| 勿忘草さんこんばんは
>>「神殿」というのは、復活する自分の体、および、同じように復活する人間たちの体のことでしょう。「商売」というのは、おそらく、罪の喩え。復活する体は罪から完全に浄化された体、そこに罪を持ち込むことはありえない、罪が残れば復活も ないという、断固とした主張をイエスはこの話に込めている。 > > なるほど、そうだったのですね。 > > 自分もイエス様の人間的な面と神殿を清めようとする完璧な面が混じりあったものかなと思っていたのですが、復活の話だったのですね。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。イエスはご自分の体である神殿のことを言われたのである。(ヨハネによる福音書2・15, 21)
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(コリントの信徒への手紙一 6・19)
聖霊と子は別々に分かれてあることが不可能です。なので、聖霊がいるところには必ず子であるイエスもいる。逆に子であるイエスがいるところには必ず聖霊もいる。
復活後、イエスは復活の体をもって、天において父と共にいる。地においてパウロを始めとする弟子の体は、聖霊が宿ってくださる神殿であるので、そこには子であるイエスもいるということになります。聖霊あるところ必ず父と子もいるという、三位一体の本質からそうならざるをえません。
人間の常識からは理解不能ですが、聖霊の働きによって、人間は天と地に二重に帰属することになるというべきかもしれません。
もちろん地に生きる間は復活「前」の体を背負って生きるしかありませんが、聖霊が宿ることで、既に復活の体を先取りしているという発想かもしれません。父と子と聖霊の本来の領域はリニアーな歴史的時間を超えたカイロス的な永遠の今。そこに復活の体が住まう。
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