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■1971 / inTopicNo.13)  Re[60]: 因果関係と恒等関係
  
□投稿者/ rest -(2019/10/23(Wed) 23:40:11)
    > 因果関係は行為の責任主体としての自由意志の責任を問う、という追及の仕方を自然現象にまで投影したものである。発熱の原因を、ある特定の病原菌を責任主体として疑似人間のように扱うことによって糾明するのである。人間の投影である以上それに属さない現象もでてくるのが自然だ。なぜなら自然は人間中心に造られていないからだ。恒等関係もそうだろう。総じて因果性はアプリオリといえないかもしれない。しかしだからこそ逆に自由意志の可能性は拡がるともいえる。

    発熱の原因である病原菌は発熱を目的に意図的に、それこそ責任主体として登場してきたのではなく、ただ弱肉強食の自然の法則に従って人間の体に忍び込んできたに過ぎない。時計が壊れたのはある部品が原因だがその部品が意図的に責任主体として壊したのではなく、自然現象として部品の寿命がきていたり、あるいは自然現象として部品がさびていたりする。つまり疑似人間として責任を追及するところの原因というのはわれわれ人間の側の勝手な価値判断であって、客観的に因果という法則が存在するわけではない。因果性が成り立っているのは人間の都合である。
    発熱は病原菌が捕食の過程で生じた身体の反応である。ある意味ヒュームの恒常的連接に近いかもしれない。カントのアプリオリを信じてみたい気もするがどこか無理がある。カントは第一原因を自由意志としているが、原因という概念を造っているのが自由意志なのであってつまり因果概念の主体であって、因果の法則に従うものではない。もっと因果から自由になってもいいのではないか。
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■1960 / inTopicNo.14)  Re[59]: 因果関係と恒等関係
□投稿者/ rest -(2019/10/20(Sun) 01:05:37)
    2019/10/20(Sun) 11:29:22 編集(投稿者)

    自然の事象を捉える場合、因果関係だけで見るのは一面的過ぎる。もう一つの見方がある。恒等関係だ。因果関係は時間的に継起的だが、恒等関係は同時的である。
    磁石のN極とS極の関係もそうだ。N極とN極は反発し対立しあうがN極とS極は親和的で結合する。個性原理もそうだ。同じ個性だと反発しあうが、個性が違うと親和的だ。これらの二つの現象に因果関係はない。同業種の企業は対立競争するが、異業種の企業は親和的である。第三類推の同時性も因果関係に収れんするので該当しない。二つの現象の関係は因果関係ではなく、数学的恒等関係である。因果では語れない事象があるということである。構成的原理か統整的原理かというと個別の経験的現象を全体として恒等関係として捉える統整的原理といえる。
    因果関係は行為の責任主体としての自由意志の責任を問う、という追及の仕方を自然現象にまで投影したものである。発熱の原因を、ある特定の病原菌を責任主体として疑似人間のように扱うことによって糾明するのである。人間の投影である以上それに属さない現象もでてくるのが自然だ。なぜなら自然は人間中心に造られていないからだ。恒等関係もそうだろう。総じて因果性はアプリオリといえないかもしれない。しかしだからこそ逆に自由意志の可能性は拡がるともいえる。
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■1951 / inTopicNo.15)  Re[58]: 必然性と自由
□投稿者/ rest -(2019/10/14(Mon) 00:14:44)
    このコップはじっとしている。因果性のカテゴリーはこの先もじっとすることを予測する。ところが私が動かそうという意志によって動いてしまう。つまりこのコップの必然性は途中で途切れてしまった。私の自由意志はこのコップの位置を変えることができる。トータルとしての自然は必然性ではないことがわかる。
    同じように独裁体制の続く国家は必然性であるようにじっと固定しているように見える。何もさわらなければそのまま自然状態としてその体制は続く。しかし人々の自由意志がこの必然性を途中で途切れさせることができる。それが市民革命だ。
    ヒュームのいうように必然性とは慣習による恒常的連接に過ぎないのかもしれない。慣習が変われば恒常的連接も変わらざるを得ない。カントのアプリオリな悟性のカテゴリーという見方も可能(第二類推)だが、第三アンチノミーにおいて自然因果性を自由因果性と対立するという見方はやめて、トータルとして人間の自由意志が存在するかぎり自然因果性は必然性ではないことを自覚すべきだろう。
    地球環境問題は自由意志の負の側面として捉える必要がある。平均気温1度強の上昇は平均に騙されてはいけない。夏場の気温が50度近く異常に上昇しても冬の気温がマイナス49度に下がれば平均は1度上昇ということになってしまう。だから平均しかみていないと現実を見誤ってしまう。異常気象の問題は平均の問題ではないのだ。それは地球という自然に働きかける自由意志の負の側面として自覚し、厳しく反省しなくてはいけない。反省こそ人類と動物を区別するものであり、反省こそが人類に進歩をもたらすものである。
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■1939 / inTopicNo.16)  Re[57]: 警察の民営化
□投稿者/ rest -(2019/10/12(Sat) 01:04:32)
    2019/10/12(Sat) 10:25:09 編集(投稿者)

    香港の事態を考えてみると明らかに市民革命が起きつつある。
    中国のプロレタリア革命の失敗すなわち独裁化の是正をめざした健全な市民革命だ。その行く手を妨害しているのが警察権力だ。
    むろん警察の仕事は必要だ。だが警察は権力である必要はない。支配ー被支配のない対等で自由な関係が市民社会の根本ルールだ。それを壊しかねないのが警察権力だ。銃口を市民にむけて撃つのが支配を目的とした権力としての警察だ。市民社会にとって有害以外の何物でもない。権力をとりはらって民営化すれば決して顧客である市民に銃口を向けたりすることはありえないだろう。今の警備会社が市民と契約すれば市民社会の秩序は維持されるだろう。
    逮捕権は警察の特権ではない。もともと市民が秩序維持のためにもっていたものだ。市民社会の秩序を犯したものを捕まえるのは市民でも可能なのだ。それを警察は代理委託でやっているに過ぎない。そのシステムは警察を民営化しても充分に機能していけるものだ。
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■1912 / inTopicNo.17)  Re[56]: Jazz
□投稿者/ rest -(2019/09/29(Sun) 22:53:35)
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■1908 / inTopicNo.18)  Re[55]: Jazz
□投稿者/ rest -(2019/09/29(Sun) 11:05:43)
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■1841 / inTopicNo.19)  Re[54]: Jazz
□投稿者/ rest -(2019/09/16(Mon) 22:38:28)
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■1811 / inTopicNo.20)  Re[53]: 正当防衛について
□投稿者/ rest -(2019/09/12(Thu) 00:23:53)
    2019/09/13(Fri) 00:03:27 編集(投稿者)
    2019/09/12(Thu) 08:19:22 編集(投稿者)

    正当防衛について刑法では次のように定めている。
    「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は罰しない」(刑法36条1項)
    現状として悪政を行う為政者が暴力的支配によって市民を弾圧した場合、これに対抗して市民が暴力的に戦うことは正当防衛の権利であり、これが哲学者J・ロックのいう革命権の意味だ。
    日本では非暴力のエリート知識人が正当防衛の暴力まで否定するさまは何とも嘆かわしい。

    憲法も第12条
    「自由や権利は国民の不断の努力によって保持される」
    これは国民参加をよびかけたものであり、政府は国民の信託をうけて保持の任務にあたる。自由や権利を保持するのは第1次的に国民であって政府や国家ではない。自分の自由や権利を防衛する場合だけでなく他人の権利であっても防衛権を保持できる。(『正当防衛に関する一考察』生田勝義 立命館大学2000年3,4号上巻、<271,272号>28頁)
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■1798 / inTopicNo.21)  Re[52]: 憲法について
□投稿者/ rest -(2019/09/07(Sat) 23:57:02)
    憲法第九条戦争放棄のところを否定してしまうとこの国の個性を失ってしまうのではないか。第九条は世界のどことも違う唯一の個性だと思うね。そこを否定して戦争のできる国にしちゃうとどこにでもあるありふれた国になってしまう。個性のない憲法ってつまらないよね。
    市民には自然法としての革命権がある。悪政の為政者による暴力支配に対抗するやむにやまれぬ正当防衛としての暴力、これが革命権だ。むろん為政者に理性があって聞く耳があるのなら平和革命というのも可能だろう。それなら非暴力でも有効だ。自衛隊の本質も同じだと思うね。海外の暴力的支配に対抗する正当防衛としての暴力、これが軍事力としての自衛隊だ。できればないにこしたことはない。平和裏に外交ですべてが解決するのならそのほうがいい。ただ外国の支配を受けたくないなら、対抗措置としての自衛力は必要だろう。憲法も自然法としての正当防衛いわば革命権は否定してないと思う。同じように正当防衛としての自衛力は否定していないと思うね。こちらから戦争をしかけることを禁止しているのが第九条だと思う。
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■1787 / inTopicNo.22)   時間論=自由論
□投稿者/ rest -(2019/09/04(Wed) 22:48:14)
    2019/09/07(Sat) 23:07:56 編集(投稿者)

    民主主義ってのは政党の選択をすることであって、結局、選択の自由の系譜なんですね。為政者を選択する自由、これが民主主義なんですね。一党独裁の国では政党を選択する自由がない。経済的自由は認めても政治的自由は認めない。政権が長期化すると実質的に独裁政治と同じではないか。政治的安定を求めると独裁のほうがいいに決まっている。経済に関する法律はすべて独裁政権が決めるので経済も自由とはいかない。つまり政治の自由がないと経済の自由もないということになりはしないか。
    私がなぜ物理学の四次元時間を否定するかというと時間が決定論的運命になっているからでそこには自由がない。ミンコフスキー空間では未来が実在し、自由意志の入り込む余地がない。その点カントの唯一無二の三次元空間には未来が実在しないので、未来を自由に決定できる余地があることになる。
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■1785 / inTopicNo.23)  Re[50]: 時間論
□投稿者/ rest -(2019/09/02(Mon) 09:28:09)
    No1749に返信(restさんの記事)
    > 2019/09/02(Mon) 09:09:15 編集(投稿者)
    >
    > 2019/08/29(Thu) 09:34:11 編集(投稿者)
    >
    > 哲学者マクタガートによれば時間はA系列、B系列、C系列の三つであるが、B系列=A系列+C系列の関係がある。相対論におけるミンコフスキー空間はB系列に属する。
    > マクタガートはA系列の実在性を否定しているので当然B系列も否定することになり、残るのはC系列のみということになる。相対論者が時間の実在性を否定するときはマクタガート同様にA系列の時間を否定したもので、C系列に行き着く。これは決定論的運命を肯定したものである。自由意志の存在の余地は与えられていない。映像フィルムのどこに自由意志が入り込めるというのか。
    > それに対しカントは三次元空間の唯一無二性を説き、時間の観念性を説いた。絶対的現在の時点に自由意志は存在し、変化の過程にあって、過去は消滅し、未来は実在しない。時間の実体はない。時間は社会的約束事であり、ルールに過ぎない。過去は実在しないからこそ記憶は重要であり、自由意志の責任原則から様々な可能性の選択として未来が大切なのである。時間はわれわれの観念につくりだされた偉大な創造物であり、ヘーゲルのいう疎外態である。それを否定するのではなく自由意志とともに生きるのが本来の姿だろう。

    物理学者が時間の実在を否定するのはA系列の時間であって過去、現在、未来の時間の実在を否定しているのであって、年表の時間を否定したものではない。ミンコフスキー空間の四次元性は維持しているのである。哲学者マクタガートと同じ立場ということになる。それに対してカントの立場は四次元性を否定した唯一無二の三次元空間を絶対のものとして認める立場である。同じ時間の実在性を否定するにしても立場はかなり異なる、ということに注意してもらいたい。
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■1767 / inTopicNo.24)  Re[50]: 時間論
□投稿者/ rest -(2019/08/29(Thu) 10:15:14)
    「失敗学」などで指摘されているが、個人の責任を追及すると、失敗の原因がわからなくなり、何の教訓も得られない場合がある。だから個人の責任追及よりも原因究明のほうが先だという話だ。航空機事故の場合がそうだ。同じ過ちを繰り返さないためにも原因究明が優先されるべきだろう。だが責任には二つある。個人的責任と共同体としての責任だ。この場合個人的責任は免責されても共同体としての責任は忘れてはならない。
    責任について危惧することがもう一つある。決定論的運命を奉じる人々の無責任ぶりである。自分の家族が殺されても、運命だから殺人者の責任を問えない、ということになる。自分が殺人を犯しても運命だからと責任を取ろうとしない。責任は自由意志を肯定してはじめて成り立つものであり、自由意志を否定する運命論者は責任という概念がない。つまり無責任ということだ。
    ただしその原因が社会的不可抗力の場合は責任を問えない。犯罪が社会的環境が大きな要因と考えられる場合は責任を問えない。自由意志は不可抗力には勝てないのが一般的だからだ。この場合は社会的要因を取り除く社会的責任が存在する。
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