| 2021/01/01(Fri) 11:24:07 編集(投稿者) 2021/01/01(Fri) 09:59:44 編集(投稿者)
2016年6月と7月に立て続けに父と母を失った。葬儀の手配や市役所や社会保険喪失の手続きがあって悲しむ暇がなかった。すぐに仕事に復帰して忙しくなり悲しむ時間をつぶすように仕事に熱中した。あいた時間は音楽をきいてまぎらした。土、日曜日は図書館で、という具合に父、母の死に向き合うことを避けてきた。すこし落ち着いたころ10年分の父、母のビデオ記録のDVDを観た。動く映像の記録を残して良かったと思った。記録がないと死後何も残らない。私は10年前に父、母の死を予感して何か記録しておこうと撮影を始めた。タイムマシンで戻れる過去が存在していると信じるならそれは不必要な行為だろう。だが私は冷蔵庫のように保存された過去が実在するとは信じていなかった。だから父、母が生きていたという証拠を残そうと映像で実践した。過去は実在しないがゆえに思い出としての記憶はとても貴重なのだ。歴史の価値ももはや実在しないがゆえに尊いのではないのか。 様々なことを考えた。死んだら無になるのではないか。無になることは間違いないが、少し深堀りすると無とは、何も無い空間が存在するので有でもある。無は有でもある。あらゆる物質の根本がこの無のもつ有の性質から出発しているのではないか。すると死による無化は有の性質を失うものではなく、その有の性質ゆえに死後も存在しうるのではないのか。少なくとも私はその可能性を否定しない。 サルトルの無は否定としての無だが無は存在している有として哲学的に認識する必要があるのではないか。
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