁の用語だ。それぞれのプレーヤーを「将棋指し」、「碁打ち」と言う。唯一、相手から取って駒台に載っている駒を盤面に置くときのみ「打つ」と言う。※

    バイオリンを「吹く」、写真を「採る」と言っているのと同じ。

    ドラマだから台本があり、その校訂もするはずだ。

    英語ならテニスもピアノもplayでOKだけれども、日本語はまだそこまで合理的(?)にはなっていないのでは???

    以前ほど「日本語が乱れとる!」と思わないようにはしているが、微妙な響きの違いというものも疎かにしたくないなあ。

    ひょっとしたら「将棋を打つ」はもう市民権を得ているのだろうか ?(*_*)?

    ===
    ※ 棋譜を書くときや読み上げるとき、盤上の駒を動かしてそこへ行ったのか駒台の駒をそこへ置いたのか判別できないときにのみ、例えば4五に金があり、駒台にも金があった場合、「5五」には盤上の金を進めることも駒台の金を置くこともできる。そのとき駒台の金を5五に置いた時のみ「5五金打」と表現する(盤上の金を動かしても「5五金指」とは言わない)。また5五に相手の駒がありそれを45の金で取った時は5五金と表現する。何故なら相手の駒のある升目には自分の駒を置くことが出来ないからだ。
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■36938 / )  Re[24]: 『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ pipit -(2024/03/26(Tue) 22:05:15)
    2024/03/26(Tue) 22:11:14 編集(投稿者)

    knowingitselfさん、こんばんは!

    No36936
    > 悪をなされた場合についてのお経ですが、
    >
    > スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。<

    私も所持しています(^ ^)v

    ここで『ノコギリのたとえ』の説明を....

    wiki『鋸喩経』より抜粋引用
    『鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacupama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
    経名は「ノコギリの喩え」を意味する[2]。釈迦の教えを学ぶ者は、のこぎりによって、手足を切り落とされた時であっても、争いの世界に堕することが無いようにせよ、という教えである。』

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8%E5%96%A9%E7%B5%8C

    wikiに経文の日訳がほんの少しだけ載ってたので引用させていただきます。※記号省略

    『比丘たちよ、他人があなたがたに話しかけるときに使用する、言葉の種類が五つある。適した時機に語る、もしくは適さない時機に語る、真実に基づいて語る、もしくは虚実を語る、柔和に語る、もしくは粗暴に語る、有益に語る、もしくは無益に語る、慈しみの心で語る、もしくは怒り(dosantara)の心で語る。

    そのために比丘たちよ、このように学ぶべきである。私たちは、心(citta)が変化しないようにしよう、 私たちは、悪しき言葉を発さないようにしよう。私たちは、情ある者(anukampi)、慈しみ(metta)の心ある者、瞋恚(dosa)なき者として生きよう。私たちは、その人を慈しみの心によって満たそう、またすべての世界に対しても、増大した、増幅した、超越した、無量の、害意なき、慈しみの心で満たして住足して生きよう。まさに比丘たちよ、このように学ぶべきである。』


    石飛道子先生のサイトの『心にしみる原始仏典』のページには、石飛先生が日訳された「鋸喩経」が全文のっています。(^人^)ありがたいですー

    「鋸喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第21経

    https://manikana.net/canon/kakaca.html


    knowingitselfさん、書き込みありがとうございます!
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■36937 / )  消しゴム機能
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/26(Tue) 22:02:48)
    スマホの写真フォルダに《消しゴム》という機能があって、やってみました。

    上の写真が簡単に下の様になります。

    凄いですねえ〜

    (写真は道後温泉本館)
666×1000 => 400×600

kesigomu.jpg
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■36936 / )  『ノコギリのたとえ』
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/26(Tue) 18:42:33)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    悪をなされた場合についてのお経ですが、

    スマナサーラ長老による、「怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む」という著書がありましたね。所持していますが、さすがという内容です。
返信/引用返信 削除キー/

■36935 / )  道標
□投稿者/ 時 -(2024/03/26(Tue) 15:45:14)
    2024/03/26(Tue) 19:26:24 編集(投稿者)

    十数年前に出会った先輩が仰っていた事柄が、今になってようやく繋がる。

    きっと先輩も同じような経験をされていたのだろう。

    同じような道を歩んでいた先輩に、少しでも近づけただろうか。想いは伝わるだろうか。
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■36934 / )  ストア派
□投稿者/ akaimi -(2024/03/26(Tue) 08:40:23)
    2024/03/26(Tue) 08:42:30 編集(投稿者)

    『ストア派』ジャン=パティスト・グリナ 著 川本 愛 訳
    を一通り読んでみました。

    著者は、フランス国立科学研究センター研究部長、古代思想研究所所長で、古代哲学の国際的な研究者であり、一般向けの書物でストア派の普及にも貢献。と、紹介にあります。


    興味深く感じたところを断片的に引用していってみます。

    ヘレニズム期にゼノンにより始まったとされるストア派。
    ===
    とくに、ゼノンが火を特別な構成要素として重視したことはヘラクレイトスに負っている。
    ===p18より

    ===
    同様に、ゼノンが、魂は物体でありプラトンの「イデア」は思考の対象でしかないとして、非物体的な実体が存在するというプラトン的な主張を批判したのも、キュニコス派とメガラ派の流れを汲んでいる。
    ===p19より

    ===
    倫理学においてゼノンは、ただ徳だけが善であり悪徳だけが悪であるが、善悪無差別のもののうち、たとえば健康のようなものは優先される価値をもつものであると主張した。
    「義務(適切な行為)」という概念を発明し、義務のうちに完全な義務というカテゴリ―を区別した。
    あらゆる情念を否定し、情念を誤った判断として考えた。
    ===p19〜p20より

    しなければならないとされることを現代では「義務」とするけど、ゼノンは「義務」を「適切な行為」と定義していたようです。

    情念というのは感情に支配されることを意味するのだろうと考えます。
    そしてそれは適切な行為ではない(義務ではない)となるのかな。


    ゼノンには何人か弟子がいて、ゼノンの後継者として選ばれたクレアンテスという人は元拳闘家だそうです。
    ===
    クレアンテスはゼノンの自然学におけるヘラクレイトス的な部分、とくに魂が「プネウマ(気息)」であるという理論を強調した。「トノス(緊張力)」の理論、つまり万物の実体が、火によって生みだされた緩むことのない緊張力を受けているという理論を初めて提唱したのは、クレアンテスだったようである。
    ===p21より

    魂はプネウマ(気息)である、と考えていたのですね。
    気息は非物体的な存在ではないものね。



    続きはまた。


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■36933 / )  Re:手術創の方は快方に向かっていますが
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/26(Tue) 08:32:12)
    おはようございます、キティダニエルさん。レスありがとうございます。

    No36929に返信(キティダニエルさんの記事)
    > 体力の方がなかなか改善しません。

    そうですか。お大事になさって下さい。

    手術創の方は快方に向かっているとのことなので、体力の回復は焦らずボチボチいきましょう♪


返信/引用返信 削除キー/

■36932 / )  Re[76]: 感謝
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/26(Tue) 07:56:30)
    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。
    この手の議論は親しい友人であっても妥協したり忖度しないというのが昔からの私の(ネット&リアルでの)スタンスなので返信させてもらいます。

    No36930に返信(うましかさんの記事)

    > >ちなみに以下が報道特集「安楽死を考える」です。番組最後のスタジオでの司会者と取材記者による締めの言葉はカットされていますが。。。
    > https://www.youtube.com/watch?v=iWhg_PCfd9g
    > 視聴いたしました。

    視聴してもらったんですね、ありがとうございます。^^

    > とても有意義に感じました。ありがとうございました!
    > この内容はゴミではないですね、私にとっては。

    ドキュメントの内容自体は安楽死に関する是非も双方の事例や主張を取り上げていること等々、よくできているし有意義だと私も思います。
    京都地裁で安楽死関連で嘱託殺人などの罪に問われた医師への裁判が始まったタイミングでもり、世間への問題提起としてこのドキュメントはゴミではなく玉石混淆の中でにあって“玉”だと思います。

    > ついでに、、、カットされていた締めの言葉↓についてですが、
    > >「安楽死を選択せざるをえないような現在の障害者やその家族にとって厳しい社会を改善するのが先決」
    > 本編を視聴し終えた私としては、まあ可もなく不可もなくといったところですかね。いわゆる「第四の権力」としてのマスメディアの立場からすれば、その矛先が「社会」、あるいはそれを治める「権力」に向けられているということでしょうか。

    上記に関してはうましかさんと私では意見が違いますね。
    いつものありきたりで無難な、言い換えればメディアや記者の保身丸出しのコメントにしか思えません。

    > 最後に。
    > 耐え難く続く心身のペインから解放されるため、生の終わりを決めた当事者の障害の受容がどのようなものか、その家族をはじめとする近しい人々の終わりの受容はいかなるものか、終わりを援助する医療者の質はどうか、、、後半、ALSの方の一人が懸念していたのは、これらが熟さずして社会的に死の選択へのハードルだけが下がることなのかもしれないなとおもいました。曰く、
    > >安楽に死ねる制度があるのに、あえて使わなかったのだから、「使わなかったあなたは苦労して生きることを受け入れなさいよ」と思われてしまいそう

    ここもうましかさんとは意見が違います。
    一人の医者にある特定患者の安楽死を認めるかどうかを決定させるのはリスクがあります。当然、複数の医師によって期間をおいて本人の意志を確認するような制度であるべきだとは思いますが、それでも家族をはじめとする近しい人々の終わりの受容、終わりを援助する医療者の質等々を懸念するのなら(安楽死が法制度化された後も)その患者は安楽死を選択しなければいいいし、さらに今この国で認められている尊厳死をどう考えているのかも疑問です。

    > 以上、この話題への私の返信はこれにて終了いたします。
    > ありがとうございました。

    こちらこそ、お付き合いいただきありがとうございました。

返信/引用返信 削除キー/

■36931 / )  都会の病院にて
□投稿者/ アートポット -(2024/03/26(Tue) 07:44:27)
    2024/03/28(Thu) 19:18:18 編集(投稿者)
    2024/03/26(Tue) 12:18:10 編集(投稿者)

    兄弟から電話にて都会の病院に来てくれとのことにて一度も来院にてことないので父親も辿り着きようもないって困りながら出掛けてにてにょ。心配にてにょ。


    追記
    尿路結石にて救急車にて運ばれてにて、入院の必要ないとのことにて安心にてにょ。凄まじい激痛とのことにてにょ。

    追記
    デイケア珈琲予算 千円4枚 百円40枚 用意。
    三菱銀行に4万円にて振り込む。
返信/引用返信 削除キー/

■36930 / )  感謝
□投稿者/ うましか -(2024/03/26(Tue) 02:57:37)
    パニチェさん、こんばんはー

    >ちなみに以下が報道特集「安楽死を考える」です。番組最後のスタジオでの司会者と取材記者による締めの言葉はカットされていますが。。。
    https://www.youtube.com/watch?v=iWhg_PCfd9g

    視聴いたしました。

    とても有意義に感じました。ありがとうございました!

    この内容はゴミではないですね、私にとっては。



    ついでに、、、カットされていた締めの言葉↓についてですが、

    >「安楽死を選択せざるをえないような現在の障害者やその家族にとって厳しい社会を改善するのが先決」

    本編を視聴し終えた私としては、まあ可もなく不可もなくといったところですかね。いわゆる「第四の権力」としてのマスメディアの立場からすれば、その矛先が「社会」、あるいはそれを治める「権力」に向けられているということでしょうか。

    最後に。

    耐え難く続く心身のペインから解放されるため、生の終わりを決めた当事者の障害の受容がどのようなものか、その家族をはじめとする近しい人々の終わりの受容はいかなるものか、終わりを援助する医療者の質はどうか、、、後半、ALSの方の一人が懸念していたのは、これらが熟さずして社会的に死の選択へのハードルだけが下がることなのかもしれないなとおもいました。曰く、

    >安楽に死ねる制度があるのに、あえて使わなかったのだから、「使わなかったあなたは苦労して生きることを受け入れなさいよ」と思われてしまいそう



    以上、この話題への私の返信はこれにて終了いたします。

    ありがとうございました。


返信/引用返信 削除キー/

■36929 / )  手術創の方は快方に向かっていますが
□投稿者/ キティダニエル -(2024/03/26(Tue) 01:40:21)
    体力の方がなかなか改善しません。
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■36928 / )  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/26(Tue) 00:08:54)
    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36922に返信(pipitさんの記事)

    > なるほどー
    > なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    はい。そういう事ですね。論の中での見解は、何かを主張するという事になりそうです。何かを主張するという事は、何かに対する固執があります。何かの固執があるという事は、その近くには貪りがあります。貪りがあるという事は苦からの解放はありえません。ですので、仏陀たちは、見解としての主張の仕合いとしての議論をしませんとなるのですね。勿論、私の理解ではですが。

    > あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    出入息念の事でしょうか。もしもpipitさんが原始仏典に拘られるのであれば、中部経典62経「大ラーフラ教誡経」が参考になると思いますよ。

    > どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。

    はい。今は、ダンマパダをおすすめください。ご返信は不要です。
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■36926 / )  証券会社の勧誘くどいにて。。
□投稿者/ アートポット -(2024/03/25(Mon) 19:27:13)
    証券会社の勧誘くどいにて数千株購入にてくれくれって言うけど元本保証(補償・保障)にて無いのに購入にて訳無いにて。ー二三Σ(((⊃`・ω・´)⊃cU <アイス珈琲飲むにてにょ。
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■36925 / )  Re[71]: ガンダーラ
□投稿者/ flora -(2024/03/25(Mon) 17:59:24)
    No36906に返信(田秋さんの記事)
    田秋さん、おはようございます。

    > 3月17日に貼った
    > https://true-buddhism.com/history/genjo/
    > に、玄奘が辿ったルートの地図があります。敦煌の少し右に逆向きの矢印(←と→)書いてありますが、行きは高昌〜亀茲を通る北側ルート(天山南路)を取りました。帰路に海路を取らなかったのは高昌国の王・麹文泰と「帰りに必ず寄ります」という約束をしたからです。
    >
    > 麹文泰は熱心な仏教徒で玄奘が高昌国に来た時、手厚くもてなしました。しかしその情熱は度が過ぎていて、玄奘に天竺に行くのは止めにしてこの地に留まり仏法の講義をすることを頼んだのです。しかし玄奘の意志は変わるものではありません。
    > 王は脅迫まがいなことも言い出します。
    > 「私の許可がなければこの国からでることはできません。或いは師を唐へ送り返すこともできるのです」
    > 玄奘
    > 「無理にお止めになっても骨がここに残るだけで精神は王の自由にはなりません」
    > しかし、王は許さず、自ら食事を運ぶことにしました。
    > そこで玄奘は断食の道を選び、三日間呑まず食わずの行に入ると4日目、遂に王は深く恥じ
    > 「師よ、どうか自由に西行して下さい」
    > そして
    > 「帰還の日、どうかこの国に3年留まり弟子(わたくし)の供養を受けて下さい」
    > 玄奘はこの申し出を受け入れました。
    > この約束をまもるため玄奘は陸路で帰途に着いたのです。
    >
    > 高昌国はしばらくは唐と良好な関係を続けましたが、その後近隣諸国との軋轢が色々あり、それが原因で唐の太宗に攻め込まれ、麹文泰は病死し(640)、結局高昌国は滅亡しました。
    >
    > 一方、玄奘は天竺で10年研鑽を積み、帰国の途に着いたのは641年頃です。この時、高昌国滅亡のことはまだ知りません。そのためもと来た道を帰ることになります。
    >
    > 帰路の途中で西域南高昌国滅亡のことを耳にしました。そこがどこだったのか正確には知りませんが、道の道を取る少し前だったのでしょう(ガンダーラの辺り?)。
    >
    > 麹文泰との約束を守る意味もなくなったため、玄奘は天山南道に比べるとまだしも進むのに容易な西域南道で唐に戻ることになります。
    >
    > 海路を取らなかっのは以上の理由からです。

    どうもありがとうございます。高昌国の麹文泰と約束をしたからですね。リンクの地図によりますと天山南道と西域南道の分岐点が当時はバーミヤン当たりのようですので、高昌国滅亡の話を聞いたのは、この分岐点の前、そして情報の集まる土地、私もガンダーラではないかと思います。

    そして命がけで持ち帰った経典を収めたのが西安の大雁塔ですよね。

    https://www.youtube.com/watch?v=Hp4wN89eZhI&ab_channel=going%E8%B5%B0%E8%B5%B0looking%E7%9C%8B%E7%9C%8B
    >
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■36924 / )  ネオダーウィニスト月蛇との激論2
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/25(Mon) 17:14:49)
    2024/03/26(Tue) 06:48:40 編集(管理者)

    数年に及ぶ激論が勃発したのは以下の引用とレス。

    『扁桃は特定の対象に反応するような遺伝子配列になっていて、まるで構造自体のなかにその対象の表現を持っているようである。霊長類の場合は、もぞもぞはいまわる虫や、高い場所、それにある種の動物に恐怖を感じるようになっていて、「ヘビ+危険」という概念が生まれる前から組み込まれている。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と意識の地図形)』

    「上記のことを知っているにもかかわらず獲得形質遺伝を認めないネオダーウィニストは、論敵である創造論者と同じようにドグマチックではないか?」という旨の投稿をし、ネオダーウィニズムを支持している月蛇からの猛反発を受けた。

    ネオダーウィニズムというのは遺伝学(突然変異)と自然選択説を進化の原動力とした現代進化論の主流の学説あるいはフレームワークである。

    分子生物学のセントラルドグマを根底としており、獲得形質遺伝を否定している。
    セントラルドグマとは遺伝情報はDNA→複製→DNA→転写→RNA→翻訳→タンパク質の順に一方通行で伝達されており、その逆の流れはないという分子生物学の基本原則。

    つまり生後の経験によって獲得したり学習した形質(形体や性質)は遺伝情報に伝達されないということ。

    ランダムな突然変異(遺伝子情報の伝達エラー)の中でたまたま生き残りに優位な変異を有した個体の子孫が生き残り種の主流となっていくことで進化が生じるという発想。

    高いところの木の実を食べようとすることでキリンの首が長くなったということではなく(これは獲得形質遺伝を認める発想)、たまたま首が少し長く生まれた個体が他の個体よりも優位になり(低いところの木の実が食べ尽くされた森林においては首の長い個体の餌が豊富になり)その子孫が拡散していくという学説。

    たまたまのランダムな変異で霊長類の天敵である「もぞもぞはいまわる虫や、高い場所、それにある種の動物(蛇や猛禽類)に恐怖を感じる(恐怖を発動する)遺伝子配列が形成されるなんてことはありえないと考えるのが普通の発想であって、この手の反証例になるかもしれない脳科学の知見を知っても頑なに獲得形質遺伝を否定し続けるスタンスは科学に真摯に向き合っているとは言えず、宗教のドグマを信じて疑わない創造論者と変わらないのではないか?ということを主張した。

    これに対する月蛇の反論は次回。


    PS.おくたがわさんへ。私の記憶違いがあれば遠慮なく指摘して下さい。
    ちなみに、おくたがわさんはこの激論に巻き込まれてしまった被害者です。^^

返信/引用返信 削除キー/

■36923 / )  knowingitselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:40:13)
    No36920-36921
    knowingitselfさん、返信ありがとうございます!

    > 私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    > スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    > 同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    > ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。
    >
    > 現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    > やはり「ドーサ」というのがピンとくる。<

    そうだったんですね!
    私も(?)仏教の物の見方はとてもおもしろく、役に立っているように感じています。


    No36921
    > ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。
    >
    > それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?
    >
    > この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。
    >
    > 「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39
    >
    > これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。<

    悪をなされた時は?でpipitが思い出すのは、サーリプッタ尊者のお話です。

    『マンガ原始仏典・ブッダの教え』より

    https://buddha.pink/setuwa/96/

    スマナサーラ長老のサーリプッタ尊者についての法話

    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou242/

    knowingitselfさんは本当に博識ですね!
    書き込みありがとうございます(^○^)♪
返信/引用返信 削除キー/

■36922 / )  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 16:14:09)
    No36919
    兄上さま、返信ありがとうございます(^ ^)

    >>兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!<<

    > はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。<

    なるほどー
    なんにしろ『見解』にしてはならない、ということかなーと思いました。

    > pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    > 過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)<

    小さな会社なので、働く人も家族的になって、私もその上司に「お父さん、」などと間違えて言ってしまいそうになるくらいなので、結局は甘えてるんだと思います
    (ーー;)
    やさしい人にはみんな甘えてわがまま言ったり理不尽な八つ当たりしたりなりがちなように思います..
    反省です...

    > はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。<

    すごく網羅的に記述されてますよね。
    あと、アーナパーナサティスッタも知らないながらも興味はあるんですよねー。

    ↓検索してでてきたブログ

    https://search.yahoo.co.jp/amp/s/clover.fcg.world/2016/10/10/7053/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQGsAEggAID

    どうなるかまだわかりませんが、今のところダンマパダを読んでいきますね。
    ありがとうございます♪
返信/引用返信 削除キー/

■36921 / )  Re[22]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 15:16:26)
    ダンマパダ125は自ら悪をしないようにというお経であって、他人から悪をなされた場合の対応法を語っているのではないと読めます。

    それでは、まさしく他人から悪をなされたときは?

    この点について興味深いのは、たとえば、新約聖書です。

    「右の頬を打つ者には、ほかの頬も向けなさい」マタイ福音書5・39

    これはキリスト教だけの教えというより、霊的な普遍の真理を表現していると思う。釈迦の掴んだ真理と矛盾しているはずはないと思います。
返信/引用返信 削除キー/

■36920 / )  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/25(Mon) 13:45:17)
    pipitさん 返信ありがとうございます

    >やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    >ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    >テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    >ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    >どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。
     
    そうだと思います。


    私の理解では「怒らないこと」が何をおいても優先されるのだと捉えています。
    スマナサーラ長老の「怒らないこと2」にかなりの影響を受けています。これは素晴らしい書です。
    同書は私にとっては仏教開眼の一つといっていいくらい。とくに、第二部第二章の「怒りの種類」。
    ドーサという基本の怒りとその変形である9種、全部で10種類の怒りが人間の苦しみの原因になるという。

    現代日本の文脈における「怒り」ではなかなか本質をつかめないと感じていますが。
    やはり「ドーサ」というのがピンとくる。

返信/引用返信 削除キー/

■36919 / )  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2024/03/25(Mon) 12:42:54)
    pipitさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36918に返信(pipitさんの記事)

    > 自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、
    > でも私が読んでることは私には確実なので、
    > 『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。

    なるほど。pipitさんのご認識は了解しました。

    > だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v

    それはそれは、光栄なことですね(^^)v

    > 最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ )
    > よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。
    > また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。

    > 抜粋引用します。
    > 『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。
    >  以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。
    > しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』
    > ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)

    引用をありがとうございます。
    過去、何時頃だったかは忘れましたが、小部経典は、他経典とは別物だという事をどこかで読んだような気がします。

    ジャイナ教といいますと苦行という言葉が思い浮かびますが、原始の中には、仏陀が法を説いた、裸行者や木の樹皮をまとった行者、犬行に励む修行者等が出てきますが、多分ですが、これらの行者の事なのでしょうね。

    > いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。

    当時、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持っていたのであれば、その可能性は大いにありそうですね。そして多分ですが、当時の他沙門集団と決定的に違ったのが、四禅定の行のあるなしだと思います。

    > 兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!

    はい。といいましても、細かいことになるのですが、それを理論的なことと捉え(理解し)てしまわれない方が良いと思います。理論と捉え(理解し)てしまうと、常見や断見に陥りやすいからですね。ですので、中部や長部には、その実践とその論理(道理)が説かれてるようですよ。

    >>現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<

    > はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。

    > が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)

    pipitさんが怒っている姿が、全く想像できません(笑)
    過去、仏教を学ぶ以前のお話ですが、仕事先等で怒っているお相手のお話を聞いていると、論理破綻しているのが一瞬でわかったりしたのですね。あるときは堂々と、あるときは恐る恐る論理破綻の箇所を尋ねてみたことがありますが、、どちらにしても火に油がほとんどでしたので、現在では、その個所が分かったとしても、ほぼほぼ尋ねずにスルーしていますかね(笑)

    > 仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています
    > (#^.^#)♪♪

    カント哲学も私は全く知らないのですが、pipitさんが出会えて良かったとお感じになられているのであれば、喜ばしいことですね。^^

    > 兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。

    はい。大念処経も押さえておいた方が良い経典の中の一つですね。

    > いつも本当にありがとうございます!!

    こちらこそ、いつもお付き合いをありがとうございます。
返信/引用返信 削除キー/

■36918 / )  時さんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 10:08:15)
    2024/03/25(Mon) 10:40:39 編集(投稿者)

    兄上、おはようございます!

    No36912
    >>ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。<<

    > なるほど、これならば納得できそうです。私の想いとして、なぜ、現行で日本語に訳されているものがあるのに、パーリから英文訳にされたものをpipitさんは、時間をかけて日本語訳にされているのかが不思議だったのです。仏陀の説いた各種の実践の方法等ならば、中部経典、長部経典でほぼ事足りるように思っていたからです。なるほど、仏陀の言葉をpipitさんへの諭す言葉として訳されていたのですね。(^^)<

    自分以外の人のお役に立ったなら、もっのすごく嬉しいですが、それは不確かで、
    でも私が読んでることは私には確実なので、
    『最低私1人のためにだけでも役に立つような記事にしよう。』と、上記の気持ちで日訳しています。

    だからこうして兄上に書き込んでもらえるのは、『望外の喜び』なのです(o^^o)v

    仏教らしさ満開なのは『長部経典』や『中部経典』かもしれませんね。

    最近読んだ『ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、ちくま新書では、これまで通説とされてきた説への別の捉え方が提示されていました。(p32- 韻文優先説と人間ブッダ )
    よく『ダンマパダ』や『スッタニパータ』が古い、と言われますが、その並行句がジャイナ教などの聖典にも確認されているそうです。
    また、『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの韻文の経典は初期の三蔵に入ってなかったけど、途中で三蔵に組み込まれたという考えを清水先生は述べられていました。

    抜粋引用します。
    『したがって、仏典の編纂者たちは、ジャイナ教などの沙門宗教と共通の基盤を持ち、多くの詩を共有していたことを自覚していた。このような事情から、当初の仏教教団において、韻文資料は傍系のものと見なされ、聖典(三蔵)として認められていなかったのだと考えられる。
     以上の二つの問題点を踏まえるならば、仏教のエッセンスは、韻文資料ではなく、散文資料にこそ求められることになる。近年では、このような理解をもとに、韻文資料を捨象し、散文資料によってのみ初期仏教を描こうとした概説書も現れている。
    しかし、韻文資料も部派を超えて教団内に伝承され最終的に初期仏典(三蔵)としての権威が認められた事実は重んじられるべきである。そこで本書においては、散文資料と韻文資料の両方を用いながら、ブッダの先駆性を歴史の中に位置づけていく。』
    ((ブッダという男---初期仏典を読みとく』清水俊史さん著、p36より引用)

    いろんな考え方があると思うのですが、pipit的には、その当時にあった句を釈尊や兄弟子がアレンジして修行中の弟子に授けていた可能性もあるなぁと想像(妄想)しています。
    馴染みのある句を仏教的に組み替えてしまうと、馴染みあるので心にも覚えやすく入りやすい、かな、とか....
    特にダンマパダは『心構え集』みたいな(^◇^;)

    兄上のおっしゃる通り、実践や理論的なことは『長部』や『中部』の方がものすごく具体的に説かれているようですね!

    > No36904
    > >罵った方は、
    > >『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。<<

    > そうなのです。記憶の中での多くの仏典内では、大抵がこのような表現がされてるのですね。私が感じましたのは、当時の人々は、不善人でもかなり素直な人が多かったのだろうか?とか、上手く仏陀の元に出家した人々の事だけが書かれているのだろうか?とか、相手が仏陀たちだからなのか?とかいろいろと思うところがありました。まぁ、当時のインドの文化と現代の日本の文化の背景の違いもあるように思いますしね。(笑)<

    はい。2500年前のインドですもんね。


    > 現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)<

    はい、私も自分の心で思ってるだけですが、上司が怒ってたら、内容の感情は受け取らず論理だけ受け取るように心掛けます。。。

    が、めったに怒られない上司に少し感情的に怒られたときは、実際は、『上司に簡単に返事をしない刑』を一日近く実行しました。。。(怒ってますー 未熟者pipitですー)


    > No36771
    > >実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。<

    仏教(とカント哲学)に出会えてよかったなーと個人的には実感しています
    (#^.^#)♪♪

    > という事で、日本語訳、今後もお励みくださいね。では、この辺で。m(__)m<

    兄上の書き込みなどから影響を受けて、中部の『大念処経』の英訳を日訳してみてもいいかなぁとか思いつつもあります。

    いつも本当にありがとうございます!!

返信/引用返信 削除キー/

■36917 / )  Re[2]: 超越論的分析論\−6
□投稿者/ pipit -(2024/03/25(Mon) 08:44:13)
    うましかさん、こんにちはー(^∇^)

    No36908
    > あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )<

    もうすぐ うまさんとしかさんの日ですね!
    ちょうど桜の開花と重なるかなー??

    > ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。<

    認識の段階で、知覚から普遍的概念へと高まろうとする....
    この道順はロックさんの主張と重なるところがある、と....


    > ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。<

    でもアプリオリな概念の演繹は、知覚→普遍的概念 への道には含まれていない。


    > ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。<

    アプリオリ → 純粋概念

    にも関わらず、経験からの産出の証明(血統書) も 私たちの生と関わる『学』に純粋概念も使用するつもりなら 提出義務がある。


    > ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。<

    なるほどー
    違うかもだけど、、、、

    生理学的導出の試みが、論理学の判断表から純粋悟性概念を導出することなのかな、と思いました。


    > *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕
    >
    > ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    > また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。<

    カントは、判断表からアプリオリなカテゴリーを導出して、
    >所有〔Besitzes〕<の説明
    をなしたあと、
    次は
    >この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕<
    にとりかかる、と....

    うましかさんのおかげで、カントの記述に向き合うことができます。
    大感謝です!

返信/引用返信 削除キー/

■36916 / )  Re[20]: ネオダーウィニスト月蛇との激論1
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/25(Mon) 08:39:40)
    2024/03/25(Mon) 08:41:51 編集(投稿者)

    おはようございます、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No36914に返信(おくたがわさんの記事)
    > ■No36894に返信(パニチェさんの記事)
    > 月蛇案件の方が断然面白いので、私の議論話は当分休載します(笑)

    いやいや、おくたがわさんの投稿も楽しみにしてたのに。。。
    気が向かれたら同時進行で投稿できればいいなぁ〜。
    無理強いはしませんが。。。^^

    No36913に返信(おくたがわさんの記事)
    > ■No36905に返信(パニチェさんの記事)
    > knowing itselfさん パニチェさん
    > おはようございます。

    > 恐怖心を制御する唯一の方法が呼吸法、といった米海軍のツイートを以前見た覚えがあったので「恐怖心 呼吸法 軍隊」でググってみると、
    > 米海軍以外にも旧ソ連軍・ロシア特殊部隊、自衛隊もヒットしました。
    > 自律神経を意識的にコントロールできるのが呼吸と。

    ググってみます♪
返信/引用返信 削除キー/

■36915 / )  マスゴミはゴミでありながら巨大な権力
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/25(Mon) 08:37:58)
    2024/03/25(Mon) 09:39:55 編集(投稿者)

    おはようございます、うましかさん。レスありがとうございます。
    以下は自分なりの意見をレスしてみますがスルーでも結構ですし、返信はお気遣いなく。
    もちろん、どなたからでも異論・反論も歓迎します。

    No36910に返信(うましかさんの記事)

    > にもかかわらず、「マスゴミ」という言葉を目にすることがめずらしくなくなった昨今、ネットの普及と情報発信ツールの発達で膨大な情報がマス(大衆)主体で、マス−から−排出された生ゴミ、というような自身の勝手な解釈で、私自身もこうして排出しているゴミ(投稿)を自嘲気味にマスゴミと表現してやりたくなります、時々ですが(´-`).。oO
    > とはいえ、↓といった楽しみもあるようです(;´・ω・)
    > https://www.soken.ac.jp/news/2020/20210324_1.html

    玉石混淆ですね。嘘と誠も混在しています。
    マスゴミに限らずSNSにしてもリテラシーは重要だと思います。
    ただマスゴミと個人発信の決定的な違いは巨大な権力を有しているかいないかです。
    マズゴミは取材した上で評価し、これを報道することで、実質的な社会的制裁も与えます。
    警察、検察、裁判官を自己完結的できる営利を目的とした民間組織(国営メディアを除いて)でありながら実質的には巨大な権力を有しているってことだと思います。

    > というわけで、 No.36893 (パニチェさん)
    > 「安楽死を選択せざるをえないような現在の障害者やその家族にとって厳しい社会を改善するのが先決」
    > こうした言説も、マスの排出した生ゴミの一片と解しつつ、愛でるというのも一興かとおもうのでした。(ま〜●ソの山から何を宝の原石として拾うかは個々の関心によるのでしょうが…(´-ω-`) )

    私は上記のような締めの言葉(特に「先決」という言い回し)は愛でることはとてもできませんし、このような締めの言葉は高級味噌に見せかけたクソだと思います。要するに当事者でなく差し迫った問題としての緊迫感もない、ある意味平和ボケした第三者の戯言くらいにしか聞こえません。そもそも安楽死の是非を問うドキュメントであるにもかかわらず論点ぼかしも甚だしいし、できるだけ批判されない締めの言葉であることが見え見えで気持ち悪い。社会保障(金銭的負担の軽減)や介護問題(老々介護)をテーマとするなら安楽死を取り上げる必要などない。

    > ◆「安楽死」を選択せざるを得ないような状況とはどのような状況を言うのか?
    > → 状況の例 : パーキンソン病、CIGP( CIDP?慢性炎症性脱髄性多発神経炎)、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者
    > ・https://www.nanbyou.or.jp/entry/169
    > ・https://www.nanbyou.or.jp/entry/4089
    > ・https://www.nanbyou.or.jp/entry/52
    > ◆そうした選択を迫られるような当事者やその家族等を取り囲む社会の、(その報道番組が問いかけた)改善すべき「厳しさ」とはどのようなことか?
    > ・この番組を観ていないので、うましかには不明(;´Д`A ```
    > ・だが難病に罹りながら生きる当事者に対して、「社会」(他者)の側にできることとは何かを考える問題提起としては意義が無いとはおもわない。

    この番組をご覧になってないので当然かもしれませんが、上記のうましかさんの見解は発言の趣旨とは違うと思います。
    まず、安楽死が法制化されるなら病気も無制限なんてことはありえないし、上記に上げられたような病気に限定されるでしょう。それに加えて回復の見込みがないとか、痛みや苦痛が増していく、家族の同意はもちろん、本人への意志確認も(報じられた一人の医師が判断するスイスとは違い日本のことですから)複数の医師によって期間を開けた確認等々、いろいろと段階を踏んで実施されるような制度となるでしょう。

    で、ドキュメント(番組)の流れからして「安楽死を選択せざるをえない」状況とは、上記の条件に当てはまるのは当然のことながら介護にかかる費用や家族への精神的肉体的負担、介護する側の高齢化等々も加味して考えた場合に「安楽死を選択せざるをえない」状況になった場合のことだと思います。

    ドキュメントにもありましたが「こんなに介護が大変ならば、自分の家族の介護負担をなくすために安楽死しよう、という人が必ず出てくると思います(岡部宏生さん)」「安楽死が本当に必要な人以外に、どんどん広がってしまうことが恐ろしいです。だから安楽死に強く反対です(同氏)」ということです。

    私はそれも含めて当人が自己責任でもって自らの死を選択できるようにすべきだと考えています。安易な死かどうかなんて他人は決めれないし、安楽死が必要でない人ってのは法制化でもって制限すればいいことだし、その上で本当に必要かどうかも他人は決めれない。

    自分のこととして言えば「自分の家族の介護負担や金銭的な負担をなくすために安楽死しよう」という(家族と話し合った結果としての)結論もありです。
    そんなことを心配しないで済むような社会は理想ですが、そんな社会がこの国に近々訪れるなどとは思えないし、そんな綺麗ごとは、安楽死を選択するか否かの判断に際して屁の突っ張りにもならない。

    以前にBBCが制作した安楽死関連のドキュメント番組を見たことがあります。
    その中で安楽死を選択したALS患者が語った「いつでも楽に死ねるという選択肢があるから、未来に恐怖する(どんな苦しい死に方になるのか恐れる)ことなく今日を精一杯生きれる」という言葉が印象に残っています。

    また安楽死を反対する理由は尊厳死(消極的安楽死)にも当てはまるものであって、安楽死のみに反対するロジックにはならない。
    そもそも苦しみながら死んでいくかもしれない尊厳死を認めて、安らかに死ねる安楽死を認めない理由も私にはいまいち分かりません。

    > ◆ 報道番組は事実をできるだけありのままに伝えることに徹し、番組制作者の意図やコメントや感想などは排除できるか?
    > ・個人的な見解をも述べるならば、制作されたものである以上、それは無理だとおもいます。後は、その意図なりコメント、感想を例えば「余計」と感ずるか否かという、視聴者側の受入の問題だともおもいますが、受入が拒絶されることも意図して番組が制作されている可能性もあるため、私の場合は「余計」なものに巻き込まれたくない場合はそこから離れます。

    事実をできるだけありのままに伝えることは難しいかもしれませんがこの視点に立てば余計なコメントは不要だし、NHKやBBCのドキュメント番組にはよくあることです。
    もちろん、先にも述べたようにリテラシーは重要だと思います。

    > ちなみに、
    > >TBS報道特集
    > 最近は見かけることはあっても選択して観た記憶はありませんが、他局や他番組同様、もともと「締め」には全く期待していません( ̄ー ̄)
    > では〜

    ちなみに以下が報道特集「安楽死を考える」です。番組最後のスタジオでの司会者と取材記者による締めの言葉はカットされていますが。。。
    https://www.youtube.com/watch?v=iWhg_PCfd9g


    『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』
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■36914 / )  Re[19]: ネオダーウィニスト月蛇との激論1
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/25(Mon) 07:57:07)
    No36894に返信(パニチェさんの記事)
    月蛇案件の方が断然面白いので、私の議論話は当分休載します(笑)


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■36913 / )  Re[21]: ベータエンドルフィン
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/25(Mon) 07:55:31)
    No36905に返信(パニチェさんの記事)
    knowing itselfさん パニチェさん
    おはようございます。

    恐怖心を制御する唯一の方法が呼吸法、といった米海軍のツイートを以前見た覚えがあったので「恐怖心 呼吸法 軍隊」でググってみると、
    米海軍以外にも旧ソ連軍・ロシア特殊部隊、自衛隊もヒットしました。
    自律神経を意識的にコントロールできるのが呼吸と。








返信/引用返信 削除キー/

■36912 / )  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ 時 -(2024/03/25(Mon) 01:33:13)
    2024/03/25(Mon) 01:54:45 編集(投稿者)

    pipitさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36903に返信(pipitさんの記事)

    > ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。

    なるほど、これならば納得できそうです。私の想いとして、なぜ、現行で日本語に訳されているものがあるのに、パーリから英文訳にされたものをpipitさんは、時間をかけて日本語訳にされているのかが不思議だったのです。仏陀の説いた各種の実践の方法等ならば、中部経典、長部経典でほぼ事足りるように思っていたからです。なるほど、仏陀の言葉をpipitさんへの諭す言葉として訳されていたのですね。(^^)

    翻訳の表現やその解釈等は、個々人でのそれらで私は良いと思います。

    No36904
    >罵った方は、
    >『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。

    そうなのです。記憶の中での多くの仏典内では、大抵がこのような表現がされてるのですね。私が感じましたのは、当時の人々は、不善人でもかなり素直な人が多かったのだろうか?とか、上手く仏陀の元に出家した人々の事だけが書かれているのだろうか?とか、相手が仏陀たちだからなのか?とかいろいろと思うところがありました。まぁ、当時のインドの文化と現代の日本の文化の背景の違いもあるように思いますしね。(笑)

    現実に私ごときがそれをやろうとすると、火に油だと思いますので、その例えの意味するところやその道理は理解できたとしても、同じようなこと(お相手に対する言葉としての例え)は、よほどでない限りは行いませんかね。ただ、怒りの言葉に対して怒りの言葉で返さず、その場から自然に離れることでしょうか。(過去、実際に何度かその道理を説明したことがあるのですが、ほとんど誰もそれへの理解には至りませんでした)

    No36771
    >実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。

    という事で、日本語訳、今後もお励みくださいね。では、この辺で。m(__)m
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■36910 / )  マスメディアはマスメディアでしかない
□投稿者/ うましか -(2024/03/24(Sun) 23:55:41)
    2024/03/25(Mon) 08:38:36 編集(投稿者)
    2024/03/25(Mon) 00:12:11 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんはー

    私は幼少時からテレビのなかでしたり顔でコメントする人間に嫌悪を感じて育ちました。なので報道番組にはストレスを感じないよう、感情をなるべく平板にして観るようにしています(´-ω-`)チーン

    にもかかわらず、「マスゴミ」という言葉を目にすることがめずらしくなくなった昨今、ネットの普及と情報発信ツールの発達で膨大な情報がマス(大衆)主体で、マス−から−排出された生ゴミ、というような自身の勝手な解釈で、私自身もこうして排出しているゴミ(投稿)を自嘲気味にマスゴミと表現してやりたくなります、時々ですが(´-`).。oO

    とはいえ、↓といった楽しみもあるようです(;´・ω・)

    https://www.soken.ac.jp/news/2020/20210324_1.html

    というわけで、 No.36893 (パニチェさん)

    「安楽死を選択せざるをえないような現在の障害者やその家族にとって厳しい社会を改善するのが先決」by マスゴミ

    こうした言説も、マスの排出した生ゴミの一片と解しつつ、愛でるというのも一興かとおもうのでした。(ま〜●ソの山から何を宝の原石として拾うかは個々の関心によるのでしょうが…(´-ω-`) )


    ◆「安楽死」を選択せざるを得ないような状況とはどのような状況を言うのか?
    → 状況の例 : パーキンソン病、CIGP( CIDP?慢性炎症性脱髄性多発神経炎)、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者

    https://www.nanbyou.or.jp/entry/169
    https://www.nanbyou.or.jp/entry/4089
    https://www.nanbyou.or.jp/entry/52

    ◆そうした選択を迫られるような当事者やその家族等を取り囲む社会の、(その報道番組が問いかけた)改善すべき「厳しさ」とはどのようなことか?

    ・この番組を観ていないので、うましかには不明(;´Д`A ```
    ・だが難病に罹りながら生きる当事者に対して、「社会」(他者)の側にできることとは何かを考える問題提起としては意義が無いとはおもわない。


    ◆ 報道番組は事実をできるだけありのままに伝えることに徹し、番組制作者の意図やコメントや感想などは排除できるか?

    ・個人的な見解を述べるならば、制作されたものである以上、それは無理だとおもいます。後は、その意図なりコメント、感想を例えば「余計」と感ずるか否かという、視聴者側の受入の問題だともおもいますが、受入が拒絶されることも意図して番組が制作されている可能性もあるため、私の場合は「余計」なものに巻き込まれたくない場合はそこから離れます。

    ちなみに、

    >TBS報道特集

    最近は見かけることはあっても選択して観た記憶はありませんが、他局や他番組同様、もともと「締め」には全く期待していません( ̄ー ̄)


    では〜


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■36909 / )  卒業証書
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/24(Sun) 22:10:10)
    2024/03/25(Mon) 09:20:29 編集(投稿者)

    今日、学位記授与式があった。

    晴れて一般大学卒業生の仲間入りができました。

    学長のビデオメッセージがあり、「放送大学は誰でも入れるが(高校卒業資格が必要)、卒業するのは3割」とのことであった。

    ここ三重学習センターからは今年度約30名の卒業生があり、そのうち13名が式典に出席したが、その過半数はボクより年上だとお見受けした。

    勉強が好きな人はいっぱいいるんですね!
750×1000 => 450×600

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■36908 / )  超越論的分析論\−6
□投稿者/ うましか -(2024/03/24(Sun) 21:56:20)
    2024/03/24(Sun) 21:57:15 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    お久しぶりになってしまいました〜(;´・ω・)

    あーもうすぐ四月か! (;゚Д゚)(゚Д゚; )

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕
    第二章 純粋悟性概念の演繹について

    第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について

    ◆ 私たちは、今や既に二種類の概念を持っている。この二種類の概念とは、種類は全く異なるが、それでも、両者とも完全にア・プリオリに〔全ての経験に完全に依存せずに 〕対象と連関するという点においては互いに一致している。
    それら〔二種類の概念〕とは、つまり、感性の形式としての空間及び時間の概念と、悟性の概念としてのカテゴリーである。
    これらの諸概念〔空間・時間、カテゴリー〕について、経験的な演繹〔根拠づけ、権利づけ〕を試みようとすることは全く無益な仕事であろう。というのも、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の本性の特質とは、これらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕が己の対象を表象するために、何ものかを経験から借りてくること無しにその対象と連関するという、まさにこの点にあるからである。
    それ故、もしこれらの諸概念〔空間と時間、カテゴリー〕の演繹が必要ならば、それはいつでも超越論的〔な演繹〕でなければならないであろう。

    *1 概念@ 感性の形式:空間と時間 −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象
    概念A 悟性の概念:カテゴリー  −ア・プリオリな連関− 対象 → 表象

    ◇しかしながら、私たちは、これらの諸概念についても、全ての認識についてと同様、それらの可能性の原理を探し出すのではない場合には、それらの産出の機会因をやはり経験において探し出すことができる。その時には感官の印象が、これらの諸概念に関する全認識能力を活動せしめ、経験をせしめる最初の機縁を与える。
    この経験は、二つの極めて異種的な要素、すなわち、感官に基づく認識のための実質〔質料〕≠ニ、純粋な直観〔作用〕及び純粋な思考〔作用〕の内的源泉に基づきこの実質〔質料〕を秩序づける、或る種の形式≠ニを含んでいる。こうした純粋な直観〔作用〕と純粋な思考〔作用〕は、実質〔質料〕を機会として、まず活動をはじめ、そして概念を産み出すのである。

    ―― No.36646,36657 の続き ---

    ◇ 私たちの認識力〔Erkenntniskraft〕が、個々の知覚から普遍的概念へと高まろうとする最初の努力をこのように跡付けてみることは、疑いなく極めて有益なことであり、そのための道が初めて開かれたのは、あの有名なロック〔John Locke, 1632-1704〕≠フおかげであるとしなければならない。

    ◇ しかしながら、ア・プリオリな〔全ての経験に完全に依存しない 〕諸純粋概念の演繹〔根拠づけ、権利づけ〕≠ヘ、ロックの開いた道によっては決して成功することはない。何故なら、ア・プリオリな諸純粋概念の演繹は、徹頭徹尾この道にはないからである。

    ◇というのも、経験には全面的に依存してはならないそうしたア・プリオリな諸純粋概念の将来の使用について、これらの諸純粋概念は、経験からの血統を示す出生証明書を示すことができなければならないからである。

    ◇ このような生理学的な〔physiologische〕導出の試みは、事実の問題(quaestionem facti)に関するので、そもそも演繹〔根拠づけ、権利づけ〕とは全く呼ばれることができないである。なので、私はそうした導出を純粋認識の所有〔Besitzes〕*1≠フ説明と呼ぼうと思う。

    *1 「私は、ア・プリオリな〔つまり、全ての経験に完全に依存しない〕諸概念が対象と連関し得る仕方を示す説明を、それらの諸概念の超越論演繹≠ニ名付け、それを経験的演繹≠ゥら区別する。経験的演繹とは、或る概念が経験と経験についての反省によって、いかにして獲得されるに至ったかを示すものである。だから、〔経験的演繹は〕その概念の適法性〔合法性〕にではなく、〔それによって〕その概念が所有されるに至った事実に関わるのである。」〔 No.36646 より引用。〕

    ◇ 従って明瞭なのは、この純粋認識については超越論的演繹〔根拠づけ、権利づけ〕のみがあり得るのであって、経験的演繹は断じてあり得ないということであり、
    また、経験的演繹は、ア・プリオリな諸純粋概念に関しては、空しい試み以外の何ものでもなく、そうした試みに携わることができるのは、こうした純粋認識の極めて特異な本性を理解していない人だけでしかあり得ないということである。


    † 原佑訳上巻、p.237〜p.238参照。 原典はMeiner, p.166〜p.167
    † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.95〜p.96、石川文康 訳 上巻,p.146〜p.147
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908
    \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600
    [−4 No.36127、[−5 No.36266
    [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113
    Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259
    Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795
    Y−10 No.33776
    Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668
    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849,
    No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795,
    No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266
    第二章 
    第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908

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■36907 / )  Re[71]: 大相撲
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/24(Sun) 21:42:39)
    尊富士が110年ぶりの偉業を達成した。

    昨日の相撲で足を痛め、歩けないほどだったので、千秋楽の出場が危ぶまれたが、立派に勝ち切った。

    ただ、怪我への対応は非常に難しいと思う。無理に相撲を取ったばかりにその後の相撲に禍根を残すこともある。

    この偉業達成の一番を前に
    「将来の為休め」
    とは親方でも言えないだろう。

    結果オーライ、とにかくおめでとうございます!
返信/引用返信 削除キー/

■36906 / )  Re[70]: ガンダーラ
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/24(Sun) 21:17:26)
    こんにちは、floraさん

    3月17日に貼った
    https://true-buddhism.com/history/genjo/
    に、玄奘が辿ったルートの地図があります。敦煌の少し右に逆向きの矢印(←と→)書いてありますが、行きは高昌〜亀茲を通る北側ルート(天山南路)を取りました。帰路に海路を取らなかったのは高昌国の王・麹文泰と「帰りに必ず寄ります」という約束をしたからです。

    麹文泰は熱心な仏教徒で玄奘が高昌国に来た時、手厚くもてなしました。しかしその情熱は度が過ぎていて、玄奘に天竺に行くのは止めにしてこの地に留まり仏法の講義をすることを頼んだのです。しかし玄奘の意志は変わるものではありません。
    王は脅迫まがいなことも言い出します。
    「私の許可がなければこの国からでることはできません。或いは師を唐へ送り返すこともできるのです」
    玄奘
    「無理にお止めになっても骨がここに残るだけで精神は王の自由にはなりません」
    しかし、王は許さず、自ら食事を運ぶことにしました。
    そこで玄奘は断食の道を選び、三日間呑まず食わずの行に入ると4日目、遂に王は深く恥じ
    「師よ、どうか自由に西行して下さい」
    そして
    「帰還の日、どうかこの国に3年留まり弟子(わたくし)の供養を受けて下さい」
    玄奘はこの申し出を受け入れました。
    この約束をまもるため玄奘は陸路で帰途に着いたのです。

    高昌国はしばらくは唐と良好な関係を続けましたが、その後近隣諸国との軋轢が色々あり、それが原因で唐の太宗に攻め込まれ、麹文泰は病死し(640)、結局高昌国は滅亡しました。

    一方、玄奘は天竺で10年研鑽を積み、帰国の途に着いたのは641年頃です。この時、高昌国滅亡のことはまだ知りません。そのためもと来た道を帰ることになります。

    帰路の途中で高昌国滅亡のことを耳にしました。そこがどこだったのか正確には知りませんが、西域南道の道を取る少し前だったのでしょう(ガンダーラの辺り?)。

    麹文泰との約束を守る意味もなくなったため、玄奘は天山南道に比べるとまだしも進むのに容易な西域南道で唐に戻ることになります。

    海路を取らなかっのは以上の理由からです。

返信/引用返信 削除キー/

■36905 / )  ベータエンドルフィン
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/24(Sun) 18:51:50)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No36901に返信(knowingitselfさんの記事)
    > >視床と扁桃体は、もともと近い場所にあり、神経組織の束で結ばれている。また扁桃体は闘争や逃避反応とコントロールする視床下部ともうつながっている。これがルドゥーの言う「ぬかるみの近道」で、ここを通れば、情報は1000分の1秒単位の速さで、目から体に到達する。恐怖の条件づけは、情報がこの近道を通るときに起こるようだ。たいていの記憶は、大脳辺縁系のなかにある小さな、しかしとても重要な海馬によってコード化される。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と心の地形図)

    > 上記にある「闘争や逃避反応」というのが、呼吸にストレートに影響を与えるわけですね。自分の呼吸をみれば、ごまかしようがないわけです。呼吸が速くなると交感神経優位で、呼吸がゆったりすると副交感神経優位。逆にいうと、常時ゆったりした呼吸をしながら心を「観る」ことに習熟できれば、脳の「闘争か逃避」という構造を変えることができる可能性があるのだと。

    確かに、そうかもしれません。
    呼吸をコントロールすることで直接的には制御できない視床下部を間接的にコントロールするってことになるんでしょうね。
    その結果、恐怖を発動する扁桃体が沈静化し、副交感神経優位になることで、脈拍、血圧、体温もリラックス状態になり、脳波もα波となり快楽物質であるベータエンドルフィンも分泌されるってことになるのかな。
    数息観は外部刺激によって扁桃体が刺激され活性化する逆ベクトルと言えるかもしれませんね。

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/ans/57/1/57_21/_pdf/-char/ja


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■36904 / )  Re[21]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ pipit -(2024/03/24(Sun) 17:46:10)
    2024/03/24(Sun) 21:05:14 編集(投稿者)

    No36903
    >思い出した経典文章があって、本を開いて読んでみたら、[神々の主であるサッカ]さんの言葉なんですけど、<

    あら!
    No36898で時兄上が書き込みくださった話題の経典を読んでみたら、サッカさんと同じような言葉を釈尊も仰ってました。

    釈尊を罵った方に、
    『『怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人、
    心が静まったそのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。
    怒った人に対して怒り返す人は、それによって悪をなすことになるのである。
    怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。
    他人が怒ったのを知って、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、自ら気を落ちつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人との両者のためになることを実行しているのである。
    真理に通達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人のことを、『かれは愚人だ』と考える。」』
    などとお説教(?)したら、
    罵った方は、
    『すばらしいことです。ゴータマさん!』と出家して阿羅漢になったとのことです。

    (『ブッダ悪魔との対話サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、岩波文庫、p129.130参照)

    関西パーリ語実習会さまの日訳は、『7.2. 罵倒の経』
    https://suttacentral.net/sn7.2/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false




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■36903 / )   ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ pipit -(2024/03/24(Sun) 16:56:26)
    時さん、knowingitselfさん、御二方とも書き込みありがとうございます!!
    (*^▽^*)喜♪

    ダンマパダの英訳を日訳してる時、お釈迦さまからpipitへ諭すことばとして訳しています。
    そのようなイメージで浮上する気持ちとしては、やはり実践者の心の清浄行が焦点になってるのかなぁという感想です。

    ダンマパダ125の解説を二つ見てみました。

    テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老
    https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou050/

    ココロとカラダのセルフケアさん

    https://north-market.com/care/dhammapada-contents/9-evil/

    どちらの解説も、『実践者が怒らない』ことをメインに説かれています。

    でもpipitの個人的感想ですが、全体的に悪を起こすこと自体を減らす教えとしても活用でき得るのではないかとも想像しています。

    実践者本人が清らかになって、経典文の内容が真実だとして、可能な範囲でいかに生じる悪(苦しみ)を減らすことができるか、、、

    思い出した経典文章があって、本を開いて読んでみたら、[神々の主であるサッカ]さんの言葉なんですけど、

    『怒った人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪をなすことになるのである。

    怒った人に対して怒りを返さないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

    他人が怒ったのを知っても、みずから気をつけて静かにしているならば、その人は、自分と他人と、両者のためになることを行っているのである。』

    (『ブッダ悪魔との対話サンユッタ・ニカーヤU』中村元先生訳、岩波文庫p262.263より引用)

    相応部経典の11『サッカ(帝釈天)に関する集成』の第五節『善いことばによる勝利』という経典文章でした。

    ※関西パーリ語実習会さまの日本語訳
    『善く語られたものによる勝利の経』
    https://suttacentral.net/sn11.5/jpn/kansai?lang=en&reference=none&highlight=false

    まだまだ寒いですね、みなさまどうぞご自愛くださいませ!
    書き込みありがとうございますo(^▽^)o
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■36902 / )  Re[69]: ガンダーラ
□投稿者/ flora -(2024/03/24(Sun) 16:14:19)
    No36892に返信(田秋さんの記事)

    田秋さん、おはようございます。

    > https://www.worldfolksong.com/popular/gandhara.html
    > ここにはゴダイゴの『ガンダーラ』について色々書かれていますが、作曲の経緯も書かれています。かいつまんで書くと
    >
    > 作詞は奈良橋陽子で、当時夫のジョニー野村とともにゴダイゴのプロデュースを手掛けていました。作詞を依頼されたのですが、西遊記に合った異国情緒あふれるエキゾチックな内容を持った歌詞をリクエストされました。しかし奈良橋にはそういう経験が殆どなく唯一思いついたのが大学で学んだガンダーラ美術だったのです。
    >
    > そういう訳でこの歌はオリジナルの西遊記や堺正章=夏目雅子の西遊記の中味とは関係なく作曲されたわけです。作曲を手掛けたタケカワユキヒデは
    > 「西遊記でガンダーラについて歌うということで、その整合性を突っ込まれたらどうしようかと思っていたが、後から三蔵法師がガンダーラへ行ったことがあると知って胸をなでおろした」
    > と語っています。

    そうなんですね。あまり調査をせずに作詞をなさったわけですね。ガンダーラといえばアレキサンダー大王が紀元前330年ころ、遠征もしていてそこにヘレニズム文明を持ち込んだのですよね。あの仏像の衣の素晴らしいドレープはまさにヘレニズムですよね。

    ちなみに玄奘三蔵の時代にはすでに「海のシルクロード」も確立されていたと思いますが、なぜ帰路はなぜ海路を取らなかったのでしょうか? ナーランドからなら海路で上海や南京まで行き、そこから北上して西安というルートも可能だったと思いますが、どうなのでしょうね?

    > 玄奘は帰国後太宗に頼まれ《大唐西域記》著しましたが、そこにガンダーラ国のことが記されています。国ですからある程度広さがあるわけですが、時代によって広さも異なります。概ね今のペシャワールがガンダーラ国の首都であったようです。

    そういえば、ペシャワールの仏像がタリバンによって破壊されたという事件がありましたね。
    https://www.afpbb.com/articles/-/2666847
    >
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■36901 / )  Re[19]: ネオダーウィニスト月蛇との激論1
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/24(Sun) 15:36:33)
    >視床と扁桃体は、もともと近い場所にあり、神経組織の束で結ばれている。また扁桃体は闘争や逃避反応とコントロールする視床下部ともうつながっている。これがルドゥーの言う「ぬかるみの近道」で、ここを通れば、情報は1000分の1秒単位の速さで、目から体に到達する。恐怖の条件づけは、情報がこの近道を通るときに起こるようだ。たいていの記憶は、大脳辺縁系のなかにある小さな、しかしとても重要な海馬によってコード化される。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と心の地形図)

    パニチエさん 横レス失礼します。

    上記にある「闘争や逃避反応」というのが、呼吸にストレートに影響を与えるわけですね。自分の呼吸をみれば、ごまかしようがないわけです。呼吸が速くなると交感神経優位で、呼吸がゆったりすると副交感神経優位。逆にいうと、常時ゆったりした呼吸をしながら心を「観る」ことに習熟できれば、脳の「闘争か逃避」という構造を変えることができる可能性があるのだと。
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■36900 / )  Re[19]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/24(Sun) 15:10:49)
    ダンマパダ125は、自らが清らかな相手を傷つける愚か者になることを戒める章句であって、自分を傷つける相手を小馬鹿にして立ち去ることを正当化する内容ではないと思いますね。
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■36899 / )  Re[18]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/24(Sun) 14:58:49)
    >こちらが同じ土俵上で受け取らなければ、怒れる人の怒れる言葉は、そのお相手の反応がないことにより本人に還るしかありませんから。勿論、その本人に向かって「そのまま持って帰るがよい」なんて言葉を言うと、火に油ですが。(笑)

    横レス失礼します。ちょっと感情を害されたら、それこそ失礼しましたですが。

    私ならそのように解釈しません。自分を純粋で汚れのない立場に置いて、相手を小馬鹿にするような危うさがないとはいえないのではないでしょうか。それこそ相手と同じ土俵上で勝ちにいってるように思えます。

    (笑)などつけるところなど、仏教的でないですね。
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■36898 / )  Re[17]: ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ 時 -(2024/03/24(Sun) 14:26:29)
    pipitさんへ。こんにちは。

    > 悪を為さずに汚れのない純粋な人に向けて、悪を為す人は誰であっても、
    > その悪は愚か者に裏目に出ます。
    > 風向きに逆らって投げられた塵のように。

    例えば、相手から怒りの言葉をはかれたとき、同じ土俵で、同じ次元での言い争いを回避して、自然に離れられるのが良いですね。

    No36736 (akaimiさんの記事)
    > もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    > わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    > あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

    こちらが同じ土俵上で受け取らなければ、怒れる人の怒れる言葉は、そのお相手の反応がないことにより本人に還るしかありませんから。勿論、その本人に向かって「そのまま持って帰るがよい」なんて言葉を言うと、火に油ですが。(笑)

    いくら大谷翔平さんの剛速球でも、強風の向かい風にむけて塵を投げれば、本人が塵まみれになるようにですね。
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■36897 / )  ダンマパダ第九章『悪』・125
□投稿者/ pipit -(2024/03/24(Sun) 13:42:22)
    みなさまこんにちは!ダンマパダ125のBhikkhu Sujatoさま英訳をpipitが日訳してみました。

    Whoever wrongs a man who has done no wrong,

    a pure man who has not a blemish,

    the evil backfires on the fool,

    like fine dust thrown upwind.

    悪を為さずに汚れのない純粋な人に向けて、悪を為す人は誰であっても、

    その悪は愚か者に裏目に出ます。

    風向きに逆らって投げられた塵のように。
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■36896 / )  在家者
□投稿者/ 時 -(2024/03/24(Sun) 12:55:45)
    2024/03/24(Sun) 16:35:58 編集(投稿者)

    今回は、居士(在家者)に対して仏陀たちが説いていた法を、順不同で少し書いてみたいと思います。

    ある経典では、広大なる心解脱(心の解放)、無量の心解脱(心の解放)という四無量心が説かれます。これは、最終的に梵天界(天界=善趣)への転生の為の道です。

    他の経典では、死を間近にした者に対して説かれています。

    六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。続いて、六境(色・音・香・味・触・法)に、

    六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)に、六触(眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触)に、六触所生の受に、六界(地界・水界・火界・風界・空界・識界)に、五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)に、無色界(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)に、この世に、あの世に執着しないと学べば、それらに対する識が生じないでしょう。

    この法を聞いた居士は泣き出しますが、その理由が、今までに聞いたことのない法話だったからという事です。それに対してこれを説いた比丘は、これは出家者のみに説かれる法であり、在家者には説かれないのですよと説明しますが、居士は、在家者の中にもこの法を理解できるものがいますので、これからは是非、在家者にも説いてくださいと懇願します。

    他には、四禅定の説明から、それらは、無常にして滅尽の性質あるものだという説明。続いて、四無量心(慈無量心・悲無量心・喜無量心・捨無量心)で心の解放が説かれますが、しかしこれらも思惟されたものだという理解。

    あらゆる色想を超えることで、有対想の滅により無色界に到達しますが、これらも思惟されたものだという理解と同時に、これらも無常であり滅尽の性質あるものだという理解。

    他経典では、俗家の欲を絶ったと言い張る居士(比丘?)に、八つの善法がその説明とともに説かれます。殺生が、偸盗が、妄語が、両舌が、貪求と貪欲が、非難と論争が、忿怒と悩が、過慢が捨断されるべきです。という内容です。

    他にも多くあるようですが、、ここまで書いて気が付きましたが、当時のインドと現代日本でのそれらに対する基礎的な事柄、文化的基盤が全く違うのではないでしょうか。理由は、当時のインドで仏陀たちが村々を托鉢の為に周り、また、食事に招かれた時等に簡略な法を説く場合、それらの言葉の意味を在家者たちは、ある程度以上は知っていたようだからです。例えば、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)とは、こういう事を意味しているのだという事をです。原始に残っているものの説明を書いてみますと、識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の事で識別作用の事であり、六つの識は、六根と六境により生起します。そして、六根と六境と六識の3つで六触と定義されています。完ぺきではないにしても、基本的にこのような事を知っていなければ、いくら当時の在家者たちが仏陀たちに法を説かれたとしても、理解には至らなかったと思います。そして当時は、多くの在家者が天界への転生を達成しているようです。

    文化的背景の違いは、布施という行為に対しても現代日本とは大きくその意味合いが違っているようですね。当時、隠れて行っている者がいたのであれば分かりませんが、当時の仏陀の周りでは、少なくとも金銭のやり取りとしての布施は、存在しなかったようです。布施の定義的なものの記載がありますが、それを現代日本で行った場合、仏陀の説いた最高の供養の内容とともに、非常識だと周りからは判断されるように思います。つまりは、現代日本の仏教から見れば、原始の内容は外道だと判断されるでしょうか。
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■36895 / )  永井均著「〈子ども〉のための哲学」
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/24(Sun) 12:13:18)
    No36148に返信(パニチェさんの記事)

    > ただ一つだけ確実には断言できるのは、今ここに在る「比類なき先言の<私>」は他者にはありえないということ。
    > 何故なら、今まさにここから視野が開け世界を見ている地点はここしかなく、自分の痛みや感覚を体験しているのは〈私〉であることから、他者に〈私〉は当てはまらない。
    > 仮に世界に数多くの自我や私秘性があったとしても、〈私〉が体験する自我や私秘性は広大な時空間において、「今、ここ」の特異点しかないということ。
    > これをもって「比類なき先言の<私>」は唯一無二の存在であるということからパニチェ独自の独在論を「独〈私〉論」と名付ける。

    『そしてこれは、認識論的懐疑論から由来する独我論とはぜんぜん違うものだ。他人には心や意識が存在しないかもしれない、なんて考える必要はぜんぜんない。他の人間はもちろん心あるふつうの人間だ。そこには何の問題もない。問題は、心あるふつうの人間ではない(それには尽きない)このぼくという特別なものが存在し、しかも、それがなければ何もなかったのと同じ、という点にあるのだ。こうして、問題はふたたび独我論とつながる。(永井均著「〈子ども〉のための哲学」P66)』

    「〈子ども〉のための哲学」の初版が「ウィトゲンシュタイン入門」が刊行された翌年1996年5月だから、少なくとも1998年刊行「〈私〉の存在の比類なさ」の時点で永井均氏の独我論(独在論)は認識論的懐疑論をベースとした独我論ではなく、存在論に根付いたものであることが分かる。

    よってあえて「独〈私〉論」などと新たなラベリングなど不要で、永井均氏の「独在論」はそもそも私がNo36148で投稿したことと同じであった。

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■36894 / )  ネオダーウィニスト月蛇との激論1
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/24(Sun) 08:50:49)
    まずは以下の引用から。。。。

    ************************************

    恐怖はなぜ起こるのだろう?どうしてコントロールが難しいのか?ある種の恐怖は、私たちの脳にしっかり刻みこまれている。進化の歴史を遠くさかのぼった昔、人類に危害をおよぼしていたものがかすかな記憶となって残っているのだ。人間の赤ん坊を入念に観察し、また動物を使って実験してみると、特定の刺激におびえることがわかる。その反応は、対象にはじめて遭遇した時に起こるとは限らない。だがはじめて接したときに、気をつけた方がいいと思わせる気配が少しでもあれば、恐怖が深く、しっかりと定着する。

           ・・〈中略〉・・

    五感を通して取り込まれた情報は、ひとまず視床で分類されてから、それぞれの処理領域に送られる。やぶでヘビを見たときのような感情的な刺激の場合、情報は二つに分けられて二系統で流れていく。どちらを通っても最終的には脳の警報装置であり、感情反応の発電装置である扁桃体に到達するのだが、二つの経路はかなり性質を異にする。第一経路は、脳の後部にある視覚野を通る。そこで情報が分析され、わかったことが発信される。この段階では、模様のある細長いものが、いまここでのたくっているという情報にすぎない。脳の認知領域が働きだしてようやく、そのくねくねするものが何か判断される。情報にヘビというラベルがついたことで、長期記憶に蓄積されているヘビ関連の知識が引っぱりだされる──動物で、いろんな種類があって、危険かもしれない?これらの要素がひとつになって、「ヘビだ。ほら、ここ。ぎゃーっ」といった感じのメッセージが作られる。メッセージを聞いた扁桃体が、身体を動かそうとする。
    第一経路は長く曲がりくねっていて、途中にいくつか停留所がある。差しせまった状況だと、これではまにあわない──もっとすばやく反応できるシステムが必要だが、それを受け持つのが第二経路である。視床と扁桃体は、もともと近い場所にあり、神経組織の束で結ばれている。また扁桃体は闘争や逃避反応とコントロールする視床下部ともうつながっている。これがルドゥーの言う「ぬかるみの近道」で、ここを通れば、情報は1000分の1秒単位の速さで、目から体に到達する。恐怖の条件づけは、情報がこの近道を通るときに起こるようだ。たいていの記憶は、大脳辺縁系のなかにある小さな、しかしとても重要な海馬によってコード化される。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と心の地形図)


    怖さを意識するときにも、知識の「使いまわし」が不可欠である。情動を生みだすのは、大脳辺縁系にあって脅威的な刺激に反応する扁桃だ。扁桃が活発になると信号が送られ、逃げる、あるいは戦うといった対応が準備される。だがあなたが実際に恐怖を感じるのはこの信号の「第二波」が前頭皮質に届いたあとである。扁桃は特定の対象に反応するような遺伝子配列になっていて、まるで構造自体のなかにその対象の表現を持っているようである。霊長類の場合は、もぞもぞはいまわる虫や、高い場所、それにある種の動物に恐怖を感じるようになっていて、「ヘビ+危険」という概念が生まれる前から組み込まれている。しかしその概念が「目覚める」ためには、第二の刺激にさらされなくてはならない。それはほとんどの場合、対象におびえているほかの誰かを見ることである。サルの赤ん坊が生まれてはじめてヘビを見ても、恐怖は覚えない。しかしヘビを見ておびえる母親の姿を見ると、赤ん坊はヘビを怖がるようになる。だがそれは、母親の反応が合図になったという単純なものではない。それを示す独創的な実験がある。花に恐怖を覚えるよう条件づけされた母親を、赤ん坊といっしょにゲージに入れる。そこに、花を入れると、母親はおびえて飛びあがる。しかし、赤ん坊はヘビの時とちがって、怖がるよりむしろ当惑するだけで、花に対する恐怖心は生じないのである。人間の恐怖にはいろいろあるが、鳥や虫、ヘビ、高所といった一般的なものは、誰もが避けたがる自然界の危険と密接に結びついている。だが恐怖症にならない人がほとんどなのは、本能的な知識を理解しておらず、意識的な恐怖がうかびあがってこないからだ。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と意識の地図形)

    ************ 引用終わり ************

    上記の内容からセントラルドグマに固執しているネオダーウィニストは批判対象である創造論者と同類の妄信があるのではないかというようなことをレスしたのがきっかけで数年に及ぶ激論が始まった。

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■36893 / )  報道特集 安楽死
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/24(Sun) 08:29:46)
    3月16日TBS報道特集で安楽死に関するドキュメント番組が放送された。

    安楽死を選択するためにスイスに渡航し実行したパーキンソン病の迎田良子さん(64歳)。

    「親の看護がないと生きていけない、自立できない」という理由から両親の反対を押し切り、安楽死を選択したものの最終段階で思いとどまり帰国したCIGP患者のくらんけさん(30歳)。

    「安楽死が本当に必要な人以外に、どんどん広がってしまうことが恐ろしいです。だから安楽死に強く反対です」と表明するALS患者の岡部宏生さん(66歳)。


    個人的には安楽死は選択肢のひとつとして法制化されてもいいとは思う。


    この番組の締めとして取材を担当した記者が次のようなことを語った。

    「安楽死を選択せざるをえないような現在の障害者やその家族にとって厳しい社会を改善するのが先決」

    なんと綺麗ごとというか、どちら側からも異論が起きないような通り一辺倒のしかも悠長なコメントか。

    そんな社会がいつ、どのような手法で、ましてやどういう財源で実現するのか、具体的なことも述べず理想論で締めくくるマスゴミの常套手段。

    個々にとっては差し迫った問題であって、だから京都地裁で行われた裁判(ALS患者の依頼を受けた医師による薬物投与)になるんやん。

    この番組の編集にもある種の意図を感じたが、締めの綺麗ごとは腹立たしくさえあった。

    報道番組は事実をできるだけありのままに伝えることに徹し、番組制作者の余計な意図やコメントや感想など排除せよ。

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■36892 / )  Re[68]: ガンダーラ
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/23(Sat) 22:30:11)
    こんにちは、floraさん

    https://www.worldfolksong.com/popular/gandhara.html
    ここにはゴダイゴの『ガンダーラ』について色々書かれていますが、作曲の経緯も書かれています。かいつまんで書くと

    作詞は奈良橋陽子で、当時夫のジョニー野村とともにゴダイゴのプロデュースを手掛けていました。作詞を依頼されたのですが、西遊記に合った異国情緒あふれるエキゾチックな内容を持った歌詞をリクエストされました。しかし奈良橋にはそういう経験が殆どなく唯一思いついたのが大学で学んだガンダーラ美術だったのです。

    そういう訳でこの歌はオリジナルの西遊記や堺正章=夏目雅子の西遊記の中味とは関係なく作曲されたわけです。作曲を手掛けたタケカワユキヒデは
    「西遊記でガンダーラについて歌うということで、その整合性を突っ込まれたらどうしようかと思っていたが、後から三蔵法師がガンダーラへ行ったことがあると知って胸をなでおろした」
    と語っています。

    ===
    玄奘は帰国後太宗に頼まれ《大唐西域記》著しましたが、そこにガンダーラ国のことが記されています。国ですからある程度広さがあるわけですが、時代によって広さも異なります。概ね今のペシャワールがガンダーラ国の首都であったようです。

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■36891 / )  日記・包摂について2
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 20:13:54)
    次に、純粋悟性概念への包摂のpipitイメージもイラスト化してみました。
    カント的には 感性的現象 と 純粋悟性概念(現象から作られた概念ではなく、知性にのみ由来している概念) は別種なのに、なぜ包摂が可能なのか・・・それは図式が仲介してるから・・
    ということかなと考えています。

    勉強続けてみます(´;ω;`)ウゥゥ


657×355 => 600×324

handan2.jpg
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■36890 / )  日記・包摂について1
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 20:13:03)
    みなさまこんばんは。『図式論』ゆっくりでも進もうと思います。
    概念の包摂についてイラスト化してみました。(いらすとやさんの素材を使用。)

    経験から作られる経験的概念・・・例えば『おにぎり』。
    経験的直観→→→『おにぎり』という概念が生成されたとき、
    →→に含まれる【条件】に各対象が当てはまるかを判断して、個別対象の概念への包摂が行われる。

    wikiよりその【条件】を抜粋してみると、
    『おにぎりまたは、おむすび、握り飯(にぎりめし)は、ご飯を三角、俵、円柱形などに成形し、海苔でつつんだ日本の食べ物。』
    とのこと。
    まず『おにぎり』概念への包摂のpipitイメージをイラスト化してみました。
    この条件は、元々現象から概念が形成される際の条件を抽象(?)したものなので、条件が対象に含まれているか否かを判断することで包摂も可能になるということかなと思いました。


920×605 => 600×394

handan1.jpg
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■36889 / )  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2024/03/23(Sat) 18:14:20)
    2024/03/23(Sat) 18:18:47 編集(投稿者)

    おくたがわさん、こんにちはー
    図式論がpipitの予想よりも超難解そうで、絶望感で倒れていたのですが、おくたがわさんの書き込み読んで元気でましたよー
    p(^_^)q

    No36885
    > こんにちは。前の部分になります、すいません。<

    1年前の返信でも嬉しいですので全くお気になさらずに♪

    >>(訳文)
    >>『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    >>(『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)
    >>
    >>(訳注)
    >>『ここで思考と直観の関係がずれているようにみえるので、ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。多くの邦訳も同じように読むが、あえて訂正する必要はあるまい。』
    >>(同本p318より引用)
    >
    > 面白いですね。
    > 原佑訳はファイヒンガー流、天野と石川康は原文のままでした。
    > 中山元さんのコメントは『カントの文章をそんなに厳密に考えても仕方あるまい』という投げやりを感じました(うそうそ)<

    カントは(私にとっては)ほんとに不思議な人間です。
    捉えどころがないというか、、、また適当なんだからーと思いつつも、いや、まて、もしかして、、、と複数の可能性が頭に浮かぶことも多いです。

    > 追記
    > Xの永井さんの投稿
    >
    > 永井均@hitoshinagai1 2023年3月24日
    > 『ものを書いているとき、わかりやすさと誤解の余地のなさとの選択で、ついつい妥協してわかりやすさを選びたくなってしまうことがあるが、カントを読んでいると一箇所もそういうところがなく、つねに必ず誤解の余地のなさを選択しているのがわかる。これは見倣うべき態度といわざるをえない。
    >
    > だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまいと思う。しかし、これまたさらにだれも言わないことだけれど、概して哲学者は文章が極限的にといえるほどにうまいのではないかと思う。ひたりつくに値する文章が書ける人をほかにはあまり見ない。
    >
    > 話はむしろ逆で、極限的にうまく書かないとけっして通じないようなことを言おうとしているから、ということであろうけれど。つまり、ひたりついて読んでもらわないと読みとれないようなことを書かざるをえない人をほかにはあまり見ない、ということ。』
    >
    > ******
    > だって。すいませんすいません。
    > しかし
    > 『だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまい』
    > 永井さん以外誰も言わないことなんだからしょうがないよね。<

    引用ありがとうございます!
    webで公開中の永井先生の『純粋理性批判を掘り崩す』を読もうとチャレンジしても文章や文意が複雑で、すぐにわからなくなって、、、(ちなみに悪魔ちゃんの文章も難しくて意味を追えなくて、、、)

    永井先生みたいに物事を厳密に考える人は、カントの文章に『上手さ』を見れるのかなぁ!?
    Σ(・□・;)オドロキー

    まぁ、ひいきめがねで、「なんか美しいなー」とカントの文章が思える時はあるんですけど、、、
    はい、度数強めですね!


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■36888 / )  Re[71]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/03/23(Sat) 17:07:44)
    No36880は、『想像的なもの』――わたしこれを〈非現実的な/現にない想像-されるもの〉ってしてる――についてのだけど、追加しとく。

    No36016の(k)の『想像的なものの源泉が情緒にある』っていうのを。

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■36887 / )  一神教の捉え方
□投稿者/ knowingitself -(2024/03/23(Sat) 14:39:27)
    子どもにキリストが存在しているかと問われるなら、すべての人間はキリストに似せて創造されている、受胎した瞬間からそうだというのが、キリスト教というかカトリックの解答になると思う。

    宗教のいかん、民族や国籍のいかんを問わない。クリスチャンと非クリスチャンを問わない。

    似ているモデルは一つしかないというのが一神教であるともいえる。モデルが幾つもあるとはならない。

    人間がそれに似せて創造されたモデルは一つだが、人間や人間集団の多様性と個性は無限といっていい。無限の多様性と個性を可能にするモデルは究極の一。

    人間がそこから始まってそこに回帰する究極のモデル。それを涅槃や空と捉えることも可能。


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■36886 / )  「過去」の実在性について
□投稿者/ rest -(2024/03/23(Sat) 12:22:58)
    2024/03/26(Tue) 09:28:08 編集(投稿者)
    2024/03/23(Sat) 12:36:56 編集(投稿者)

     「過去自体は普通の意味では(すなわち牛乳が冷蔵庫に保存されているようには)まったく保存されていない。保存されているのはせいぜい「痕跡」である。一方で、痕跡に戻ろうというのではない。痕跡は戻らなくとも、今現在存在しております。そして他方、過去自体は一滴も保存されていないのですから、どうあがいてもそこへはトラベルできないはずです。」(中島義道 著『時間を哲学する』講談社現代新書pp94-95)
     カント哲学者の中島義道氏も当然認識されているとおりカントは唯一無二の三次元空間を前提に展開している。無数の空間が存在していると考えるB系列論者(相対論者)とは一線を画している。B系列論者は過去にタイムトラベルできるような「過去」が実在していると考えている。マクタガートもC系列しか認めていないので「過去」実在論者である。なぜ日常では時間が客観的に外に流れているようにみえるのか、ということに少し触れてみたい。
     『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ著 岩波文庫)によれば「神」は類(共同体)の外に投影(疎外態)されたものであり、共同体の合わされた力の大きさや相互扶助の「愛」の精神が外に投影(疎外)されたものである。共同体の内側にある精神が外に疎外されたものである。疎外とは自分がつくりだしたものが自分を支配する構造をいう。共同体が作り出した「神」によって共同体が支配されること。民主主義において例えばロシアでは選挙によってプーチン大統領を選ぶがやがてプーチンが選んだ人民を支配するようになるという疎外現象。独裁者は民主主義から誕生するという矛盾。同じように共同体精神の疎外されたものとして「神」を理解する、というのがフォイエルバッハの考え方である。これは精神障碍者の幻聴にもあてはまる。幻聴は神の声としてきこえる場合が多い。本人の共同体意識(良心)の疎外されたものとして神となり、あるいは世間の噂となり、個性を支配しようとする。(参考文献 木村敏著『自覚の精神病理』紀伊国屋書店)
     「時間」も共同体の社会的約束事であるルールが「神」と同様にそとに投影(疎外)されたものではないか。唯一無二の三次元空間があたかも無数にあるような錯覚。そしてそれが決定論的運命論と結びつき人々の自由意志を奪ってしまうという疎外現象。
返信/引用返信 削除キー/

■36885 / )  Re[8]: 皿
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/23(Sat) 11:49:44)
    2024/03/23(Sat) 12:08:41 編集(投稿者)

    No36815に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。前の部分になります、すいません。
    > (訳文)
    > 『皿という経験的な概念において考えられている〈丸さ〉が、円の純粋に幾何学的な概念において直観されているからである。』
    > (『純粋理性批判3』カント、中山元先生訳、p29.30より引用)
    >
    > (訳注)
    > 『ここで思考と直観の関係がずれているようにみえるので、ファイヒンガーは「円の純粋で幾何学的な概念において思考されている〈丸さ〉が、皿という経験的な概念において直観されている」と読み替える。多くの邦訳も同じように読むが、あえて訂正する必要はあるまい。』
    > (同本p318より引用)

    面白いですね。
    原佑訳はファイヒンガー流、天野と石川康は原文のままでした。
    中山元さんのコメントは『カントの文章をそんなに厳密に考えても仕方あるまい』という投げやりを感じました(うそうそ)

    追記
    Xの永井さんの投稿

    永井均@hitoshinagai1 2023年3月24日
    『ものを書いているとき、わかりやすさと誤解の余地のなさとの選択で、ついつい妥協してわかりやすさを選びたくなってしまうことがあるが、カントを読んでいると一箇所もそういうところがなく、つねに必ず誤解の余地のなさを選択しているのがわかる。これは見倣うべき態度といわざるをえない。

    だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまいと思う。しかし、これまたさらにだれも言わないことだけれど、概して哲学者は文章が極限的にといえるほどにうまいのではないかと思う。ひたりつくに値する文章が書ける人をほかにはあまり見ない。

    話はむしろ逆で、極限的にうまく書かないとけっして通じないようなことを言おうとしているから、ということであろうけれど。つまり、ひたりついて読んでもらわないと読みとれないようなことを書かざるをえない人をほかにはあまり見ない、ということ。』

    ******
    だって。すいませんすいません。
    しかし
    『だれもそうはいわないけれど、カントは文章が非常にうまい』
    永井さん以外誰も言わないことなんだからしょうがないよね。

返信/引用返信 削除キー/

■36884 / )  大相撲
□投稿者/ 田秋 -(2024/03/23(Sat) 11:41:16)
    2024/03/23(Sat) 11:46:07 編集(投稿者)

    大相撲が面白い。

    尊富士(たけるふじ)と大の里。

    尊富士は今場所新入幕で優勝までマジック1。新入幕で優勝となれば110年ぶりの快挙とのこと。

    大の里は昇進が早すぎてまだ大銀杏が結えない。

    尊富士の取り組み。初日から見てみると次第に相撲のスピードが速くなっていることがわかる。
    https://www3.nhk.or.jp/sports/special/sumomovies/rikishi/028450.html

    大の里の取り組み。
    https://www3.nhk.or.jp/sports/special/sumomovies/rikishi/028990.html

    もう一人怪我で番付を下げているが十両に伯桜鵬(はくおうほう)という若手がいる。

    将来この3人が相撲界を背負って活躍するものと期待している。

    ===
    ボクが相撲を見ていた時期は2度ある。最初は大鵬柏戸のいわゆる柏鵬時代。このころボクはまだ少年で、家族団らんでテレビで観戦していた。

    2度目は大学時代、ビオリストのプリムローズが輪島のファンで、プリムローズについたこともあり、輪島のファンになった。

    最初は「黄金の左下手投げ」が強烈だったが、次第に北の湖に通じなくなっていって「あ〜あ」と思うことが多くなった。

    昭和49年7月場所 輪島―北の湖 本割及び優勝決定戦
    https://www.youtube.com/watch?v=n9FRc9dDUZU&t=6s

    昭和51年7月場所 輪島―北の湖
    https://www.youtube.com/watch?v=cgB2evDXe9U&t=8s
返信/引用返信 削除キー/

■36883 / )  Re[13]: パニチェさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2024/03/23(Sat) 11:37:27)
    長くなってご迷惑かと思いましたが読んでくださりありがとうございます。
    以下、思うことを書きますが返信はお気遣いなく。

    No36862に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
    >
    > ■No36842に返信(おくたがわさんの記事)
    > >> ■No36819に返信(パニチェさんの記事)
    > >>「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    > >>または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。
    > >>最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    > >>死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。
    >
    >>Kindleの読み放題に「エピクテトス 名言集」というのがあり、そこから関連しそうなものを抜粋します。不要であれば流してください。
    >
    > めちゃめちゃ有難いです。引用ありがとうございます!
    >
    >>『「誰それの息子が死にました」意志と関わりのないものであるから悪ではない、と答えよ。 「 誰それを その父親が廃嫡(はいちゃく)にしました。あなたはどう思いますか」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 皇帝があの人に有罪を宣告しました」意志と関わりのないものであるから悪ではない。 「 そのことで苦しんでいますよ」意志と関わりのあることだから悪だ。 「 その人は見事に耐えました」意志と関わりのあることだから善だ。 こんなふうに習慣づければ、我々は進歩することになる。なぜなら、その心像が把握されうるもの以外のものについて、我々が承認する事はないからである。
    >
    > 問題にしているのは自分の意志ってことですね。
    > 他人の意志も問題にするなら「皇帝があの人に有罪を宣告しました」は皇帝の意志が絡みますから。

    はい、暴君や犯罪者や災害によって、ひどい目に遭うかもしれないが、それを受ける側の意志が問題(力の及ぶ範囲)で、相手側の善悪は扱う範囲にないということのようですね。
    >
    >>「息子が死にました」何が起きたのか。息子が死んだのだ。 「 他には何もないのですか」 何もない。 「 船が失われました」 何が起きたのか。船が失われたのだ。 「 あの人が投獄されました」何が起きたのか。投獄されたのだ。 だが、「不幸だ」というのは、各人が自分から付け加えたことだ。
    >
    > 仏教の「あるがままをあるがままに観ずる」ってのに相通じますね。
    >
    >>哲学するというのはどのようなことか。 それは起きてくることに対して心の準備をしておくことではないのか。そうすると、「もし私が起きてくることに平然と耐える心の準備ができているのであれば、なんでも好きなように起きるがよい」と言うのと等しいことが分からないのか。
    >
    > まるで仏教です(笑)

    「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」とか

    他に、
    財産・家族・自分の身体も自分のものではない。という結論も、仏教的な感じがしました。

    > 「神から授かった」云々が大前庭になってますね。
    > なんかニーチェ好きの私には興ざめする文章ですが、これを教えてくれたおくたがわさんには大感謝です♪
    > ありがとうございました。

    パニチェさんのコメントに関連すると思い神が登場する抜粋をいくつか選びましたが、全体のボリュームからすると登場頻度は低いようには思います。
    完全に自分の憶測・趣味になりますが、前半生が奴隷だったというエピクテトスの経験が、自身の力の及ぶ範囲を心のみとし、そこだけを考え律する者が勝者であるという思想になっているのかと凄みを感じました。そして、身体含め酷い目に遭ってもそれは自分とは関係ないことだという一般の実感としては無理だが、エピクテトスにとっては重要な考え方を、神の概念で説得的にしているのかと。
    でも、ほんとにそれは自分の趣味嗜好による勝手解釈かもしれないので、岩波文庫の『エピクテトス 人生談義』全体を読んでみたいですが、今は無理なのでいずれということで。

    以下 神に関連する抜粋で面白く思ったもの。

    『君は全体と比べれば、どれだけ小さな部分であるのか知らないのか。ただし、これは肉体に関してのことである。理性に関しては神々になんら劣りもしなければ、より小さくもないからである。理性の大きさは長さや高さによってではなく、考えたことによって判定されるからである。そうすると、君が神々と同等であるという点を善いものだと考える気になれないのかね』
返信/引用返信 削除キー/


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