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純粋理性批判を読んでみる。55
/パ二チェ (24/11/12(Tue) 20:43) #39432 |
├ パニチェさんへ
/pipit (24/11/12(Tue) 21:24) #39434 |
│└ pipiちゃんへ
/悪魔ちゃん (24/11/23(Sat) 16:15) #39686 |
│ └ 悪魔ちゃんへ
/pipit (24/11/24(Sun) 08:41) #39696 |
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/悪魔ちゃん (24/11/24(Sun) 16:29) #39703 |
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/pipit (24/11/29(Fri) 00:35) #39775 |
│ └ pipitさまへ
/悪魔ちゃん (24/11/29(Fri) 20:18) #39789 |
│ └ 日記
/pipit (24/12/01(Sun) 14:58) #39825
|
└ 超越論的分析論]−3
/うましか (24/12/07(Sat) 23:19) #39943 |
├ Re[2]: 超越論的分析論]−3
/pipit (24/12/08(Sun) 17:48) #39953 |
│└ B版演繹論第26節
/悪魔ちゃん (24/12/08(Sun) 19:44) #39955 |
│ └ 悪魔ちゃんへ
/pipit (24/12/09(Mon) 00:04) #39959 |
│ └ Re[5]: pipitさまへ
/悪魔ちゃん (24/12/09(Mon) 18:39) #39970 |
│ └ 純粋理性批判B185
/pipit (24/12/14(Sat) 20:41) #40059 |
│ ├ Re[7]: 純粋理性批判B185
/hana (24/12/14(Sat) 22:46) #40069 |
│ │└ hanaちゃんへ
/pipit (24/12/14(Sat) 23:11) #40072 |
│ │ └ Re[9]: hanaちゃんへ
/hana (24/12/14(Sat) 23:56) #40074 |
│ │ └ 日記
/pipit (24/12/15(Sun) 16:00) #40093 |
│ └ Re[7]: 純粋理性批判B185
/pipit (25/02/05(Wed) 18:30) #40870
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└ 超越論的分析論]−4
/うましか (24/12/15(Sun) 22:12) #40101 |
├ Re[3]: 超越論的分析論]−4
/pipit (24/12/15(Sun) 23:32) #40104 |
│└ カント的直観についての記述
/pipit (24/12/16(Mon) 00:52) #40105
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│ └ あらこんな時間日記
/pipit (24/12/16(Mon) 01:08) #40106 |
│ └ おはようございます日記
/pipit (24/12/16(Mon) 07:20) #40107 |
│ └ Re[7]: カント的直観についての記述
/悪魔ちゃん (24/12/16(Mon) 18:59) #40109 |
│ └ 悪魔ちゃんへ
/pipit (24/12/16(Mon) 19:58) #40111
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│ └ 日記
/pipit (24/12/22(Sun) 09:29) #40173
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│ └ 日記
/pipit (24/12/22(Sun) 10:14) #40175 |
│ └ Re[11]: 日記
/田秋 (24/12/22(Sun) 10:26) #40176 |
│ └ 田秋さんへ
/pipit (24/12/22(Sun) 10:47) #40177 |
│ └ 日記
/pipit (24/12/28(Sat) 01:02) #40231 |
│ └ 朝の日記
/pipit (24/12/28(Sat) 07:26) #40232 |
└ 超越論的分析論]−5
/うましか (24/12/28(Sat) 16:31) #40235 |
├ Re[4]: 日記
/悪魔ちゃん (24/12/28(Sat) 16:57) #40237 |
│└ 悪魔ちゃんへ
/pipit (24/12/29(Sun) 15:30) #40250 |
├ 超越論的分析論]−6
/うましか (24/12/29(Sun) 00:48) #40240 |
│├ うましかさんへ(^○^)
/pipit (24/12/29(Sun) 17:58) #40251 |
│└ 超越論的分析論]−7
/うましか (24/12/31(Tue) 20:49) #40294 |
│ ├ Re[6]: 超越論的分析論]−7
/pipit (24/12/31(Tue) 22:39) #40299 |
│ └ 超越論的分析論]−8
/うましか (25/01/01(Wed) 00:06) #40300 |
│ ├ 明けましておめでとうございます(^_^)
/pipit (25/01/01(Wed) 08:24) #40309 |
│ └ 超越論的分析論XI−1
/うましか (25/01/02(Thu) 20:34) #40347 |
│ ├ 超越論的分析論XI−2
/うましか (25/01/03(Fri) 23:52) #40360 |
│ │├ Re[9]: 超越論的分析論XI−2
/pipit (25/01/05(Sun) 12:23) #40379 |
│ │└ 超越論的分析論XI−3
/うましか (25/01/24(Fri) 23:12) #40741 |
│ │ ├ Re[10]: 超越論的分析論XI−3
/pipit (25/01/25(Sat) 00:06) #40743 |
│ │ └ 超越論的分析論XI−4
/うましか (25/03/18(Tue) 22:11) #41315 |
│ │ └ Re[11]: 超越論的分析論XI−4
/pipit (25/03/19(Wed) 08:53) #41332 |
│ └ Re[8]: 超越論的分析論XI−1
/pipit (25/01/05(Sun) 12:14) #40378 |
└ Re[4]: 超越論的分析論]−5
/pipit (24/12/29(Sun) 15:24) #40249 |
└ 日記
/pipit (25/01/05(Sun) 13:04) #40381
|
└ 日記
/pipit (25/01/17(Fri) 21:24) #40600 |
└ pipiちゃん
/hana (25/01/19(Sun) 16:24) #40630 |
└ hanaちゃん
/pipit (25/01/19(Sun) 17:28) #40633 |
└ Re[9]: hanaちゃん
/hana (25/01/19(Sun) 17:50) #40635 |
└ hanaちゃん
/pipit (25/01/20(Mon) 19:01) #40647
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└ Re[11]: hanaちゃん
/hana (25/01/21(Tue) 05:58) #40652 |
└ hanaちゃんへ
/pipit (25/01/21(Tue) 18:28) #40666
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└ 日記
/pipit (25/01/23(Thu) 23:59) #40719 |
└ ひとりごと日記
/pipit (25/01/24(Fri) 19:31) #40733 |
├ Re[15]: ひとりごと日記
/悪魔ちゃん (25/01/24(Fri) 20:08) #40737 |
│└ 悪魔ちゃんへ
/pipit (25/01/24(Fri) 23:27) #40742
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└ Re[15]: ひとりごと日記
/pipit (25/01/24(Fri) 19:52) #40736 |
└ 日記
/pipit (25/01/26(Sun) 09:22) #40761 |
└ 図式の復習・数
/pipit (25/02/08(Sat) 12:16) #40894
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└ Re[18]: 図式の復習・数
/pipit (25/02/08(Sat) 14:44) #40897
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├ 日記
/pipit (25/02/08(Sat) 19:32) #40901 |
│└ Re[20]: 図式の復習・数
/悪魔ちゃん (25/02/09(Sun) 10:29) #40906
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│ └ 悪魔ちゃんへ
/pipit (25/02/09(Sun) 12:35) #40907 |
│ └ 悪魔ちゃんへ
/pipit (25/02/10(Mon) 07:28) #40911 |
│ └ Re[23]: pipiさまへ
/悪魔ちゃん (25/02/10(Mon) 19:05) #40918 |
│ └ 日記
/pipit (25/02/11(Tue) 13:40) #40923 |
└ 図式の復習・感覚のグラデーション
/pipit (25/02/12(Wed) 17:19) #40942
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└ 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 17:40) #40943 |
├ Re[21]: 日記
/悪魔ちゃん (25/02/12(Wed) 19:35) #40944 |
│└ 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 19:40) #40945 |
│ └ Re[23]: 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 19:41) #40946 |
│ └ Re[24]: 日記
/悪魔ちゃん (25/02/12(Wed) 19:59) #40947 |
│ └ 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 20:29) #40949 |
│ └ Re[26]: 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 20:33) #40950 |
│ └ Re[27]: 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 20:40) #40951 |
│ └ Re[28]: 日記
/pipit (25/02/12(Wed) 20:47) #40952 |
└ おはよう日記
/pipit (25/02/13(Thu) 06:46) #40954 |
└ ペイントから考えた日記
/pipit (25/02/16(Sun) 16:31) #40980
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└ 日記
/pipit (25/03/01(Sat) 17:28) #41078 |
└ 妄想日記
/pipit (25/03/02(Sun) 20:14) #41087 |
└ おはよう日記
/pipit (25/03/04(Tue) 07:01) #41093 |
└ おやすみ日記
/pipit (25/03/06(Thu) 00:32) #41105 |
└ Re[27]: おやすみ日記
/pipit (25/03/06(Thu) 00:48) #41106 |
└ 思い出す日記
/pipit (25/03/07(Fri) 21:09) #41120 |
└ 日記ばかりだ...
/pipit (25/03/09(Sun) 15:53) #41132 |
└ 純粋理性批判図式論
/pipit (25/04/06(Sun) 23:22) #41848 |
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▼[ 40101 ]
□投稿者/ うましか -(2024/12/07(Sat) 23:19:20)
| 2024/12/07(Sat) 23:21:29 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
おじゃましますー(;・∀・)沼
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き
◇ 綜合的な〔synthetische〕表象とその対象が一致し〔zusammentreffen〕、互いに必然的に関係し合う、言わば、互いに出会い得るのは、〔次の〕二つの場合しかあり得ない。すなわち、対象のみがその表象を可能にする場合か、表象のみがその対象を可能にする場合かのどちらかである。 前者の場合、この関係〔Beziehung〕は経験的であるに過ぎず、その表象は決してア・プリオリに可能ではない。そしてこのことは、感覚〔Empfindung〕に属するものであれば何であれ、現象にも当てはまる。 しかし後者の場合には、表象そのものは( 何故なら、意志を介したその表象の原因性はここでは全く問題ではないから)、己の対象をその現存在から〔dem Dasein nach 〕℃Yみ出すことはない。 それ故、この表象は、これを通じてのみ或るものを一つの対象として認識する〔als einen Gegenstand zu erkennen〕≠アとが可能である場合は、〔表象は〕その対象に関してア・プリオリに規定する働きをする。 しかし、対象の認識がそのもとでのみ可能となる二つの条件がある。 第一〔の条件〕は直観〔Anschauung〕≠ナあり、これによって対象は、現象としてのみであるが、与えられる。 第二〔の条件〕は概念〔Begriff〕≠ナあり、これによって、その直観に対応する対象が思考される。 しかし前述から明らかなように、第一の条件、すなわち諸対象がそのものでのみ直観され得る条件は、実際にその〔空間と時間という〕形式からみて客観の根底に心の内でア・プリオリに潜んでいるということである。 それ故、感性のこの形式的条件とは全ての現象が必然的に合致する〔stimmen〕。 というのも、全ての現象は〔感性の〕この形式的条件を通じてのみ現象するからであり、換言すれば、経験的に直観され、与えられ得るからである。
―― No.39245 の続き ---
◇ところで、問題は、ア・プリオリな諸概念もまた、或るものがそのもとでのみ、たとえ直観されるのではないにせよ、にもかかわらず対象一般として思考される諸条件として先行するのではなかろうかということである。
◇何故なら、ア・プリオリな諸概念が先行するときには、諸対象の全ての経験的な認識はそうした諸概念に必然的に従うからである。その理由は、そうした諸概念を前提とすることがなければ何一つとして経験の客観〔Objekt der Erfahrung〕≠ニして可能とはならないからである。
◇ところが、全ての経験は、或るものがそれを通じて与えられる感官の直観〔Anschauung der Sinne〕の他、直観において与えられ、或いは現象する〔erscheint〕対象についての概念〔Begriff〕≠も含んでいる。
◇従って、諸対象一般についての諸概念は、ア・プリオリな条件として全ての経験認識〔Erfahrungserkenntnis〕の根底にひそんでいることになり、よってア・プリオリな諸概念としてのカテゴリーの客観的な妥当性は、そうしたカテゴリーを通じてのみ経験が(思考の形式からみて〔der Form des Denkens nach〕)可能になるということに基づいている。
◇何故なら、そのときにはカテゴリーを介してのみ総じて経験の何らかの対象は思考され得るからである。
† 原佑訳上巻、p.244〜p.245参照。 原典はMeiner, p.172〜p.173 † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.105〜p.106、石川文康 訳 上巻, p.152〜p.153 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
*******
]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,39943
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□投稿者/ うましか -(2024/12/15(Sun) 22:12:42)
| 2024/12/15(Sun) 22:13:30 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
日曜夜のカント沼v( ̄ー ̄)v
いってみよー ウマ(;゚Д゚)(゚Д゚; )シカ
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き
◆ 綜合された〔synthetische〕表象とその対象が一致し〔zusammentreffen〕、互いに必然的に関係し合う、言わば、互いに出会い得るのは、〔次の〕二つの場合しかあり得ない。すなわち、対象のみがその表象を可能にする場合か、表象のみがその対象を可能にする場合かのどちらかである。 前者の場合、この関係は経験的であるに過ぎず、その表象は決してア・プリオリに可能ではない。そしてこのことは、感覚〔Empfindung〕に属するものであれば何であれ、現象にも当てはまる。 しかし後者の場合には、表象そのものは( 何故なら、意志を介したその表象の原因性はここでは全く問題ではないから)、己の対象をその現存在から〔dem Dasein nach 〕℃Yみ出すことはない。 それ故、この表象は、これを通じてのみ或るものを一つの対象として認識する〔als einen Gegenstand zu erkennen〕≠アとが可能である場合は、〔表象は〕その対象に関してア・プリオリに規定する働きをする。 しかし、対象の認識がそのもとでのみ可能となる二つの条件がある。 第一〔の条件〕は直観〔Anschauung〕≠ナあり、これによって対象は、現象としてのみであるが、与えられる。 第二〔の条件〕は概念〔Begriff〕≠ナあり、これによって、その直観に対応する対象が思考される。 しかし前述から明らかなように、第一の条件、すなわち諸対象がそのものでのみ直観され得る条件は、実際にその〔空間と時間という〕形式からみて客観の根底に心の内でア・プリオリに潜んでいるということである。それ故、感性のこの形式的条件とは全ての現象が必然的に合致する〔stimmen〕。というのも、全ての現象は〔感性の〕この形式的条件を通じてのみ現象するからであり、換言すれば、経験的に直観され、与えられ得るからである。 さて問題は、ア・プリオリな諸概念もまた、或るものがそのもとでのみ、たとえ直観されるのではないにせよ、にもかかわらず対象一般として思考される諸条件として先行するのではなかろうかということである。何故なら、ア・プリオリな諸概念が先行するときには、諸対象の全ての経験的な認識はそうした諸概念に必然的に従うからである。その理由は、そうした諸概念を前提とすることがなければ何一つとして経験の客観〔Objekt der Erfahrung〕≠ニして可能とはならないからである。 ところが、全ての経験は、或るものがそれを通じて与えられる感官の直観〔Anschauung der Sinne〕の他、直観において与えられ、或いは現象する〔erscheint〕対象についての概念〔Begriff〕≠も含んでいる。従って、諸対象一般についての諸概念は、ア・プリオリな条件として全ての経験認識〔Erfahrungserkenntnis〕の根底に潜んでいることになり、よってア・プリオリな諸概念としてのカテゴリーの客観的な妥当性は、そうしたカテゴリーを通じてのみ経験が(思考の形式からみて〔der Form des Denkens nach〕)可能になるということに基づいている。何故なら、そのときにはカテゴリーを介してのみ総じて経験の何らかの対象は思考され得るからである。
―― No.39943 の続き ---
◇ それ故、全てのア・プリオリな概念の超越論的演繹は、その全探究が向けられなければならない一つの原理を持っている。
◇ それはすなわち、ア・プリオリな諸概念は経験の可能性のア・プリオリな条件として認識されなければならない(それが、経験において見出される直観の可能性の条件としてであろうと、或いは、思考の可能性の条件としてであろうと)という原理である。
◇ 経験の可能性の客観的な根拠を与える諸概念は、まさにこの故に必然的である。しかし、そうした諸概念がそこで見出される経験を展開してみせることは、そうした諸概念の演繹ではない(そうではなくて例証である)。というのも、そうした諸概念は、その際には何としても単に偶然的なものとなるおそれがあるからである。
◇ 認識の全ての対象は可能的な経験において現われる。この可能的な経験との以上のような根源的な連関無しに、ア・プリオリな諸概念と何らかの客観との連関は全く理解され得ないに違いない。
† 原佑訳上巻、p.245〜p.246参照。 原典はMeiner, p.173 † その他、以下を参照。中山元 訳2,p.107、石川文康 訳 上巻, p.153 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943、]−4 No.40101 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,39943,40101
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□投稿者/ うましか -(2024/12/29(Sun) 00:48:58)
| 2024/12/29(Sun) 22:04:48 編集(投稿者) 2024/12/29(Sun) 00:50:18 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
今夜はもうひとがんばり(・ω・)ノ
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き
◆ それ故、全てのア・プリオリな概念の超越論的演繹は、その全探究が向けられなければならない一つの原理を持っている。 それはすなわち、ア・プリオリな諸概念は経験の可能性のア・プリオリな条件として認識されなければならない(それが、経験において見出される直観の可能性の条件としてであろうと、或いは、思考の可能性の条件としてであろうと)という原理である。 経験の可能性の客観的な根拠を与える諸概念は、まさにこの故に必然的である。しかし、そうした諸概念がそこで見出される経験を展開してみせることは、そうした諸概念の演繹ではない(そうではなくて例証である)。というのも、そうした諸概念は、その際には何としても単に偶然的なものとなるおそれがあるからである。 認識の全ての対象は可能的な経験において現われる。この可能的な経験との以上のような根源的な連関無しに、ア・プリオリな諸概念と何らかの客観との連関は全く理解され得ないに違いない。
〔以下は初版〔A版〕のみ記載〕 ◆ しかし、全ての経験の可能性の諸条件を含み、だがそれ自身は心〔Gemuets〕のいかなる他の能力からも導出されない三つの根源的な源泉(魂〔Seele〕の性能または能力)がある。即ちそれは感官〔Sinn〕=A構想力〔Einbildungskraft〔imagination〕〕=A統覚〔Apperzeption〕≠ナある。 これらに基づいているのは、1)感官によるア・プリオリな多様なものの通観〔Synopsis(共観、概観)〕=A2) 構想力による多様なものの綜合=Aそして最後に、 3)根源的な統覚によるこの綜合の統一〔Einheit〔unity〕〕≠ナある。 全てこれらの能力≠ヘ、経験的使用〔empirischen Gebrauch〕の他、なお超越論的使用をも持っているが、この超越的使用は専ら形式に関わり、だからア・プリオリに可能である。この超越論的使用について、私たちは、感官に関しては$謔ノ第一部門〔超越論的感性論〕において論じたが、今や他の二つのもの〔構想力、統覚の超越論的使用〕をそれらの本性に関して洞察することに努めていきたいと思う。
―― No. 40101,40235 の続き ---
◇ あの有名な〔ジョン・〕ロック〔Locke〕≠ヘ、このような考察を欠いていたことによって、また彼は悟性の諸純粋概念〔reine Begriffe des Verstandes〕を経験において見出した。
◇ それ故、〔ロックは〕それらの純粋概念をも経験から導出し、しかも経験の全ての限界をはるかに越え出ていく認識を、そうした純粋概念でもって敢えて試みようとするほど不整合な〔inkonsequent〕≠竄阨を行った。
◇ デイヴィド・ヒューム≠ヘ、こうしたことをなし得るためには、これらの諸概念〔純粋概念〕はそのア・プリオリな起源を持っていなければならないということが必然的であると認めた。
◇ しかし、ヒュームは、悟性が、それ自体では悟性のうちで結合されていない諸概念を、にもかかわらず対象においては必然的に結合されているものとして思考しなければならないということがいかにして可能であるのかを全く説明できなかった。
◇ だから〔ヒュームは〕、おそらく悟性は、それらの諸概念によって己の諸概念がそこで見出され得る経験の創始者ですらあり得るということに思いつかなかったので、彼はそれらの諸概念を、やむをえず経験から導出した (つまり、経験においてしばしば連想されることによって生ずる主観的必然性から導出したのであり、この主観的必然性が結局は誤って客観的に妥当するものと看做されるのであるが、換言すれば習慣〔Gewohnheit〕≠ゥら導出したのである)。
◇ しかしついで、それらの諸概念とそれらの諸概念から誘発される諸原則とでもっては経験の限界〔Erfahrungsgrenze〕を越え出ていくことは不可能である、と彼〔ヒューム〕が説明する点では、極めて整合的な〔konsequent〕やり方を行った。
◇ しかし、経験的%ア出は、ロックとヒュームの両者ともそれに思いついたように、私たちが持っているア・プリオリな学的認識、即ち純粋数学〔reinen Mathematik〕≠ニ一般自然学〔allegemeinen Naturwissenschaft〕≠ェ現実に存在しているということとは合致せず、従って事実〔Factum〕によって論駁される。
† 原佑訳上巻、p.246〜p.247参照。 原典はMeiner, p.173〜p.174 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p. 108〜p.109、石川文康 訳 上巻, p.153〜p.154、有福孝岳 訳, p.174 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244,37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245,39943,40101,40235,40240
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□投稿者/ うましか -(2024/12/31(Tue) 20:49:34)
| 2025/01/01(Wed) 00:09:52 編集(投稿者) 2024/12/31(Tue) 20:50:33 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
今年も大変、たいへんお世話になりましたm(__)m
深く、沼ふかく感謝いたしますm(__)m
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き
◆ それ故、全てのア・プリオリな概念の超越論的な根拠付け〔演繹〕は、その全探究が向けられなければならない一つの原理を持っている。 それはすなわち、ア・プリオリな諸概念は経験の可能性のア・プリオリな条件として認識されなければならない(それが、経験において見出される直観の可能性の条件としてであろうと、或いは、思考の可能性の条件としてであろうと)という原理である。 経験の可能性の客観的な根拠を与える諸概念は、まさにこの故に必然的である。しかし、そうした諸概念がそこで見出される経験を展開してみせることは、そうした諸概念の根拠付け〔演繹〕ではない(そうではなくて例証である)。というのも、そうした諸概念は、その際には何としても単に偶然的なものとなるおそれがあるからである。 認識の全ての対象は可能的な経験において現われる。この可能的な経験との以上のような根源的な連関無しに、ア・プリオリな諸概念と何らかの客観との連関は全く理解され得ないに違いない。
◆あの有名なロック≠ヘ、このような考察を欠いていたことによって、また彼は悟性の諸純粋概念を経験において見出した。 それ故、〔ロックは〕それらの純粋概念をも経験から導出し、しかも経験の全ての限界をはるかに越え出ていく認識を、そうした純粋概念でもって敢えて試みようとするほど不整合な≠竄阨を行った。 デイヴィド・ヒューム≠ヘ、こうしたことをなし得るためには、これらの諸概念〔純粋概念〕はそのア・プリオリな 起源を持っていなければならないということが必然的であると認めた。 しかしヒュームは、悟性がそれ自体では悟性のうちで結合されていない諸概念を、にもかかわらず対象においては必然的に結合されているものとして思考しなければならないということがいかにして可能であるのかを全く説明できなかった。 だから〔ヒュームは〕、おそらく悟性は、それらの諸概念によって己の諸概念がそこで見出され得る経験の創始者ですらあり得るということに思いつかなかったので、彼はそれらの諸概念を、やむをえず経験から導出した (つまり、経験においてしばしば連想されることによって生ずる主観的必然性から導出したのであり、この主観的必然性が結局は誤って客観的に妥当するものと看做されるのであるが、換言すれば習慣≠ゥら導出したのである)。 しかしついで、それらの諸概念とそれらの諸概念から誘発される諸原則とでもっては経験の限界を越え出ていくことは不可能である、と彼〔ヒューム〕が説明する点では、極めて整合的なやり方を行った。 しかし、経験的%ア出は、ロックとヒュームの両者ともそれに思いついたように、私たちが持っているア・プリオリな学的認識、即ち純粋数学≠ニ一般自然学≠ェ現実に存在しているということとは合致せず、従って事実によって論駁される。
―― No.40240の続き ---
◇ これらの有名な二名〔ロックとヒューム〕のうち、ロックは狂信〔Schwaermerei〕≠ノ門戸を開いた。というのも、理性はいったん権限が自分の側にあると見るや否や節度という不確かな称揚によってはもはや抑制されないからである。
◇ ヒュームは懐疑〔Skeptizim〕≠ノ全面的に身を委ねたが、それは彼が、理性と見做されているものが私たちの認識能力の極めて一般的な錯覚〔Taeuschung〕だということを発見したと信じたからである。
◇ − 私たちは今や、人間の理性をこれら二つの断崖〔ロック(による狂信)とヒューム(による懐疑)〕の間をうまく通過させ、この理性に規定された限界を指示し、にもかかわらず、その目的ある活動〔Zweckmaessigen Taetigkeit〕の全分野を、この理性のために開放しておくことが、できないものかどうか試みようとしているのである。
† 原佑訳上巻、p.247〜p.248参照。 原典はMeiner, p.174〜p.175 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.109〜p.110、石川文康 訳 上巻, p.155、有福孝岳 訳, p.174〜p.175 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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]−7 No.40294 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294
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□投稿者/ うましか -(2025/01/01(Wed) 00:06:39)
| 2025/01/01(Wed) 00:11:12 編集(投稿者)
\(~o~)/Happy new year 2025 〜
おやすみなさーい( TДT)ゴメンヨーネムイワ
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕
第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き
◆ これらの有名な二名〔ロックとヒューム〕のうち、ロックは狂信≠ノ門戸を開いた。というのも、理性はいったん権限が自分の側にあると見るや否や節度という不確かな称揚によってはもはや抑制されないからである。 ヒュームは懐疑≠ノ全面的に身を委ねたが、それは彼が、理性と見做されているものが私たちの認識能力の極めて一般的な錯覚だということを発見したと信じたからである。 − 私たちは今や、人間の理性をこれら二つの断崖〔ロック(による狂信)とヒューム(による懐疑)〕の間をうまく通過させ、この理性に規定された限界を指示し、にもかかわらず、その目的ある活動の全分野を、この理性のために開放しておくことが、できないものかどうか試みようとしているのである。
―― No.40294 の続き ---
◇ なお前もって私はカテゴリーの説明≠セけを予め述べておこうと思う。
◇ カテゴリーは対象一般についての諸概念であり、対象の直観は判断のための論理的な諸機能≠フ一つに関して、このカテゴリーによって規定されたもの≠ニ見做されるのである。
◇ というわけで、例えば「全ての物体は、分割可能である。」というように、定言#サ断の機能は、主語の述語に対する関係の機能であった。ところが、悟性の単なる論理的な使用に関しては、〔「物体」と「分割可能である」という〕両概念のいずれに主語の機能を与え、またいずれに述語の機能を与えるべきか、あくまで規定されないままであった。何故なら「或る分割可能なものは、物体である。」とも言い得るからである。
◇ しかし、実体というカテゴリーによって私が物体の概念をこのカテゴリーに含めるならば、経験における物体の経験的直観は常に主語としてだけ見做されなければならず、決して単なる述語として見做されてはならないということが規定されるのであり、残り全ての他のカテゴリーにおいてもこれと同様である。
† 原佑訳上巻、p.248〜p.249参照。 原典はMeiner,p.175 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.110〜p.111、石川文康 訳 上巻, p.155、有福孝岳 訳, p.175 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300
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■40347 / 7階層) |
超越論的分析論XI−1
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□投稿者/ うましか -(2025/01/02(Thu) 20:34:55)
| 2025/01/02(Thu) 20:36:25 編集(投稿者)
pipipitさん、こんばんはー
沼っス! (`・ω・´)ゞ あの世のカント先輩
次の節はいりました
とりあえず初版のほうから読んでいきます〜(/・ω・)/
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項*1) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕 *1 第二版(B版のみの表示) 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕
◆ なお前もって私はカテゴリーの説明≠セけを予め述べておこうと思う。カテゴリーは対象一般についての諸概念であり、対象の直観は判断のための論理的な諸機能≠フ一つに関して、このカテゴリーによって規定されたもの≠ニ見做されるのである。 というわけで、例えば「全ての物体は、分割可能である。」というように定言#サ断の機能は、主語の述語に対する関係の機能であった。ところが、悟性の単なる論理的な使用に関しては、〔「物体」と「分割可能である」という〕両概念のいずれに主語の機能を与え、またいずれに述語の機能を与えるべきか、あくまで規定されないままであった。何故なら「或る分割可能なものは、物体である。」とも言い得るからである。しかし、実体というカテゴリーによって私が物体の概念をこのカテゴリーに含めるならば、経験における物体の経験的直観は常に主語としてだけ見做されなければならず、決して単なる述語として見做されてはならないということが規定されるのであり、残り全ての他のカテゴリーにおいてもこれと同様である。
【 No.33016より 】 ■ 判断表 1 判断の量=kQuantitaet der Urteile.〕 ・全称判断 〔Allgemeine〕 〔すべてのAはBである〕 ・特称判断 〔Besondere〕 〔あるAはBである〕 ・単称判断 〔Einzelne〕 〔ある一つのAはBである〕
2 〔判断の〕質=kQualitaet.〕 ・肯定判断 〔Bejahende〕 〔AはBである〕 ・否定判断 〔Verneinende〕 〔AはBでない〕 ・無限判断 〔Unendliche〕 〔Aは非Bである〕
3 〔判断の〕関係=kRelation.〕 ・定言判断 〔Kategorische〕 〔AはBである〕 ・仮言判断 〔Hypothetische〕 〔もしAがBなら、CはDである〕 ・選言判断 〔Disjunktive〕 〔Aは、BであるかCであるかDであるかのいずれかである〕
4 〔判断の〕様相=kModalitaet.〕 ・蓋然的判断〔Problematische〕 〔AはBかもしれない〕 ・実然的判断〔Assertorische〕 〔AはBである〕 ・確然的判断〔Apodiktische〕 〔AはBでなくてはならない〕
■カテゴリー表〔Tafel der Kategorien〕 1 量〔Der Quantitaet:〕 ・単一性〔Einheit〕 ・数多性〔Vielheit〕 ・全体性〔Allheit.〕
2 質〔Der Qualitaet:〕 ・実在性〔Realitaet〕 ・否定性〔Negation〕 ・制限性〔Limitation.〕
3 関係〔Der Relation:〕 ・内属〔der Inhaerenz〕≠ニ自体存在〔Subsistenz〕 (実体と偶有性 substantia et accidens) ・原因性〔der Kausalitaet〕≠ニ依存性〔Dependenz〕 (原因と結果〔Ursache und Wirkung〕) ・相互性〔der Gemeinschaft〕=@(能動的なものと受動的なものとの間の相互作用〔Wechselwirkung zwischen dem Handelnden und Leidenden〕)
4 様相〔Der Modalitaet:〕 ・可能性〔Moeglichkeit〕=|不可能性〔Unmoeglichkeit〕 ・現存在〔Dasein〕=|非存在〔Nichtsein〕 ・必然性〔Notwendigkeit〕=|偶然性〔Zufalligkeit〕
―― No.40300 の続き ---
第二節〔初版(A版)〕〔*1〕 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について *1 第二版(B版)では、「第二節 純粋悟性概念の超越論的演繹」
◇ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属すこともなく、可能的な経験の諸要素から成り立ってもいないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。
◇ 何故なら、その概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。
◇ 可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。
† 原佑訳上巻、p.248〜p.249参照。 原典はMeiner,p.206 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.181〜p.182、石川文康 訳 上巻, p.156 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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XI−1 No.40347 ]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300 第二節 No.40347
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超越論的分析論XI−2
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□投稿者/ うましか -(2025/01/03(Fri) 23:52:38)
| 2025/01/04(Sat) 00:21:48 編集(投稿者) 2025/01/03(Fri) 23:53:15 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
今夜カント先輩の衝撃の一言を目にしました! (;゚Д゚)(゚Д゚; )
>私がひとたび純粋悟性概念を手に入れるなら、たしかに私は、おそらく不可能な諸対象をも、おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられえない諸対象をも考え出すことができる。〔原佑訳 上, p.251〕
(;´・ω・)恐るべしカント沼 *******
T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕
第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】
◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属すこともなく、可能的な経験の諸要素から成り立ってもいないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。 何故なら、その概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。 可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。
―― No.40347 の続き ---
◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念〔reine Begriffe a priori〕があるならば、それはなるほど何一つ経験的なもの〔Empirisches〕を含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。
◇ だから、いかにして純粋悟性概念〔reine Verstandesbegriffe〕は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だからたとえ現象の全ての経験的なものを捨象しよう〔abstrahieret〕とも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。
◇ 経験のこうした形式的に客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。
† 原佑訳上巻、p.250〜p.251参照。 原典はMeiner,p.206〜p.207 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.182〜p.183、石川文康 訳 上巻, p.156〜p157 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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XI−1 No.40347、XI−2 No.40360 ]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300 第二節 No.40347,40360
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超越論的分析論XI−3
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□投稿者/ うましか -(2025/01/24(Fri) 23:12:20)
| 2025/01/24(Fri) 23:13:53 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんぬまー
(;´・ω・)
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕
第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】
◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属すこともなく、可能的な経験の諸要素から成り立ってもいないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。 何故なら、その概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。 可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。
◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念〔reine Begriffe a priori〕があるならば、それはなるほど何一つ経験的なものを含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。
◇ だから、いかにして純粋悟性概念〔reine Verstandesbegriffe〕は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。 経験のこうした形式的に客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。 もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。
―― No.40360 の続き ---
◇ というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的に経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(霊の概念〔Begriff eines Geistes〕)、或いは、やがては純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念〔Begriff von Gott〕)。
◇ しかし、全てのア・プリオリな認識のための〔諸要素〕、恣意的で不合理な虚構〔willkuerlichen und ungereimten Erdichtungen〕のための諸要素〔Elememte〕≠ナさえ、なるほど経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。
◇ なぜなら、さもなければ、それらの諸要素にとって何一つとして全く思考されないだけでなく、それらの諸要素自体が与件を欠くため、思考において決して成立し得ないことにもなるからである。
† 原佑訳上巻、p.251〜p.253参照。 原典はMeiner,p.207 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.183〜p.184、石川文康 訳 上巻, p157 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741 ]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300 第二節 No.40347,40360,40741
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超越論的分析論XI−4
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□投稿者/ うましか -(2025/03/18(Tue) 22:11:03)
| 2025/03/18(Tue) 22:14:07 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
久しぶりのカント沼(;´・ω・)
リンツの90%カカオ食べてる感じ〜
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T 超越論的原理論 第二部門 超越論的論理学 第一部 超越論的分析論 第一篇 概念の分析論 第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて 〔済〕 第二章 純粋悟性概念の演繹について 第一節 (第十三項) 超越論的演繹一般の諸原理について 〔済〕 第十四項 カテゴリーの超越論的演繹への移り行き 〔済〕
第二節 経験の可能性のためのア・プリオリな諸根拠について【初版】
◆ 或る概念が完全にア・プリオリに産出され、しかも、たとえその概念がそれ自身を可能的な経験の概念のうちに属することもなく、可能的な経験の諸要素から成り立っていないにせよ、対象と連関すべきであるということは、全く矛盾した不可能なことである。 何故なら、その〔或る〕概念は、その場合、いかなる直観もその概念に対応しないので、いかなる内容も持たないに違いないからである。というのも、私たちにそれを通じて諸対象が与えられる得る直観一般が、可能的な経験の分野、或いは全対象を成すからである。 可能的な経験と連関しないア・プリオリな概念は、概念のための論理的な形式だけになるだろうが、或るものがそれを通じて思考される概念自身とはなり得ないであろう。
◆ それ故、ア・プリオリな諸純粋概念があるならば、それはなるほど何一つ経験的なものを含み得ないことは言うまでもないが、にもかかわらず、可能的な経験のア・プリオリな純然たる条件でなければならず、この可能的な経験は、それらの諸純粋概念の客観的な実在性がそれのみに基づき得るものに他ならない。
◆ だから、いかにして純粋悟性概念は可能であるのかを知ろうとするならば、人は経験の可能性がそこに帰着し、だから、たとえ現象の全ての経験的なものを捨象しようとも、経験の根底に潜んでいるア・プリオリな条件がいかなるものであるのかを研究しなければならない。 経験のこうした形式的で客観的な条件を、普遍的かつ十分に表現する概念は、純粋悟性概念と呼ばれるだろう。もし私が純粋悟性概念を手に入れるなら、確かに私は、おそらく不可能な諸対象をも、〔また、〕おそらくそれ自体では可能であるとしても、いかなる経験において与えられ得ない諸対象をも、考え出すことができる。というのも、そうした諸純粋悟性概念の連結においては、何としても可能的な経験の条件に必然的に属している或るものが除去されていることができるし(幽霊の概念)、或いは、やがて純粋悟性概念は、経験が捉え得るより以上に拡大され得るからである(神についての概念)。しかし、全てのア・プリオリな認識のための諸要素≠ヘ、また、恣意的で不合理な虚構の諸要素ですら、たしかに経験から借用したものではあり得ないが(なぜなら、さもなければそれらはア・プリオリな認識ではないであろうから)、しかし、それらの諸要素はいつでも可能的な経験とその対象とのア・プリオリな純粋条件を含んでいなければならない。 というのも、さもなければ、それらの諸要素にとって何一つとして全く何も考えられないだろうだけでなく、それらの諸要素自身もまた与件を欠き、思考においてさえ決して成立し得ないであろうからである。
―― No.40741 の続き ---
◇ ところで、これらの諸概念はあらゆる経験の際に純粋な思考をア・プリオリに含むものであるが、私たちはそうした諸概念をカテゴリーで見出す。 だから、私たちがカテゴリーを介してのみ対象は思考され得るということを証明することができるならば、それはカテゴリーの十分な演繹であり、またその客観的な妥当性の是認〔正当化〕である。
◇ しかし、そのような思想においては、思考する唯一の能力、即ち悟性以上のものが関わっており、しかも悟性自身も対象と連関すべき一つの認識能力として、この連関の可能性に関する解明を同様に必要するので、私たちは経験の可能性のア・プリオリな基礎をなす主観的な諸源泉を、それらの経験的な性質に従ってではなく、超越論的な性質に従って、先ず考究してみなければならない。
† 原佑訳上巻、p.253〜p.254参照。 原典はMeiner,p.207 † その他、以下を参照。中山元 訳2, p.184〜p.185、石川文康 訳 上巻, p158、有福孝岳 訳, p.177、P.Guyer&A.W.Wood 訳,p.227 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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XI−4 No.41315 XI−1 No.40347、XI−2 No.40360、XI−3 No.40741 ]−7 No.40294、]−8 No.40300 ]−4 No.40101、]−5 No.40235、]−6 No.40240 ]−1 No.39171、]−2 No.39245、]−3 No.39943 \−13 No.38896 \−10 No.38144、\−11 No.38253、\−12 No.38689 \−7 No.37244、\−8 No.37409、\−9 No.37955 \−4 No.36646、\−5 No.36657、\−6 No.36908 \−1 No.36429、\−2 No.36501、\−3 No.36600 [−4 No.36127、[−5 No.36266 [−1 No.35606、[−2 No.36085、[−3 No.36113 Z−4 No.34874、Z−5 No.34919、Z−6 No.35259 Z−1 No.33825、Z−2 No.33829、Z−3 No.34795 Y−10 No.33776 Y−7 No.33016、Y−8 No.33658、Y−9 No.33668 Y−4 No.32398、Y−5 No.32507、Y−6 No.32849 Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302 X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639 X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874 W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529 V−1 No.29992、V−2 No.30063 U−1 No.29963 T−1 No.29833、T−2 No.29850
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第一部 No.29833,29850 第一篇 No.29963 第一章 No.29992,30063 第一節 No.30139,30154,30529 第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639 第三節No.31693,32053,32302,32398,32507,32849, No.33016,33658,33668,33776,33825,33829,34795, No.34874,34919,35259,35606,36085,36113,36127,36266 第二章 第一節 No.36429,36501,36600,36646,36657,36908,37244, No.37409,37955,38144,38253,38689,38896,39171,39245, No.39943,40101,40235,40240,40294,40300 第二節 No.40347,40360,40741,41315
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