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■8949 / inTopicNo.1)  Re[24]: knowing itselfさんへの質問
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/11(Wed) 21:17:47)
    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    以下、とりとめのないレスになりますが返信はスルーでも結構です。

    No8896に返信(knowing itselfさんの記事)

    > そうですね。存在様相が異なるというのはそのとおりだと思いますが、自分の映画に登場する他者にも、自分の場合と同じようにスクリーンの上に映画が展開しており、そこでは逆に自分がその映画の登場人物として映画内の存在に過ぎないだろうという想定が成り立ちうるのではないでしょうか。そういう映画が70億種、想定可能だということです。

    ここがパニチェにとっては重要です。
    永井さんはともかくパニチェが〈私〉と独在論を同義とするのは上記の存在様相の違いにあります。

    〈私〉にとっての映画を展開しているというのは直接経験(体験)です。
    ところが〈私〉の映画に登場する他者も自分の場合と同じようにスクリーンの上に映画が展開しており、そこでは逆に自分がその映画の登場人物として映画内の存在に過ぎないだろうという想定はあくまでも想定であって直接経験ではない。

    自然的態度ではないですが、日常的な常識という意味で「日常的態度」と名付けることができる想定あるいは想像です。これらはエポケーの対象になります。

    ところが直接経験はどこまでいってもエポケーの対象とはならない。
    〈私〉の存在と映画上の他者の存在は明らかに異なるし、この差異は<存在>と存在の違いに等しい。

    独在論とは<存在>と存在の差異のことであり、その意味で独我ではなく<独在>であるということ。

    スクリーンや〈私〉が自他不二であるなら、この差異はどこから生じるのか、逆説的に言えばこの差異が直接経験である限りは不二のスクリーンなどありえないのではないか?むしろそちらの方が幻想ではないか?とさえ思うのです。

引用返信/返信 削除キー/
■8947 / inTopicNo.2)  Re[25]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ ななし -(2020/11/11(Wed) 20:55:14)
    knowing itselfさん、こんばんは。

    > 以下は「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫の最終ページからの引用です。
    >
    > こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見い出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームにかたを与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。
    >
    > ーーーーーーーー
    >
    > これを個人的には「スクリーン」や第五図といっていますが、「純粋持続の動的なもの」にも近いのかもしれません。

    「公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームにかたを与えることはできても、力と命を与えることはできない。」
    というのは、すごくいい表現だと思いますし、「言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめる」というのも納得です。

    自分が進んで言葉という言語ゲームのプレーヤーとなって初めて、使われている背景や場所へ入り込んで行くことで、その言葉の意味というものを獲得できるのであり、ゲームのフィールドを離れてしまったら、ルールが違うのでナンセンスなことになるのかなと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■8914 / inTopicNo.3)  自己レス
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/10(Tue) 20:38:28)
    > 以下は「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫の最終ページからの引用です。
    >
    > こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見い出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームに形を与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。
    >
    > ーーーーーーーー

    役柄(言語ゲーム)と俳優本人。第四図と第五図
引用返信/返信 削除キー/
■8910 / inTopicNo.4)  Re[24]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/10(Tue) 19:56:18)
    ななしさん 横レス失礼します


    No8856に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、詳しいレスありがとうございます。
    >
    >>さらに言語不可能(不立文字)な対象については帰謬法的な(○○は○○ではない)記述でしか示し得ないとしていることも共通していると思います。
    >
    >>言語は表現した瞬間に固定化してしまうため、無常なる対象については厳密には捉えきれないところに言語ゲームの限界があるということ。
    >
    > やはり、純粋持続の動的なものは、表し得ない。

    以下は「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫の最終ページからの引用です。

    こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見い出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームにかたを与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。

    ーーーーーーーー

    これを個人的には「スクリーン」や第五図といっていますが、「純粋持続の動的なもの」にも近いのかもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■8904 / inTopicNo.5)  「ウィトゲンシュタイン入門」永井均
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/10(Tue) 19:34:54)
    言語ゲームについて、p153〜156の記述が面白いと思いました。ここ辺りは永井独自解釈でもない?

    小見出しが、「家族的類似性」「比喩の焦点 」「ゲームの根底性ー規則とゲームの逆転」「言語ゲームの無根拠性」
引用返信/返信 削除キー/
■8896 / inTopicNo.6)  Re[23]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/10(Tue) 17:06:25)
    パニチェさんへ。レスありがとうございます。

    No8848に返信(パニチェさんの記事)

    >>>>スクリーンは不二ですが、映画内容は70億個それぞれ違います。個人はその一つだけしかわからない。この意味で私秘性があります。映画はスクリーンに上映されて初めてリアルになりますが、私秘性の体感はスクリーン以外のいかなる場所にもありえないという意味です。70億のそれぞれに私秘性をもつ映画がたった一つのスクリーンに上映されるというイメージです。
    > >>私秘性の位置は上記の説明で分かりました、が。。。。
    > >>映画内容は70億個それぞれ違い、個人はその一つだけしかわからないとすれば間主観性はどのようにしてありえますか?
    >
    >>自分の映画にはなぜか他の人間もたくさん登場します。他の個人も自分と同じような条件を生きるしかないのではという仮定・想定から、間主観性を受け入れることは可能だと思います。
    >
    > なるほど。世界があって、その中に私秘性を有する個々が存在するという常識的な世界観の逆ですね。
    > まずはスクリーンがあって、個々の映画のような世界が存在する。
    > 映画に登場する他者や物や現象はあくまでも映画内の存在であり、スクリーンである〈私〉とは存在様相は異なるということでしょうか。

    そうですね。存在様相が異なるというのはそのとおりだと思いますが、自分の映画に登場する他者にも、自分の場合と同じようにスクリーンの上に映画が展開しており、そこでは逆に自分がその映画の登場人物として映画内の存在に過ぎないだろうという想定が成り立ちうるのではないでしょうか。そういう映画が70億種、想定可能だということです。
引用返信/返信 削除キー/
■8856 / inTopicNo.7)  Re[23]: 言語の限界は言語ゲームの限界
□投稿者/ ななし -(2020/11/08(Sun) 21:17:57)
    パニチェさん、詳しいレスありがとうございます。

    > さらに言語不可能(不立文字)な対象については帰謬法的な(○○は○○ではない)記述でしか示し得ないとしていることも共通していると思います。

    > 言語は表現した瞬間に固定化してしまうため、無常なる対象については厳密には捉えきれないところに言語ゲームの限界があるということ。

    やはり、純粋持続の動的なものは、表し得ない。

    この辺が、西田哲学やベルクソンとも通じていると思われ構造主義がブルバキ数学の群論から援用したため確かに交換のシステムの分析は出来ても、生命のような動きそのものは扱えない。

    この辺がポストモダンを生み出すことになり、最終的には、ソーカル事件のような
    数学的にナンセンスなコケ脅し的な、がっかりする思想にもつながって、現代思想の停滞を招いてしまったことは、とても残念なことです。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6


引用返信/返信 削除キー/
■8848 / inTopicNo.8)  Re[22]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/08(Sun) 19:42:24)
    レスありがとうございます、knowing itselfさん。

    No8836に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>〈私〉と表記した時点で言語ゲームに乗っかってます。
    > そういう捉え方もできるでしょう。個人的には、第四図が言語ゲームで、第五図が語りえぬものと捉えています。すべてが言語ゲームであるが、語りえぬものは残りそれは言語ゲーム内にはないということがはっきりします。

    以下は念のための返信ですが。。。
    〈私〉という表記で暗黙のうちにパニチェとknowing itselfさんで伝わる(厳密には同じものでないから伝わりはしませんが)対象のものは言語ゲームには乗っかりません。
    先に返信した下記は、表現あるいは表記すれば、それがどのような表現や表記であろうとも言語ゲームになるという意味のレスです。

    >>でもその内包は言語ゲームの網目をすり抜ける。
    >>言語ゲーム外と言語ゲーム内を行ったり来たりする永井さんが言うところの「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」です。


    No8837に返信(knowing itselfさんの記事)

    > >>スクリーンは不二ですが、映画内容は70億個それぞれ違います。個人はその一つだけしかわからない。この意味で私秘性があります。映画はスクリーンに上映されて初めてリアルになりますが、私秘性の体感はスクリーン以外のいかなる場所にもありえないという意味です。70億のそれぞれに私秘性をもつ映画がたった一つのスクリーンに上映されるというイメージです。
    >>私秘性の位置は上記の説明で分かりました、が。。。。
    >>映画内容は70億個それぞれ違い、個人はその一つだけしかわからないとすれば間主観性はどのようにしてありえますか?

    > 自分の映画にはなぜか他の人間もたくさん登場します。他の個人も自分と同じような条件を生きるしかないのではという仮定・想定から、間主観性を受け入れることは可能だと思います。

    なるほど。世界があって、その中に私秘性を有する個々が存在するという常識的な世界観の逆ですね。
    まずはスクリーンがあって、個々の映画のような世界が存在する。
    映画に登場する他者や物や現象はあくまでも映画内の存在であり、スクリーンである〈私〉とは存在様相は異なるということでしょうか。


引用返信/返信 削除キー/
■8844 / inTopicNo.9)  Re[34]: 言葉ーパロール
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/08(Sun) 19:08:42)
    ■8819「哲学研究398」

    >398.「でも、何かを想像したり、あるいは実際に対象を見ているとき、わたくしは隣人の感じていない何かを感じている。」 ―― あなたの言うことは分かる。<

    あんら!そうなの?あんた。わたしが隣人の一人だとするよね。んで、あんたはわたしの感じてない何かを感じてるのね。うん、そう、わたしもあんたの感じてない何かを感じてる。んで、あんた、「あんたの言うこと分かる」って矛盾してない?

    >あなたは自分のまわりを見渡して、「わたしだけがこれを感じている」と言いたいのだ。<
    そうね、わたしと同じこと言ってる。

    >―― こうしたことばは何のためか。それは何の役にも立っていない。<
    こう見るのね。「それは何の“役に立つのか”」って。

    「哲学研究398」のこの次からの文字文は何も語ってないから、どうでもいいわ。

    ウィトさん、知ったかブリブリの典型ね。

引用返信/返信 削除キー/
■8840 / inTopicNo.10)  Re[33]: 言語ゲーム
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/08(Sun) 16:44:09)
    ジョンスミスという天才的な名優と彼によって演じられるリア王。

    この喩えが表すのは、ジョンスミス→第五図。リア王→言語ゲームとしての第四図。わたしが勝手にみなしているだけですが(笑)

    後期ウィトゲンシュタインは、人間の生そのものに言語ゲームを拡張した、汎言語ゲーム論だと言われる意味での言語ゲームです。言語ゲームを象徴する、芝居の中で演じられた人物リア王。
引用返信/返信 削除キー/
■8839 / inTopicNo.11)  言語ゲーム
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/08(Sun) 16:19:02)
    言語ゲームというのは、狭義の言語を一切使わない場合もありうるでしょう。行動基盤と規則を共有した振る舞いの連鎖は言語ゲームですね。

    超無口なメンバーばかりのバスケットの試合、評論家や記者をシャットアウトしたプロの将棋。いずれも言語ゲーム。

    一言も喋らない運転手と同乗者だけの車ばかりが道路を走っているとして、それも言語ゲームですね。

    家族が一日家の中で何も会話せずに支障なく幸福に生活するのも言語ゲームですね。

    個人的には、すべては言語ゲームという意味を上記の延長で理解しています。
引用返信/返信 削除キー/
■8837 / inTopicNo.12)  Re[21]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/08(Sun) 15:55:57)
    パニチェさんへ

    >>スクリーンは不二ですが、映画内容は70億個それぞれ違います。個人はその一つだけしかわからない。この意味で私秘性があります。映画はスクリーンに上映されて初めてリアルになりますが、私秘性の体感はスクリーン以外のいかなる場所にもありえないという意味です。70億のそれぞれに私秘性をもつ映画がたった一つのスクリーンに上映されるというイメージです。
    >
    > 私秘性の位置は上記の説明で分かりました、が。。。。
    > 映画内容は70億個それぞれ違い、個人はその一つだけしかわからないとすれば間主観性はどのようにしてありえますか?

    自分の映画にはなぜか他の人間もたくさん登場します。他の個人も自分と同じような条件を生きるしかないのではという仮定・想定から、間主観性を受け入れることは可能だと思います。
引用返信/返信 削除キー/

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