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■8799 / inTopicNo.73)  Re[14]: パニチェさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/11/07(Sat) 16:47:30)
    No8772に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>ルパートスパイラの動画はたくさんあって、そのうちの一つで、「死というのは、死というイメージであるだけなのだ。」という話をしています。
    >>つまり、スクリーンだけが実在であって、私たち人間をはじめとした世界は実在ではないけれど、私たちには実在しているように見えているのだ、と言っていると私は捉えています。
    >>そうした内容について私は、否定も肯定もせず、という感じでいます。
    >
    > https://www.youtube.com/watch?v=IoJc9TCBbTI
    >
    > 正直上記の動画はよく分かりません。なんか“やらせ”みたいに見えなくもないです。
    > 私ならは唯我論的発想も唯物論的発想もないですが、もっと長々と食い下がってみますけどねぇ〜。
    > 質問者はあっさり感心しすぎ。^^

    観ていただいたんですね。^^
    質問者は、「すごい・・。」と言ってルパートスパイラの話に感心してますね。
    そんなに簡単に納得できるんか〜い♪と、初めて観た時に思いました。(笑)
    私は、ノゥイングさんからの説明を受け、急遽、理屈としては納得できるようにはなったかな、というところです。

    > 私たちが大海原に生じた渦みたいな(散逸構造)存在であるというのは(〈私〉を棚上げにすれば)理屈的には理解できます。

    はい。

    >>とりあえずには。仮に、私たちが実在ではないとしても、実在しているようには見えているし、生を充実させたい思いには変わりはないです。
    >
    > 抽象的になりますが、独在的に考えるのも、全体性として考えるのも、なんかバランスが悪いように思うんですねぇ〜。

    う〜ん。。パニチェさんの書かれたことが難しくて分からないです。
    説明もたいへんでしょうから、それはお気遣いなく。^^

    > ありがとうございます。でも買い被りです。^^
    > 毒入りパニチェを封印すると善良なイメージが独り歩きしてついて行けないタレントの気持ちが分かったような気分になります(笑)
    > やっぱどこかで掲示板時代のように毒入りパニチェを出さないと等身大のバランスがとれないような。。。。www

    ニーチェクラブには、意味もなく荒らすだけの人や極端に偏屈な人がやってこないので、毒は要らないのかもしれないですね。^^
    パニチェさんのおかけで、ニーチェクラブでいろいろと考察させていただけて、考える楽しさを感じています。

    >>洞察が脳細胞に変容をもたらすことは可能か?ですね。
    >>そのあたり、脳科学的にも何か研究がなされているかもしれないですね。
    >
    > これ外部観察的には難しいと思います。
    > 脳をスキャンしてもただどの部位がどのように活動しているかだけしか見れませんから、単体の脳を観察してもその反応がどこからの刺激なのか(あるいは洞察なのか)を特定するのは難しいと思います。

    そうなんですね。内臓などと違い、脳の仕組みや働き方についての研究は難しいということなんでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■8788 / inTopicNo.74)  写像理論から言語ゲームへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 13:27:10)
    ウィトゲンシュタインは前期の言語論である写像理論を破棄したわけではない。

    後期の言語論である言語ゲームに包括させたということ。

    言語ゲームのうちには有意味な諸命題は各々世界の諸事態の「像」であることも含まれるということ。

    語り得る範囲が言語の限界であると同時に世界の全てであるということ。

    世界外のことは言語外であり語り得ないが示し得る、と。
引用返信/返信 削除キー/
■8772 / inTopicNo.75)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 08:47:44)
    2020/11/07(Sat) 09:16:37 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No8689に返信(minoriさんの記事)
    > ルパートスパイラの動画はたくさんあって、そのうちの一つで、「死というのは、死というイメージであるだけなのだ。」という話をしています。
    > つまり、スクリーンだけが実在であって、私たち人間をはじめとした世界は実在ではないけれど、私たちには実在しているように見えているのだ、と言っていると私は捉えています。
    > そうした内容について私は、否定も肯定もせず、という感じでいます。

    https://www.youtube.com/watch?v=IoJc9TCBbTI

    正直上記の動画はよく分かりません。なんか“やらせ”みたいに見えなくもないです。
    私ならは唯我論的発想も唯物論的発想もないですが、もっと長々と食い下がってみますけどねぇ〜。
    質問者はあっさり感心しすぎ。^^

    私たちが大海原に生じた渦みたいな(散逸構造)存在であるというのは(〈私〉を棚上げにすれば)理屈的には理解できます。

    > とりあえずには。仮に、私たちが実在ではないとしても、実在しているようには見えているし、生を充実させたい思いには変わりはないです。

    抽象的になりますが、独在的に考えるのも、全体性として考えるのも、なんかバランスが悪いように思うんですねぇ〜。

    > 自分自身が思考を起こそうとしているのではない、ということであれば、同じ意味合いかもしれません。

    これは脳の反応を考えてもそうですね。まずは外部刺激があって反応しますから、思考が自己完結的に生じるなんてことはないと思います。

    >>思考や感情が気づかれる側のものであるというのは実体験としても分かります。
    > はい。 この部分が分からなくて、思考・感情そのものが自分だと思っていると、それに圧倒されたり苦しめられたリしやすいと思います。

    なるほど。

    >>これめちゃめちゃ難しいと思います。瞋恚ではない他者に向けた慈悲ある厳しさ。
    > パニチェさんならかなり接近できそうに思いますよ。
    > 筋を通すところは通しながらも愛がありますから。
    > なんか偉そうに言っちゃってる感じの書き方しかできなくて・・・こういうあたりを上手く表現できるといいんだろうな。。
    > でも、思うところを伝えたく、書かせていただきました。

    ありがとうございます。でも買い被りです。^^
    毒入りパニチェを封印すると善良なイメージが独り歩きしてついて行けないタレントの気持ちが分かったような気分になります(笑)
    やっぱどこかで掲示板時代のように毒入りパニチェを出さないと等身大のバランスがとれないような。。。。www

    > 洞察が脳細胞に変容をもたらすことは可能か?ですね。
    > そのあたり、脳科学的にも何か研究がなされているかもしれないですね。

    これ外部観察的には難しいと思います。
    脳をスキャンしてもただどの部位がどのように活動しているかだけしか見れませんから、単体の脳を観察してもその反応がどこからの刺激なのか(あるいは洞察なのか)を特定するのは難しいと思います。

    > 素人的に考えるには・・無意識状態ではなく、いつも今の状況に気づいている意識状態でいれば、その時々に対応したアイデアが自動的に選択されていくというのはあるかもしれないな、ということです。
    > 私も、意識というもののあり方に脳や身体のあり方が無関係とはとても思えないですし、自分に分からないこと、体験できていないことは闇雲に信じるのはしたくないと思っています。

    同意です。

引用返信/返信 削除キー/
■8689 / inTopicNo.76)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/11/04(Wed) 09:41:51)
    No8648に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>よく名前の出てくるルパートスパイラという覚者も、最初のうちは「気づいている自分」というのが個別の身体内に閉じ込められたものだと思っていて、探究によってそうではないと分かっていったそうです。
    >>(minori自身もこの部分についてはまだ確信には至ってはいなくて、仮説的な考えでいます。)
    >>ノゥイングさんがよく名前を出されている覚者です。
    >>穏やかで品のいい普通な感じの人ですよ。
    >
    > 画像を検索しました。確かに上品でよい意味で普通に感じのよい方に見えますね。
    > 動画も出てきたので見ました。物静かで落ち着いた声ですね。
    > https://www.youtube.com/watch?v=5JpMqoO3AHk

    ルパートスパイラの動画はたくさんあって、そのうちの一つで、「死というのは、死というイメージであるだけなのだ。」という話をしています。
    つまり、スクリーンだけが実在であって、私たち人間をはじめとした世界は実在ではないけれど、私たちには実在しているように見えているのだ、と言っていると私は捉えています。
    そうした内容について私は、否定も肯定もせず、という感じでいます。
    とりあえずには。仮に、私たちが実在ではないとしても、実在しているようには見えているし、生を充実させたい思いには変わりはないです。

    >>「私」感覚が薄れることによって、自我意識と呼ばれるものの性質が変わるということではないだろうか、とのあたりについて考えています。
    >>パニチェさんとしてはこのあたりいかがですか?
    >>何かについて考えるという時、それは自らが思考していると思われますか?
    >>それとも自らというのではなく、流れてくるものという感じですか?
    >
    > 思考はまだ流れてくるものという感覚は味わえてないですね、立ち起こるものというイメージです。ん?同じかな(笑)

    自分自身が思考を起こそうとしているのではない、ということであれば、同じ意味合いかもしれません。

    > あと〈私〉はやはり末那識か阿頼耶識、「気づき」は〈私〉が末那識ならば阿頼耶識、〈私〉が阿頼耶識ならば阿摩羅識(如来蔵)みたいなイメージがあります。

    仏教の言葉においても、同じようなことを言い表すものはあるのかもしれないですね。

    >>「永井均 瞑想」で検索すると、永井さんが瞑想について詳しいことが分かります。
    >>(私のこの投稿の昨日のこのあたりについての文章を編集しています。)
    >>不放逸と苦の関係について書かれている、2014年のTwitter投稿を拝見することができました。
    >>不放逸というのは、マインドフルネスであること・今にあること、と私は考えています。
    >>そして、思考・感情などは、気づかれる側のものであり、主体である「気づき」ではない、と分かることは救いでもあると思っています。
    >
    > 思考や感情が気づかれる側のものであるというのは実体験としても分かります。

    はい。 この部分が分からなくて、思考・感情そのものが自分だと思っていると、それに圧倒されたり苦しめられたリしやすいと思います。

    >>実際、ありのままでいいんだみたいに人に接する方も多い印象があります。
    >>でも私は思うんですよね。それって自己イメージを壊したくなくて言わないだけなのか、ほんとにそう思ってるのか微妙にも思えるんです。
    >
    > 自己を美化する綺語にも相通じますね。覚者が時に毒舌に聞こえるのは「自己イメージを壊したくない」ということに頓着していないからだと思います。
    > 雪担老師がそうだったなぁ〜。懐かしい。。。^^

    あらゆる自己イメージを悟ると持たなくなると、どこかで聞いた気がするんですよね。^^
    自分はいなかったとはっきり分かれば、イメージも持ちようがないということなのかもしれません。

    > >>そして今の日本に必要な愛はニーチェ的な厳しさを伴った古きよき威厳ある父親が持っていたパターナリズムではないか、とさえ感じています。
    >>そうですね。人として理想形だと思います。
    >
    > これめちゃめちゃ難しいと思います。瞋恚ではない他者に向けた慈悲ある厳しさ。

    パニチェさんならかなり接近できそうに思いますよ。
    筋を通すところは通しながらも愛がありますから。
    なんか偉そうに言っちゃってる感じの書き方しかできなくて・・・こういうあたりを上手く表現できるといいんだろうな。。
    でも、思うところを伝えたく、書かせていただきました。

    >>ただ、感じるのは。永井さんは瞑想もご自身でされ、そこでの経験から、「バージョンU」のあのあとがきの文章も書かれたのだな、ということです。
    >>p280〜281
    >
    > 〈私〉が客観世界やその内部にいる「私」に影響を与えることが可能であるか?ついてはパニチェも可能であると考えています。
    > これって愚さんが翻訳された「時間の終焉」に登場する「洞察は脳細胞に変容をもたらすことができるか?」の問いと同じ構図であり、その答えは“イエス”ですね。

    洞察が脳細胞に変容をもたらすことは可能か?ですね。
    そのあたり、脳科学的にも何か研究がなされているかもしれないですね。

    素人的に考えるには・・無意識状態ではなく、いつも今の状況に気づいている意識状態でいれば、その時々に対応したアイデアが自動的に選択されていくというのはあるかもしれないな、ということです。

    私も、意識というもののあり方に脳や身体のあり方が無関係とはとても思えないですし、自分に分からないこと、体験できていないことは闇雲に信じるのはしたくないと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■8675 / inTopicNo.77)  Re[14]: 認識と誤謬
□投稿者/ ななし -(2020/11/03(Tue) 21:03:35)
    こんばんはパニチェさん。

    示唆に富んだ書き込みありがとうございます。

    > 日常の眠る時って悲しいか嬉しいかと言えば嬉しいというか平穏な気分ですから。
    > これを死の練習とします。^^

    西田哲学と言えば、純粋持続のベルクソンですが、ベルクソンは、臨死体験に
    ついて、普段は、過去を封印し、目の前のことを見るようにさせている意識の力が
    弱まり、弛緩して過去の情報を見せるために一瞬、走馬灯のように過去を思い出させるとしています。(ホントのところは分かりませんが・・・)

    そして、ベルクソンは、意識は、純粋持続であり、それは、音楽を聴いているときなど分かりやすいのですが、点で区切ってしまうと意味不明な単なる音になってしまいますし、流れているからわかるのです。
    この辺が、生命は、川の流れだとする「動的平衡」の話とも関連してくるのですが・・・。

    また、時間も意識と同じく純粋持続ですが、常識と自然科学は、時間を空間的・等質的な記号として捉えてしまい、持続としてのあり方を捨て去ってしまいます。

    それは、力学のように完結した事実を表す代数方程式を用いるため、たえず形成されつつある持続や運動を表すことができないからです。

    要するに、私たちが時間を空間のなかへ投影し、持続を空間の拡がりとして表すためゼノンのパラドックスのようにアキレスはカメに勝てないのです。

    これは、時間を持続としてではなく空間的な点としてとらえてしまう過ちですね。

    この時間の空間化は、実は、言葉によってもたらされるもので、言語は社会生活の条件である一方、個人的で捉えがたい印象を「覆い隠してしまう」性質があり、質的な感覚をあたかも不変な量的であるかのように思わせる作用があるからです。

    やはり、感覚は純粋に質的なものであり、それを量的に扱うことは難しいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■8672 / inTopicNo.78)  Re[13]: 認識と誤謬
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/03(Tue) 11:44:22)
    2020/11/03(Tue) 11:48:38 編集(投稿者)

    レスありがとうございます、ななしさん。

    西田の晩年の論文『場所的論理と宗教的世界観』には「宗教心というものは、…我々の自己自身の存在が問われる時、自己自身が問題となる時、はじめて意識せられる」と記されているようですが、私はこういう発想には共感しません。
    死と対峙しても神仏を意識することなく自分の死を自分の死として安らかな心で受けとめるというのが理想です。

    死後は無記のままでいい。

    もっとも臨死体験のようなものがなければ(例えば脳機能が低下した時に発動される恐怖回避への最終プログラムで体験する幻想とかであれば)、自分の死を自分は体験できないわけで、その意味においては死にません。
    目覚めのない眠りのように死ねたらそれが理想ですね。

    日常の眠る時って悲しいか嬉しいかと言えば嬉しいというか平穏な気分ですから。
    これを死の練習とします。^^

引用返信/返信 削除キー/
■8671 / inTopicNo.79)  Re[12]: 認識と誤謬
□投稿者/ ななし -(2020/11/03(Tue) 10:26:44)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    福岡先生の「動的平衡」から西田哲学を学ぶことは、大変分かりやすいなあと思いました。

    『善の研究』は、1911(明治 44)年発行の西田最初の体系的著述ですが、同著は、第一編「純粋経験」、第二編「実在」、第三編「善」、第四編「宗教」の 4 編からなっています。

    最後が宗教であり、かつ第一・二・三編それぞれの最終章が宗教に関する内容となってい
    るのは、「宗教は哲学の終結である」と位置づけられているからでしょう。

    「純粋経験」とは、「実在」を体験することで、「実在」は、「純粋経験」を通してのみ経験されるということです。「実在」は、現実そのまま、ありのままの物自体です。
    西田にとって「実在」とは、「神」のことを考えることでした。

    『宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己 がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由り て永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロ が「すでにわれ生けるにあらず基督 我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神 に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。』(西田 幾多郎. 善の研究第四編「宗教」)

    西田の「善」とは何か。「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求める」ことで真の自己になること。善とは、self-realization「自己実現」、つまり、自己の可能性の開花であり、それに基づいて「行為」することなのです。

    「善」とは、作り上げるのではなく、既に自己にある生きる意味を発見していくこと。

    このことは、「純粋経験」ピュシスによる「言葉」ロゴスを超えて宇宙の本体と一体化すること、主客合一、梵我一如して「私」を超えて「私たち」へ、そして、「人類、宇宙」へと至ることです。
    この人格の実現、自己実現が、悟りであり、救済なのかなと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■8648 / inTopicNo.80)  「気づき」と〈私〉>minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/03(Tue) 09:52:03)
    おはようございます、minoriさん。レスありがとうございます。

    No8614に返信(minoriさんの記事)
    > 自我の私についている思い癖、思い込み、先入観、心身両方に関わる悪習慣など、人によって内容は異なると思います。
    > そうした余計なものが生きる上での苦に繋がり、「私」の実体視に拍車をかけていると思います。

    その通りだと思います。

    > >>非二元の「気づき」ということで言えば、「私」というのは「気づき」に経験として現れるものであって「私」は主体ではないんですね。
    >>「私」が主体ではないということは同意できます。

    > はい。ここについては、〈私〉の「私」も主体ではないのだろう、と想像していました。
    > となると、パニチェさん的には〈私〉が主体でいいのでしょうか。
    > 次のパニチェさんの文章から判断させていただくに、そのようだと思っていますけれど。

    > >>経験として現れるものという意味では、他者と面と向かい話をするような時を例えれば、他者というのも気づきに現れる(経験である)となります。
    > >>「気づき」が主体で、私も他者もそこに現れるものです。
    > >>とはいえ、minori自身について言えば、カチンとくれば「私」が発動してきます。 まだダメです。
    >>上記だけ読むと「気づき」と〈私〉は同義のように思えるのですが。。。^^
    > この部分についても、想像していたのと同じようです。
    > 「気づき」と〈私〉の、両者のモノ(分かりやすいようにモノと表現します。)は、元々としては同じモノだと私は考えています。
    > つまり、同じく自我意識から人は経験していくのだと思います。

    同意です。

    > よく名前の出てくるルパートスパイラという覚者も、最初のうちは「気づいている自分」というのが個別の身体内に閉じ込められたものだと思っていて、探究によってそうではないと分かっていったそうです。
    > (minori自身もこの部分についてはまだ確信には至ってはいなくて、仮説的な考えでいます。)
    > ノゥイングさんがよく名前を出されている覚者です。
    > 穏やかで品のいい普通な感じの人ですよ。

    画像を検索しました。確かに上品でよい意味で普通に感じのよい方に見えますね。
    動画も出てきたので見ました。物静かで落ち着いた声ですね。
    https://www.youtube.com/watch?v=5JpMqoO3AHk

    > minoriは、〈私〉の意識は自我意識ではないかと想像しています。
    > 個別の自我として想定されるのが自我意識と言われるものだからです。
    > 「気づき」のほうは、個別の自我というものは存在しないと考え、思考・感情も「気づき」に表れる(流れてくる)ものと考えます。
    > 自分が自ら考えているとは思わないし、これについてはminoriも実感としています。
    > 「私」感覚が薄れることによって、自我意識と呼ばれるものの性質が変わるということではないだろうか、とのあたりについて考えています。
    > パニチェさんとしてはこのあたりいかがですか?
    > 何かについて考えるという時、それは自らが思考していると思われますか?
    > それとも自らというのではなく、流れてくるものという感じですか?

    思考はまだ流れてくるものという感覚は味わえてないですね、立ち起こるものというイメージです。ん?同じかな(笑)
    あと〈私〉はやはり末那識か阿頼耶識、「気づき」は〈私〉が末那識ならば阿頼耶識、〈私〉が阿頼耶識ならば阿摩羅識(如来蔵)みたいなイメージがあります。

    > 「永井均 瞑想」で検索すると、永井さんが瞑想について詳しいことが分かります。
    > (私のこの投稿の昨日のこのあたりについての文章を編集しています。)
    > 不放逸と苦の関係について書かれている、2014年のTwitter投稿を拝見することができました。
    > 不放逸というのは、マインドフルネスであること・今にあること、と私は考えています。
    > そして、思考・感情などは、気づかれる側のものであり、主体である「気づき」ではない、と分かることは救いでもあると思っています。

    思考や感情が気づかれる側のものであるというのは実体験としても分かります。

    > >>とはいえ、慈悲だけが人間としての徳目ではないと思いますし、〈私〉を極めることによって発生する徳目というのが逆にあるのではないかと思います。
    > >>勇気、主体性、自立とか。そんなイメージがあります。

    >>本当に鋭いですね。これ初めてカキコしますが。。。
    >>仏教的な慈悲とかキリスト教の隣人愛って、ある側面は同情とか同苦とか、よく言えば母性的な愛の側面がありますが、これだけでは相手の依存心を増長させるだけに終わったり、結果的には弱体化に終わることもあると思うのです。

    > そうですね、慈悲、愛というのは、なんでも受け止めるという感じが強いですね。
    > 実際、ありのままでいいんだみたいに人に接する方も多い印象があります。
    > でも私は思うんですよね。それって自己イメージを壊したくなくて言わないだけなのか、ほんとにそう思ってるのか微妙にも思えるんです。

    自己を美化する綺語にも相通じますね。覚者が時に毒舌に聞こえるのは「自己イメージを壊したくない」ということに頓着していないからだと思います。
    雪担老師がそうだったなぁ〜。懐かしい。。。^^

    >>『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってするだが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と(ツァラトゥストラ)』
    >>『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ)』
    >>これを補い慈悲の本来の目的である抜苦を実現するためバランス(中道)を保つためには教令輪身(不動明王)のようないい意味でのパターナリズムが必要だと思いす。
    >>後者が強さに裏付けられた強者へ導くための慈悲ではないか。

    > ほんとうはそういうものだと思います。
    > 仏陀もイエスも厳しいところは厳しかったと思いますし。
    > 例えばですがかなりわけわからないことをしている人に対して、ありのままでいいというのはへんだと思います。

    同意します。

    >>独在論的〈私〉の徳目としてminoriさんが挙げられた「勇気、主体性、自立(自律)&自制、アイデンティティー」を促すような後者の慈悲に繋がれば素晴らしいだろう〜なというのは思っていました。
    >>そして今の日本に必要な愛はニーチェ的な厳しさを伴った古きよき威厳ある父親が持っていたパターナリズムではないか、とさえ感じています。
    > そうですね。人として理想形だと思います。

    これめちゃめちゃ難しいと思います。瞋恚ではない他者に向けた慈悲ある厳しさ。

    >>独在論的な〈私〉と無我が非二元(自他不二)は普通に考えれば相容れない。
    >>それは電子の相補的な性質として記述される、普通は相容れない波動性と粒子性が同居している違和感に近いです。^^

    > う〜ん。。ここについては私はなんとも言えないところです。
    > 他のトピで、ノゥイングさんに質問されていらっしゃいますよね。
    > そこでやり取りされると分かるかも。
    > 非二元と独在論的〈私〉、両方にお詳しいようなので。

    ありがとうございます。了解しました。

    > ただ、感じるのは。永井さんは瞑想もご自身でされ、そこでの経験から、「バージョンU」のあのあとがきの文章も書かれたのだな、ということです。
    > p280〜281

    〈私〉が客観世界やその内部にいる「私」に影響を与えることが可能であるか?ついてはパニチェも可能であると考えています。
    これって愚さんが翻訳された「時間の終焉」に登場する「洞察は脳細胞に変容をもたらすことができるか?」の問いと同じ構図であり、その答えは“イエス”ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■8646 / inTopicNo.81)  Re[11]: 認識と誤謬
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/03(Tue) 08:58:38)
    おはようございます、ななしさん。レスありがとうございます。

    No8608に返信(ななしさんの記事)
    >>人間の認識には誤謬や錯誤が伴いますが、それが創造(生成)の原動力となる。
    >>認識が絶対的な認知であれば、そこで意味や価値や目的は固定化、普遍化されます。
    >>つまり誤謬や錯誤は果てしなき解釈によって無限の可能性を示すもので、世界は無限の解釈を内に含む魅力的なかつ好奇心の帆を上げて船出するに相応しい大海原になるというような発想です。

    >>万人がそれぞれの生や世界の創造者であり、それが人として生まれた特権でもあるというようなことへの賛歌です。
    >>これを委縮させ、画一化し、家畜(畜群)のような没個性を強いるキリスト教的善悪二元論道徳を破壊(否定)しました。
    >
    > まさに、ハイデガーの現存在やガダマーの地平の融合の解釈学のように実存的な
    > 解釈は、対象や他者との会話、循環の無限運動のように汲めども尽きぬもので、
    > ニーチェも、生きることは、固定的な意味の解釈ではない、自分が他者のテクストから働きかけられて、常に脱自し超越していく永遠回帰な無限運動だと見ていたのかもしれませんね。

    素晴らしい!その通りだと思います。
    ちなみに「力への意志」はハイデガーが行ったニーチェに関する講義が1961年に出版されており、ハイデガー全集の6-1巻&6-2巻にニーチェT&Uとして収められています。
    未完の主著である「力への意志」はハイデガーの講義によって補足され、完成したと評価されているようです。


    No8609に返納められています記事)
    > パニチェさん、返信のお礼を述べずにすみませんでした。

    とんでもない。そんなことお気遣いなく。^^

    > ニーチェは、人間というものが生きているものだということを
    > ホント考えさせてくれますね。

    そうなんです。少なくとも私にとっては単なる机上の哲学ではないです。
引用返信/返信 削除キー/
■8640 / inTopicNo.82)  Re[13]: 福岡伸一、西田哲学を読む
□投稿者/ ななし -(2020/11/02(Mon) 21:45:11)
    こんばんは。

    仕事から帰ってきてから読み終えました。

    特に、「オートファジーの仕組みの解明」により2016年のノーベル生理学・医学賞を
    受賞した大隅良典先生の事も書かれていて、とても面白く、生命の不思議さについて思いを新たにしました。

    西洋哲学・科学が求めてきた合理的な「ロゴスの立場」は、反対に、矛盾や相反するもののなかで調和する自然本来のあり方ピュシス〔自然〕の立場を置き去りにしてきたことを批判し、西田哲学は、ピュシスへの立ち返りに挑んだということでした。

    そして、「動的平衡」の理論モデル(ベルグソンの弧)は、オートファジー等による「先回り」して破壊することでエントロピーに抵抗する様子が具体的に説明されていて分かりやすかったです。




引用返信/返信 削除キー/
■8619 / inTopicNo.83)  福岡伸一、西田哲学を読む
□投稿者/ ななし -(2020/11/01(Sun) 21:24:52)
    こんばんは。

    夕方6時過ぎにAmazonから郵送が届きさっそく読み始めました。

    9割ほど読んだのですが、西田哲学を学ぶには、逆にこの本を読まなと何が
    書かれているかわからないなあと思いました。

    そして、大切なことは隠されているんだなあと自然の営みの不思議を思いました。

    こうしていても、宇宙の「エントロピー」は増大し続けるし、人間社会でもいろんな次元で「破壊や分解」と「創造や合成」は繰り返されていく。

    生物は自らを先回りして「破壊」し続けることで生きている訳で、その行動の目的も、新しいものを創るためだけじゃなく、いま作ったばかりの細胞を「壊す」ことだったりする。細胞は作るよりも、壊すアプローチの方が多く、「壊す」ために生きているとも言えるほど。しかもそれを平気でやるのだとか。

    それも、エントロピーに負けないためなんですね。

    それと、動的平衡の数理的概念モデル「ベルグソンの弧」もあるので、
    今後、じっくり見ていきたいと思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■8614 / inTopicNo.84)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/11/01(Sun) 16:38:04)
    2020/11/02(Mon) 07:38:02 編集(投稿者)


    No8596に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>>>それは、もともとその人にくっついていた余計なものが削ぎ落された結果なのだろうな、と思うんですね。
    >
    > 余計なものとは我(我の強さであるところの我)みたいなものですか、つまり「私」。

    自我の私についている思い癖、思い込み、先入観、心身両方に関わる悪習慣など、人によって内容は異なると思います。
    そうした余計なものが生きる上での苦に繋がり、「私」の実体視に拍車をかけていると思います。

    >>非二元の「気づき」ということで言えば、「私」というのは「気づき」に経験として現れるものであって「私」は主体ではないんですね。
    >
    > 「私」が主体ではないということは同意できます。

    はい。ここについては、〈私〉の「私」も主体ではないのだろう、と想像していました。
    となると、パニチェさん的には〈私〉が主体でいいのでしょうか。
    次のパニチェさんの文章から判断させていただくに、そのようだと思っていますけれど。

    >>経験として現れるものという意味では、他者と面と向かい話をするような時を例えれば、他者というのも気づきに現れる(経験である)となります。
    >>「気づき」が主体で、私も他者もそこに現れるものです。
    >>とはいえ、minori自身について言えば、カチンとくれば「私」が発動してきます。 まだダメです。
    >
    > 上記だけ読むと「気づき」と〈私〉は同義のように思えるのですが。。。^^

    この部分についても、想像していたのと同じようです。
    「気づき」と〈私〉の、両者のモノ(分かりやすいようにモノと表現します。)は、元々としては同じモノだと私は考えています。
    つまり、同じく自我意識から人は経験していくのだと思います。

    よく名前の出てくるルパートスパイラという覚者も、最初のうちは「気づいている自分」というのが個別の身体内に閉じ込められたものだと思っていて、探究によってそうではないと分かっていったそうです。
    (minori自身もこの部分についてはまだ確信には至ってはいなくて、仮説的な考えでいます。)
    ノゥイングさんがよく名前を出されている覚者です。
    穏やかで品のいい普通な感じの人ですよ。

    minoriは、〈私〉の意識は自我意識ではないかと想像しています。
    個別の自我として想定されるのが自我意識と言われるものだからです。
    「気づき」のほうは、個別の自我というものは存在しないと考え、思考・感情も「気づき」に表れる(流れてくる)ものと考えます。
    自分が自ら考えているとは思わないし、これについてはminoriも実感としています。
    「私」感覚が薄れることによって、自我意識と呼ばれるものの性質が変わるということではないだろうか、とのあたりについて考えています。

    パニチェさんとしてはこのあたりいかがですか?
    何かについて考えるという時、それは自らが思考していると思われますか?
    それとも自らというのではなく、流れてくるものという感じですか?


    > >>〈私〉を第五図に重ねる永井さんは、そこには「ただ見ているだけ」で一切の意味付けはないとしており、このことからして一元であることや世界内ではなく接点を持つ世界外にいることのみ第五図と共通しても、独在的であるとは変わりなく、よって自己や他者、世界に対する慈悲なんてものが生じようがない。このことは〈私〉と第五図を一致させようとするところから無理が生じているようにさえ思えるということです。
    >
    >>〈私〉はただ見ているだけ、ということで、それはそうなんだろうなと思うのですが。
    >>でも、〈私〉が「私」(この場合の私というのは、その人個人という意味)を見ることが可能であるなら、例えば瞑想することにより、そういうところから慈悲が発生してくるというのはあるかもしれないと考えました。
    >>永井さんもヴィパッサナー瞑想をされるそうですよね。^^
    >>今現在もかどうかは不明ですが。
    >
    > なるほど、やっぱ慈悲も〈私〉と非二元の折り合いも体験が不可欠かなぁ〜。^^;

    「永井均 瞑想」で検索すると、永井さんが瞑想について詳しいことが分かります。
    (私のこの投稿の昨日のこのあたりについての文章を編集しています。)
    不放逸と苦の関係について書かれている、2014年のTwitter投稿を拝見することができました。
    不放逸というのは、マインドフルネスであること・今にあること、と私は考えています。

    そして、思考・感情などは、気づかれる側のものであり、主体である「気づき」ではない、と分かることは救いでもあると思っています。

    >>とはいえ、慈悲だけが人間としての徳目ではないと思いますし、〈私〉を極めることによって発生する徳目というのが逆にあるのではないかと思います。
    >>勇気、主体性、自立とか。そんなイメージがあります。
    >
    > 本当に鋭いですね。これ初めてカキコしますが。。。
    > 仏教的な慈悲とかキリスト教の隣人愛って、ある側面は同情とか同苦とか、よく言えば母性的な愛の側面がありますが、これだけでは相手の依存心を増長させるだけに終わったり、結果的には弱体化に終わることもあると思うのです。

    そうですね、慈悲、愛というのは、なんでも受け止めるという感じが強いですね。
    実際、ありのままでいいんだみたいに人に接する方も多い印象があります。
    でも私は思うんですよね。それって自己イメージを壊したくなくて言わないだけなのか、ほんとにそう思ってるのか微妙にも思えるんです。

    > 『きみたちは、隣人のまわりに押しかけ、そのことを言い表すのに、美しい言葉の数々をもってするだが、わたしは、きみたちに言う、きみたちの隣人愛はきみたちの不十分な自己愛なのだ、と(ツァラトゥストラ)』
    >
    > 『ひとはなお隣人を愛し、隣人をわが身にこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。(ツァラトゥストラ)』
    >
    > これを補い慈悲の本来の目的である抜苦を実現するためバランス(中道)を保つためには教令輪身(不動明王)のようないい意味でのパターナリズムが必要だと思いす。
    > 後者が強さに裏付けられた強者へ導くための慈悲ではないか。

    ほんとうはそういうものだと思います。
    仏陀もイエスも厳しいところは厳しかったと思いますし。
    例えばですがかなりわけわからないことをしている人に対して、ありのままでいいというのはへんだと思います。

    > 独在論的〈私〉の徳目としてminoriさんが挙げられた「勇気、主体性、自立(自律)&自制、アイデンティティー」を促すような後者の慈悲に繋がれば素晴らしいだろう〜なというのは思っていました。
    > そして今の日本に必要な愛はニーチェ的な厳しさを伴った古きよき威厳ある父親が持っていたパターナリズムではないか、とさえ感じています。

    そうですね。人として理想形だと思います。

    >>内山老師は、カント哲学を大学で勉強されて、その知識からあの図を描くヒントとしたそうですが、〈私〉についてはそれはなかったのかもしれないですね。
    >>永井さん的には、〈私〉と「私」の関係性と第五図の「ただ見る」と第四図の関係性においては同じだと考えたのかもしれないと思っています。
    >
    > なんかほんと穿った見方というか、私の性格の悪さから毒舌を吐かせてもらうなら。。。(笑)
    > 永井さんは一照さんや良道さんの〈仏教3.0〉や悟りに乗っかって、根幹的なところを妥協しているようにも思えます。
    >
    > 独在論的な〈私〉と無我が非二元(自他不二)は普通に考えれば相容れない。
    > それは電子の相補的な性質として記述される、普通は相容れない波動性と粒子性が同居している違和感に近いです。^^

    う〜ん。。ここについては私はなんとも言えないところです。
    他のトピで、ノゥイングさんに質問されていらっしゃいますよね。
    そこでやり取りされると分かるかも。
    非二元と独在論的〈私〉、両方にお詳しいようなので。

    ただ、感じるのは。永井さんは瞑想もご自身でされ、そこでの経験から、「バージョンU」のあのあとがきの文章も書かれたのだな、ということです。
    p280〜281
引用返信/返信 削除キー/

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