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■2089 / inTopicNo.1)  Re[72]: 自由意志の選択(経済学の誤謬)3
  
□投稿者/ rest -(2019/11/20(Wed) 19:03:51)
    (訂正)
    ドル基軸通貨システムでもバーツ高円安が個別に生じる。タイ国とアメリカとの関係でバーツ高ドル安が生じれば日本の円はドルと連動しているので、円とドルの相場がかわらなければバーツ高ドル安はバーツ高円安になる。すると中国の元の相場が一定とすれば中国製品は割安となり、タイ産の輸入品を減らし、中国産の輸入品が増加するようになる。円安で個別に輸入品は減るが代わりの輸入品が増えて全体として輸入量は減らない。そのことから円安で一般的に輸入が減るという通説は誤謬だということがわかる。
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■2088 / inTopicNo.2)  Re[71]: 自由意志の選択(経済学の誤謬)2
□投稿者/ rest -(2019/11/20(Wed) 12:06:35)
    2019/11/20(Wed) 12:25:53 編集(投稿者)



    外国為替市場において円安ドル高になるのはドルの需要増が原因だ。ドル需要増の要因として考えられるのは輸入によるドル需要の増加だ。輸入には円をドルにかえ、ドルで輸入品を購入する必要があるからだ。輸入が増えると円安ドル高がすすむことになる。さらには金利要因がある。現在のように金利が低いと相対的に高い外国の金利を求めてドル需要が増加する。つまり円安ドル高がすすめばすすむほど輸入の増加や金利の低下がすすんでいることを示している。一般的に円安になると輸入が減るという通説は誤謬であることがわかる。
       しかし円安ドル高になると輸入品の価格が値上がりし輸入が減るのではないか、という指摘がある。ドルが国際通貨なのですべての他の国の通貨に対しても円安になってしまって区別がつかないが、ドルをはずしてみるとたとえばタイ国の通貨バーツに対して円安になると、中国の通貨元が円との交換比率が不変だとすると、輸入品はタイ国産を減らして、中国産を増やそうとする。現在のシステムでいうとアメリカとの関係で円安がすすむとユーロとの交換比率が不変とするとアメリカからの輸入が減ってヨーロッパからの輸入が増えるということになる。つまり円安になっても輸入は個別に減っても全体としては減っていない。ドル基軸通貨ではないシステムではそれが明らかになるだろう。
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■2087 / inTopicNo.3)  Re[70]: 自由意志の選択(経済学の誤謬)
□投稿者/ rest -(2019/11/18(Mon) 10:01:24)
    自由意志の選択行為として現れるのが経済である。おもに消費者の選択だろう。
    今朝の日経新聞によると2000年以降円安傾向が続き旅行収支は黒字が拡大傾向にある。円安になると外国人の旅行客が増えいわゆるインバウンドの増加がみられる。円安になって外国人の旅行ニーズが高まったのは本当だろうか。円安になると他の国の通貨が割高になる。たとえば円安はドル高だからアジアの旅行客はアメリカの旅行を控え日本の旅行を増やすだろう。つまり日本への旅行客の増加は他の国の旅行客を減らしているのである。本来なら他国へ流れる旅行ニーズを奪い取っているのである。総じて円安になっても旅行ニーズは個別に増えても全体としては増えていないのである。
    円安でアメリカでの輸出は増加しているが、他の国の通貨は相対的に高く見え他の国の輸出を減らしている。つまり、個別に増加しても全体としては増加していないのである。アメリカの消費者は価格の安い製品を高い製品と比較して安いほうを選択しているのである。高い価格から低い価格へのシフトであってニーズ全体は増えていない。価格が低下すると一般的にニーズが増加するというのは間違いであって全体としては増えていない。アメリカでの円安による価格競争は市場のニーズを一般的に増やすという、需要曲線の考え方は破綻している。
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■2077 / inTopicNo.4)  Re[69]: 永遠
□投稿者/ rest -(2019/11/15(Fri) 09:18:42)
    西脇順三郎詩集(現代詩文庫pp.72-73)

    「意識は過去だ
     意識の流れは追憶のせせらぎだ
     時の流れは意識の流れだ
     進化も退化もない
     変化するだけだ
     存在の意識は追憶の意識だ
     「現在」は文法学者が発見したイリユージョンである。
     「話す人」の位置だ
     永遠は時間でない
     時間は人間の意識にすぎない
     人間に考えられないものは永遠だ」

    「進歩といっても単に
     回転するだけだそれもやがては
     太陽とともに回転しなくなる
     でも永遠は永遠にのこる
     ヒョウタンも人間もムギも
     エーテルもアトムもなくなる
     だがすべての物質がなくなるとも
     永遠だけはのこる
     永遠はただ一つの存在で
     存在の根元として残る
     永遠という意識は人間の
     脳髄にのこされた宝石だ」(同著pp.98-99)


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■2074 / inTopicNo.5)  ありがとうございます!
□投稿者/ pipit -(2019/11/13(Wed) 12:34:37)
    返信ありがとうございます!

    rest先輩の書き込み内容はもちろん心に来ますが、
    それとは別頭で、カントの論文の題名にもグッと来ます !!(◎_◎;)

    >『――イマヌエル・カント『生きた力の真の査定についての考察』<

    そういえば解説本で時々目にした題名の論文だろうなぁ。。。

    と、本題に戻りまして、

    > 私はカントの書いた一言一句を無批判に信奉するものではありません。その意味ではカント主義者ではありません。しかしカントの上述のような批判精神を受け継ぐ者という意味では私はカント主義者です。<

    了解です (^ ^)ゞ
    御子柴善之先生も、『自分で考える勇気』という題名のジュニア向けの新書を出されていたのを思い出しました。

    >哲学者というのはだれかれの哲学者のエピゴーネンになることではありませんね。真理を探究することが第一です。そしてその真理は汝を自由にするのです。真に自由になるためにこそ真理を探究するのです。<

    はい!
    忘れがちなことも多々ありますが、
    私も、私自身で、この人生の中で真理を知りたい!!!、と、今は思ってる、ってことを、自分で時々確認するようにしたいです。
    でも、煩悩があるからかなぁ、カントのこと勉強したいと思ってしまいます。

    わたしは、カント哲学の解釈では、rest先輩と違う解釈することがいっぱいありますけど、
    restさんの穏やかなところとか尊敬しています。

    ありがとうございます、おつかれさまです (^O^)/

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■2073 / inTopicNo.6)  Re[67]: 乱入、おじゃまします〜
□投稿者/ rest -(2019/11/13(Wed) 09:14:56)
    哲学者富田恭彦の著書の孫引きですが

    「私は書物を委ねる世の人々が、私が失礼を顧みず偉大な人々に異議を唱えてみても、それが罪とみなされることはないとご判断くださるものと確信している。かような冒険的な企てを大いに恐れなければならない時代がかってあったが、それは過去のことであり、幸いにも人間知性は無知と崇拝がかつて人間知性に課した束縛からすでに脱却したと私は思う」
        ――イマヌエル・カント『生きた力の真の査定についての考察』序言より

    私はカントの書いた一言一句を無批判に信奉するものではありません。その意味ではカント主義者ではありません。しかしカントの上述のような批判精神を受け継ぐ者という意味では私はカント主義者です。哲学者というのはだれかれの哲学者のエピゴーネンになることではありませんね。真理を探究することが第一です。そしてその真理は汝を自由にするのです。真に自由になるためにこそ真理を探究するのです。
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■2071 / inTopicNo.7)  乱入、おじゃまします〜
□投稿者/ pipit -(2019/11/12(Tue) 19:43:36)
    rest先輩、こんばんは!

    rest先輩は、哲学者ではカントが好きなのですか?
    他の哲学者で、この哲学者、いいな〜と思われる方はいますか ?

    好きな作家とかはいますか ?
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■2063 / inTopicNo.8)  Re[65]: 時間の概念2
□投稿者/ rest -(2019/11/10(Sun) 13:43:28)
    2019/11/10(Sun) 13:56:32 編集(投稿者)

    ただし私は時間は実在しないものと考えている。時間は社会的約束事でしかない。日周運動という太陽の位置変化は現在進行形においてなされているものであり、現在以前の過去は記憶として残っているだけであり、過去の痕跡はどこにもみあたらない。宇宙に光の痕跡として残っているのではないか、というが曇りの日には過去の経験としての光は宇宙には出ない、ということから宇宙には過去の痕跡はない。ミンコフスキー空間のような四次元空間も仮説としては成り立つが証明されたわけではない。むしろカントのいうように空間は唯一無二の三次元空間しかないとするのが日常経験に合致する。ミンコフスキー空間では未来も過去と同様に実在するという立場に立つので自由意志の存在根拠を失うことになる。カントの過去や未来は空間としては存在しない。だからこそ自由意志が存在でき、自由に未来を選択しあるいは選択するものがなければ新しく未来を造り出すことができるのである。
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■2062 / inTopicNo.9)  Re[64]: 時間の概念
□投稿者/ rest -(2019/11/10(Sun) 13:06:33)
    時間という概念は一日の概念から始まっている。一日という時間は太陽の日周運動から派生している。時間という概念は日周運動の経験なしには成り立たない。
    朝が来、日が沈む、という単純な時間概念が経験から形成され、日周運動によって一日の時間概念が形成され、それが恣意的に24時間に細分化された。日時計が造られ、時刻をその位置から細分化する。
    現在の時刻よりも前の時刻を過去とし、現在よりも後の時刻を未来とする。いわばマクタガートのA系列の時間である。B系列の時間は日周運動の順による数え方によって形成された。総じてカントのいうようなアプリオリなものではなく経験的なものである。先祖の誰かが経験から概念化したものを子供の頃から受け継いでいるのでアプリオリと勘違いしたのだろう。ちょうどミョウバンの三角形の結晶の経験から先祖が概念化した三角形の概念をアプリオリと勘違いしたのと同じだ。
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■2034 / inTopicNo.10)  Re[63]: 空間はアプリオリか経験か
□投稿者/ rest -(2019/11/03(Sun) 12:05:34)
    2019/11/04(Mon) 23:42:26 編集(投稿者)


    空間もアプリオリな直観の基本形式とされているが、これもおかしい。
    物と物の間には何もない空間が存在するという経験を通してはじめて空間は認識されるのではないか。その延長上に空間一般という認識が形成される。三次元の空間も経験としての空間がないと成り立たない。

    犬が歩くという経験を人に置き換えてみよう。Aという人が歩くという経験はAの自由意志によって主体的行為としてなされたものであり、私の超越論的主観によって、つまり私の意志がAの歩くという経験を造り出す主体ではないのである。あくまで私の超越論的主観は表面的に表象として経験を構成しているに過ぎない。歩くという経験の主体はAなのである。物自体としてのAが主体なのである。超越論的主観の私が経験の主体ではない。物自体の触発によって経験を構成しているに過ぎない。
    「われわれは物自体がどんな状態にあるのか知らず、ただその現象、すなわち、われわれの感性がこの知られない或る物によって触発される仕方だけを知るのである。そのようにして、悟性は現象を容認する、まさしくそのことによって、物自体の存在も承認する」(カント著『プロレゴーメナ』中央公論社pp.102-103))
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■2030 / inTopicNo.11)  Re[62]: 時間はアプリオリか経験か
□投稿者/ rest -(2019/11/02(Sat) 10:22:09)
    総合的判断によって正しい認識が得られる三つの契機のうち一つが時間という形式であるが、それは経験を可能とする形式、いわゆるアプリオリな形式とみなされている。時間は太陽の日周運動を基準にしたものだが、一年後の未来は日周運動が365回行われるという経験によって確認される。つまり経験を可能にする形式としての時間は経験を前提とするという矛盾が生じアプリオリな形式が成り立たないことがわかる。

    犬が歩くという経験を表象として構成しているのが超越論的主観であるが、犬の物自体として歩く行為、つまり移動中の犬の物自体を構成しているわけではない。したがって経験を構成しているというのは表面的なものであり、神のように経験を成り立たせるというふうに考えるのは無理がある。あくまで経験の主体は物自体であり、それが経験を造り出すのであり、超越論的主観は経験を造り出すのではなく、経験を表象としてして構成しているにすぎない。プロレゴーメナの「触発」の意味もその辺にあるのだろう。
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■2005 / inTopicNo.12)  Re[61]: 因果関係と恒等関係
□投稿者/ rest -(2019/10/29(Tue) 09:22:30)
    私は買い物に行きます、というときその原因は何かという問いは普通しない。時計が壊れた、というときその原因は何かという言い方はする。つまり原因を問う、というのは何か問題があったときである。水道の蛇口から水もれがする。その原因はパッキンの破損ないしはさびた金属の破片やごみがはさまれていたりする。原因を問うのは何か問題が発生したときと決まっている。航空機事故の原因はとかそういう問題が生じたときに使われるのが原因だ。何か問題が起きた時その責任を追及する、という仕方が原因の意味である。カントは責任主体を人格と呼んだが、原因追及は責任追及と酷似している。その結果をもたらした者は誰か、と類似した形で原因を追及する。
    原因をアプリオリな悟性的カテゴリーとしていまえばそれ以上の追及はできないいわばブラックボックス化してしまう。因果は発見なのかあるいは発明なのか、前者がカントであり、後者がヒュームである。アプリオリとなると結局思考停止に陥ってしまう。それ以上は追及できないからだ。しかし理性はもっと自由に推理してもいいのではないか。物自体を自由に推理するように。
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