| こんばんはパニチェさん。
示唆に富んだ書き込みありがとうございます。
> 日常の眠る時って悲しいか嬉しいかと言えば嬉しいというか平穏な気分ですから。 > これを死の練習とします。^^
西田哲学と言えば、純粋持続のベルクソンですが、ベルクソンは、臨死体験に ついて、普段は、過去を封印し、目の前のことを見るようにさせている意識の力が 弱まり、弛緩して過去の情報を見せるために一瞬、走馬灯のように過去を思い出させるとしています。(ホントのところは分かりませんが・・・)
そして、ベルクソンは、意識は、純粋持続であり、それは、音楽を聴いているときなど分かりやすいのですが、点で区切ってしまうと意味不明な単なる音になってしまいますし、流れているからわかるのです。 この辺が、生命は、川の流れだとする「動的平衡」の話とも関連してくるのですが・・・。
また、時間も意識と同じく純粋持続ですが、常識と自然科学は、時間を空間的・等質的な記号として捉えてしまい、持続としてのあり方を捨て去ってしまいます。
それは、力学のように完結した事実を表す代数方程式を用いるため、たえず形成されつつある持続や運動を表すことができないからです。
要するに、私たちが時間を空間のなかへ投影し、持続を空間の拡がりとして表すためゼノンのパラドックスのようにアキレスはカメに勝てないのです。
これは、時間を持続としてではなく空間的な点としてとらえてしまう過ちですね。
この時間の空間化は、実は、言葉によってもたらされるもので、言語は社会生活の条件である一方、個人的で捉えがたい印象を「覆い隠してしまう」性質があり、質的な感覚をあたかも不変な量的であるかのように思わせる作用があるからです。
やはり、感覚は純粋に質的なものであり、それを量的に扱うことは難しいですね。
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