| knowing itselfさん、こんばんは。
> 以下は「ウィトゲンシュタインはこう考えた」鬼界彰夫の最終ページからの引用です。 > > こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見い出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームにかたを与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。 > > ーーーーーーーー > > これを個人的には「スクリーン」や第五図といっていますが、「純粋持続の動的なもの」にも近いのかもしれません。
「公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームにかたを与えることはできても、力と命を与えることはできない。」 というのは、すごくいい表現だと思いますし、「言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめる」というのも納得です。
自分が進んで言葉という言語ゲームのプレーヤーとなって初めて、使われている背景や場所へ入り込んで行くことで、その言葉の意味というものを獲得できるのであり、ゲームのフィールドを離れてしまったら、ルールが違うのでナンセンスなことになるのかなと思います。
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