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■1611 / inTopicNo.37)  Re[37]: 誰にとっての決定論なのか
  
□投稿者/ rest -(2019/07/30(Tue) 08:53:57)
    No1575に返信(無縁仏三郎 RXさんの記事)
    > ということを考えてみる。
    >
    > 歴史の年表は過去しかなく未来は空白である。
    >
    > しかし埋まってる部分もかつては空白だった。
    >
    > よって未来は人間にとって決定されていない。
    >
    > ここで神にとっては…などとごまかしてはだめだ。
    >
    > 人間にとって未来が空白であるということは人間の能力の限界を示している。
    > そんな限界のある人間が神の能力を捏造して中世神学的妄想に陥るわけだ。
    >
    > 神というのも限界のある精神がこしらえた言語構成物。
    > 言語構成物は環境の劣化コピー。どんなにもっともらしく聞こえても
    > 劣化コピー間の優劣の争いになるだけ。

    無縁氏のオリジナルの時間論ですね。未来の非実在性については共有していますけれども、問題は過去の捉え方です。年表の先端である現在から先の未来は存在しないけれども過去は存在している。つまりタイムマシンでいけるような過去が実在していると考えているのかどうか。実在する年表が現在で途切れているというのは経験的には理解できるけれどもなぜ途切れているのか、先端の現在からどうやって過去の実在が形成されていくのか、つまりミンコフスキー空間が未来が実在せず過去のみ実在するという根拠が理解できないのです。過去は累積していくけれどもどこから追加の三次元空間をもってくるのか、ということです。
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■1608 / inTopicNo.38)  Re[38]: 訂正(ラッセルの変化説)
□投稿者/ rest -(2019/07/28(Sun) 21:58:42)
    2019/07/28(Sun) 22:03:08 編集(投稿者)


    マクタガートにおける変化とはA系列の変化である。未来の出来事が現在に移動しそして現在から過去へと移動していく。これが変化だ。それに対してラッセルは変化を物の性質、状態の変化としてとらえている。それはB系列のみで変化を認識できるという考え方だ。真理値(真である/偽である)の交代で「変化」を捉えることである。「火かき棒は熱い」から「火かき棒は冷たい」への変化はこうなる。「時点tで火かき棒は熱い」は真であるが、「時点t′で火かき棒は熱い」は偽である。真理値のこのような真から偽への交代によって「変化」を捉える。
    B系列=A系列+C系列なのでどの時点も現在であり、ある時点より後の時点は未来であり前の時点は過去である。われわれが今この時点を唯一の現在とする根拠はない。するとB系列は変化を含んでいることになる。
    アウグスティヌスが
    「三つの時間すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさいこれらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。すなわち、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの記憶は直覚であり、未来の現在は期待である」(『告白』岩波文庫p.123)
    で述べているようにすべてが現在である。
    永遠の「現在」という概念は二つの存在の仕方があるのである。ひとつはB系列はどの時点も現在だから一覧する映像フィルムとして永遠の現在とみなす見方とつまりはラッセルの見方と、もう一つは未来や過去を主観とみなして現在のみを実在とみなす永遠の現在という見方つまりはアウグスティヌスの見方がある。前者は決定論的運命を示し、後者は非決定論的自由意志を示している。
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■1607 / inTopicNo.39)  Re[40]: �
□投稿者/ rest -(2019/07/28(Sun) 21:39:26)
    2019/07/28(Sun) 21:44:46 編集(投稿者)

    テスト中です。再度テスト中です。
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■1598 / inTopicNo.40)  Re[39]: �
□投稿者/ rest -(2019/07/28(Sun) 01:45:28)
    Re[38]を削除したいのですが、削除パスワードの扱いかたがわかりません。ご教示願います。任意のパスワードを入力するのですが違うという指示がでてきます。よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■1596 / inTopicNo.41)  Re[37]ラッセルの変化説
□投稿者/ rest -(2019/07/28(Sun) 00:28:33)
    マクタガートにおける変化とはA系列の変化である。未来の出来事が現在に移動しそして現在から過去へと移動していく。これが変化だ。それに対してラッセルは変化を物の性質、状態の変化としてとらえている。それはB系列のみで変化を認識できるという考え方だ。真理値(真である/偽である)の交代で「変化」を捉えることである。「火かき棒は熱い」から「火かき棒は冷たい」への変化はこうなる。「時点tで火かき棒は熱い」は真であるが、「時点t′で火かき棒は熱い」は偽である。真理値のこのような真から偽への交代によって「変化」を捉える。
    B系列=A系列+C系列なのでどの時点も現在であり、ある時点より前の時点は未来であり後の時点は過去である。われわれが今この時点を唯一の現在とする根拠はない。するとB系列は変化を含んでいることになる。
    アウグスティヌスが
    「三つの時間すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。じっさいこれらのものは心のうちにいわば三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。すなわち、過去のものの現在は記憶であり、現在のものの記憶は直覚であり、未来の現在は期待である」(『告白』岩波文庫p.123)
    で述べているようにすべてが現在である。
    永遠の「現在」という概念は二つの存在の仕方があるのである。ひとつはB系列はどの時点も現在だから変化のない映像フィルムとして永遠の現在とみなす見方とつまりはラッセルの見方と、もう一つは未来や過去を主観とみなして現在のみを実在とみなす永遠の現在という見方つまりはアウグスティヌスの見方がある。前者は決定論的運命を示し、後者は非決定論的自由意志を示している。
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■1575 / inTopicNo.42)  誰にとっての決定論なのか
□投稿者/ 無縁仏三郎 RX -(2019/07/24(Wed) 15:40:11)
    ということを考えてみる。

    歴史の年表は過去しかなく未来は空白である。

    しかし埋まってる部分もかつては空白だった。

    よって未来は人間にとって決定されていない。

    ここで神にとっては…などとごまかしてはだめだ。

    人間にとって未来が空白であるということは人間の能力の限界を示している。
    そんな限界のある人間が神の能力を捏造して中世神学的妄想に陥るわけだ。

    神というのも限界のある精神がこしらえた言語構成物。
    言語構成物は環境の劣化コピー。どんなにもっともらしく聞こえても
    劣化コピー間の優劣の争いになるだけ。
750×489 => 600×391

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■1569 / inTopicNo.43)  Re[35]飛ぶ矢のパラドックス
□投稿者/ rest -(2019/07/24(Wed) 01:28:16)
    パルメニデスの弟子ゼノンは運動について四つのパラドックスを提示したが、その中でも「飛ぶ矢のパラドックス」は次のようなものである。
    @どんなものも、ある瞬間に、ある一つの場所を占める場合、静止している。

    A矢は飛んでいるあいだのどの瞬間においても、ある一つの場所を占める。

    Bゆえに矢は飛んでいるあいだのどの瞬間においても静止している。

    C飛んでいるあいだの時間はそのあいだの瞬間から成り立っている。

    Dゆえに矢は飛んでいるあいだじゅう静止している。

    比喩的には映画の映写機によって映し出された映像である。ほんとうに存在しているのは静止画像の連なりだけであって、スクリーン上の「動き」は見かけの姿にすぎない。変化は幻想である、という考えかたである。マクタガートのA系列における未来、現在、過去の変化は幻想であって、B系列の年表のような映像フィルムこそが実在であるとする結論である。実は相対論の四次元の考え方も同じである。残念だがそこには自由意志の片りんすら見られない。あるのは決定論的運命のみである。それでいいのか。ベルグソンの生き生きとした現在は過去や未来とは等価ではありえない。変化とは未来が現在に移動してくることなのか、それとも現在において未来や過去を造り出すことなのか。
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■1403 / inTopicNo.44)  Re[34]: 時間と倫理感の関係
□投稿者/ rest -(2019/06/24(Mon) 09:08:25)
    過去は消滅してしまえばもう関係ないというのが刹那主義ないしは虚無主義かもしれない。私は自由を信奉するのでサルトル流に自由と責任の関係を重視する。自由意志の選択結果である過去に対して責任を負う、ということと過去の非実在性は矛盾するのではということに対して現在進行形の選択結果である過去の記憶ないし記録に責任をもつということは現在に責任をもつことである、といいかえることができる。逆にいえば過去に責任を持てないものは現在も責任をもてない、ないしは現在の自由意志の選択行為に責任を持てないということになる。過去の非実在性とは関係ないのだ。
    むろんすべての行為を自己責任に帰すわけにはいかない。社会的環境や不可抗力の影響も考慮して自己責任とは別の社会的責任ということ、あるいはカントのいう物件という概念も視野にいれなければならない。
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■1395 / inTopicNo.45)  Re[33]: 空間と時間
□投稿者/ rest -(2019/06/23(Sun) 11:53:14)
    大森荘蔵も過去の実在性を否定することに関して不安を抱いている。これは一般的な不安かもしれない。この不安を解消するために投影として外の時間を形作ったのかもしれない。外に時間がないよりはあったほうが安心するのである。自由は不安である、といったのはたしかサルトルであるが時間を外に確定してしまえば不安はなくなる。しかし時間の実体はない。とすれば不安と向き合わざるを得ない。それが自由に生きることだ。
    フォイエルバッハは唯物論だが疎外論はもともとヘーゲル由来だ。自己の本質を本来的自己の外に出し自己にとって疎遠な他者になることが疎外の本来の意味だ。神に関しては賛否があろうが、時間に関してはてき面的中だと思う。人間が作ったものが、人間自身から離れ逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること、これが疎外だ。
    過去が消滅することの不安に対処するために写真という記録を残して置こう。過去は消えるが唯一残す方法は写真という記憶装置があり、不安をやわらげる。少しでも工夫しながら自由に生きることを選択してほしい。自己疎外からの脱却だ。
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■1393 / inTopicNo.46)  Re[32]: 空間と時間
□投稿者/ rest -(2019/06/22(Sat) 10:07:13)
    変化の認識は記憶がないとできない、というのは事実であるが記憶がないと変化はないのかというと別問題である。カントの唯一無二の三次元空間内であらゆる事物が変化している。現在進行形で変化している。マクタガートのA系列的時間の視点でみると現在の変化は過去に移行するがこれは記憶としての主観内に移行するのであって、客観的外の世界に移行するのではない。B系列のある時刻の過去へと移行するのではない。中島もその著書『時間を哲学する』(講談社現代新書)で述べているが過去は冷蔵庫のように保存されてはいないのである。時間を空間化すると記憶で形成された時間を外にあるとする錯覚にとらわれてしまう。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』(岩波書店)にあるように共同体精神の本質が疎外されてあたかも外にあるように見えるのが神である。時間も共同体的約束事が疎外されてあたかも外にあるかのように見えるのである。同じである。時間に支配された関係性から解放されることも大きな課題である。時間に支配されて運命を生きるか、時間から解放されて自由に生きるか。
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■1367 / inTopicNo.47)  Re[31]: 記憶と時間意識
□投稿者/ rest -(2019/06/18(Tue) 09:10:41)
    記憶が変化の認識の前提となる。記憶が過去に属するから時間意識はア・プリオリではないか、という点で若干の疑問がある。そもそも記憶は時間的順序では並んでいないのである。記憶の順序はバラバラである。昨日の出来事と一昨日の出来事の区別がつかないことはよくあることだ。太陽の位置を時刻と定義し、その太陽の動きに対応した記憶を整序したものが時間的記憶である。記憶そのものはほっておけばばらばらにつながる。記憶を過去と定義することも含めて正確な時間の定義はア・ポステオリになされたものではないか。社会的約束事としてあるいはルールとして。マクタガートのA系列のように単純に時間を過去・現在・未来と定義するなら、過去の順序は別にして過去一般としてくくるなら、時間はア・プリオリなものといえなくはない。ある意味両義性があるということかもしれないが。
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■1302 / inTopicNo.48)  Re[30永遠の現在における矛盾
□投稿者/ rest -(2019/06/06(Thu) 09:54:42)
    カントの唯一無二の三次元空間は換言すれば永遠の現在を意味している。しかし無時間の現在性に永遠という時間性を導入することは矛盾ではないか、という指摘がある。一見するとごもっともな指摘ではあるが、ここでは仮想の時間を使用していることが忘れられている。
    ここでいう「永遠」とは社会的約束事として、ルールとして造られた時間概念を使用した場合、無時間の現在は永遠に続くという意味であり、時間の実在性を肯定したものではない。仮想の時間で測定しても矛盾ではない。時間には実体性がなく社会的約束事、あるいはルールでしかないことを再確認すべきではないか。
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