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■8093 / inTopicNo.49)  たーぼーさんへ
  
□投稿者/ minori -(2020/10/21(Wed) 18:19:22)
    たーぼーさん、こちらへの横レスを、私のトピにさせていただきました。
    読んでいただけるとありがたいです。

    >もちろん自分の出来る範囲でやれることはやろうと思ってます。
    特に寺や宗教とは距離がある人で、一人で悩んでいるような人の手助けをするのが私の役割のような気がしてます。
    >耳を傾けてくれる人で、尚且つ頼る人がいない人とか、色々考えすぎて混乱してしまっている人とか気持ちは私もよく分かるから微力ながら、そういう人達の力になりたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8090 / inTopicNo.50)  Re[33]: 沈黙 遠藤周作
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 17:15:37)
    No8086に返信(minoriさんの記事)
    > ■No8082に返信(たーぼーさんの記事)
    >
    > たーぼーさん、レスありがとうございます。
    >
    >>黒板の前に座っていたからキチジローに自分を重ね合わしていました。
    >>今は黒板を背にして立ち上がったのでロドリゴに自分を重ね合わしてます。
    >
    > 進歩、展開というような言葉で表されるようなものがあった、ということになるのですね。 そんな風に想像させていただきました。
    >
    >>棄教しなければ信者が苦しみます。
    >>辛いですが、自分の信念より信者の心の安定を計るのがやはり宗教者のあるべき道だと思います。
    >
    > 二人の人物の葛藤はすごかったでしょうね。 でも、書かれているとおりになると思います。

    私は棄教しました。私もロドリゴと同じように、ここ2年くらい耳鳴りが酷かったんです。
    信者の悲鳴だったんだと思います。棄教したとたん、ピタリと耳鳴りが止みました。
    まだ若干の耳に異音があるから捨てきれてないものが、まだあると思ってます。
    もう追々でいいから、のんびり自分のペースで探求していこうと思います。

    >>物語は全て自作自演ではないでしょうか。
    >>ただその自作自演の物語を物語はつまらないといってガチの総合格闘技にいく人と、物語こそ楽しいじゃないかとプロレス的な感覚で自分の脚本を楽しむ人で宗教の分かれ道があるように思います。
    >>ガチでやったら人生も世の中もなくなります。
    >>そんな身も蓋もない道を極めて楽しいのかなと個人的には思いますね。
    >
    > すみません。。 書かれていることが、ここはよく分からなかったです。

    わからないことは誰がなんといおうと納得しない方がいいです。
    その時の自分の基準が最も正しいという自信の方が大事だと思います。


    >>やはり自分を越えた大きな力に動かされてそうなるんでしょうね。
    >>自分で自分の進路を決めてるつもりで、決めさせられてる感じがします。
    >
    > このあたりについては、以前のたーぼーさんならおっしゃらなかったようなことのような気がします。
    > やはり変化があったのですね。
    >
    > 私が思うにはですが。
    > 個別のものは存在しない、だと思っています。
    > すべて連動して動いている、まるですべてで一つの生き物であるかのように。
    > しかし、人間は、個別にバラバラで存在していると思っている。
    >
    > 私が書いたものもたーぼーさんが書かれていることと基本的には同じようなことになると思います。
    > 「大きな力に動かされている」というところだけは、私はあまり感じないです。
    >

    私は最終的には仏陀は自己の確立をせよと言ってるのだと思います。
    ただなかなかそこまで自信が持てないからみんな悩んでいるのだと思ってます。
    何ものにも精神的に依存せず、自分の二本の足で立てと言ってるのだと思います。
    だから仏陀を捨てることも仏陀は喜ぶのではないでしょうか。

引用返信/返信 削除キー/
■8089 / inTopicNo.51)  Re[32]: 杭
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 17:01:28)
    No8084に返信(pipitさんの記事)
    > ■No8077に返信(たーぼーさんの記事)
    >>杭を残さず向こう岸に渡った人は、その瞬間にこの世を捨てている。
    >>親、兄弟、友人という現世的な物語を全て捨てている。
    >>私は知っている。
    >>
    >>この世を捨てた人をまた戻す?
    >>裏切り者では?
    >>
    >
    > たーぼーさん、こんにちは。
    >
    > たーぼーさんは、お釈迦様のことは、どのような印象に思われてるのですか?
    >
    > ちなみに、南伝仏教では、元奥様も元息子も出家して悟ったように記述されています。
    >

    仏陀に関しては私も勉強しました。
    当然最初はそういった仏教知識がないと、いくらなんでも一人で考えてるだけではダメだと思います。
    だけど、ある程度までくると逆に覚えた仏教知識を全て捨てないといけないと思います。
    仏陀がこういったということが絶対になると、仏陀の言葉に縛られていることになりますから。
    だけど、私個人はもう仏教知識は全部捨てたいのだけど、人に何かアドバイスするときに支障にならないかなと思ってまだ残してます。
    自分の縁のある人にアドバイスしてから捨てようかなと思ってます。
引用返信/返信 削除キー/
■8087 / inTopicNo.52)  Re[34]: 慧解脱
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 16:39:45)
    No8085に返信(pipitさんの記事)
    > マジックのタネを見破ったら、
    >
    > その前は、見破ってなかったんだから、見破ってない人の見方も気持ちも想像できますよね?
    >
    > わたしはそういう感覚で、悟り(慧解脱)のことをみてるのですけど。


    もちろん自分の出来る範囲でやれることはやろうと思ってます。
    特に寺や宗教とは距離がある人で、一人で悩んでいるような人の手助けをするのが私の役割のような気がしてます。
    耳を傾けてくれる人で、尚且つ頼る人がいない人とか、色々考えすぎて混乱してしまっている人とか気持ちは私もよく分かるから微力ながら、そういう人達の力になりたいと思います。

    終わらない歌
    https://m.youtube.com/watch?v=cvFNEGD2-fY

引用返信/返信 削除キー/
■8086 / inTopicNo.53)  Re[32]: 沈黙 遠藤周作
□投稿者/ minori -(2020/10/21(Wed) 16:23:59)
    No8082に返信(たーぼーさんの記事)

    たーぼーさん、レスありがとうございます。

    > 黒板の前に座っていたからキチジローに自分を重ね合わしていました。
    > 今は黒板を背にして立ち上がったのでロドリゴに自分を重ね合わしてます。

    進歩、展開というような言葉で表されるようなものがあった、ということになるのですね。 そんな風に想像させていただきました。

    > 棄教しなければ信者が苦しみます。
    > 辛いですが、自分の信念より信者の心の安定を計るのがやはり宗教者のあるべき道だと思います。

    二人の人物の葛藤はすごかったでしょうね。 でも、書かれているとおりになると思います。

    > 物語は全て自作自演ではないでしょうか。
    > ただその自作自演の物語を物語はつまらないといってガチの総合格闘技にいく人と、物語こそ楽しいじゃないかとプロレス的な感覚で自分の脚本を楽しむ人で宗教の分かれ道があるように思います。
    > ガチでやったら人生も世の中もなくなります。
    > そんな身も蓋もない道を極めて楽しいのかなと個人的には思いますね。

    すみません。。 書かれていることが、ここはよく分からなかったです。

    > やはり自分を越えた大きな力に動かされてそうなるんでしょうね。
    > 自分で自分の進路を決めてるつもりで、決めさせられてる感じがします。

    このあたりについては、以前のたーぼーさんならおっしゃらなかったようなことのような気がします。
    やはり変化があったのですね。

    私が思うにはですが。
    個別のものは存在しない、だと思っています。
    すべて連動して動いている、まるですべてで一つの生き物であるかのように。
    しかし、人間は、個別にバラバラで存在していると思っている。

    私が書いたものもたーぼーさんが書かれていることと基本的には同じようなことになると思います。
    「大きな力に動かされている」というところだけは、私はあまり感じないです。

引用返信/返信 削除キー/
■8085 / inTopicNo.54)  慧解脱
□投稿者/ pipit -(2020/10/21(Wed) 13:58:45)
    マジックのタネを見破ったら、

    その前は、見破ってなかったんだから、見破ってない人の見方も気持ちも想像できますよね?

    わたしはそういう感覚で、悟り(慧解脱)のことをみてるのですけど。
引用返信/返信 削除キー/
■8084 / inTopicNo.55)  Re[31]: 杭
□投稿者/ pipit -(2020/10/21(Wed) 13:32:34)
    No8077に返信(たーぼーさんの記事)
    > 杭を残さず向こう岸に渡った人は、その瞬間にこの世を捨てている。
    > 親、兄弟、友人という現世的な物語を全て捨てている。
    > 私は知っている。
    >
    > この世を捨てた人をまた戻す?
    > 裏切り者では?
    >

    たーぼーさん、こんにちは。

    たーぼーさんは、お釈迦様のことは、どのような印象に思われてるのですか?

    ちなみに、南伝仏教では、元奥様も元息子も出家して悟ったように記述されています。

引用返信/返信 削除キー/
■8083 / inTopicNo.56)  愛だけを残せ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 12:17:24)
引用返信/返信 削除キー/
■8082 / inTopicNo.57)  Re[31]: 沈黙 遠藤周作
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 12:06:03)
    No8080に返信(minoriさんの記事)
    > 2020/10/21(Wed) 11:42:11 編集(投稿者)
    >
    > たーぼーさん、こんにちは。
    >
    > たーぼーさんが、以前にも『沈黙』をどこかで出されていたのを拝見した記憶だけあります。 
    > 『沈黙』の登場人物に対して、どんな思いを持ってらっしゃるのかまでは、書かれていなかったのか、それとも私が覚えていないだけか。。不明です。
    > ああ、そういえば・・・キチジローにご自分を重ね合わせていらしたような記憶があります。


    Minoriさん、こんにちわ。
    黒板の前に座っていたからキチジローに自分を重ね合わしていました。
    今は黒板を背にして立ち上がったのでロドリゴに自分を重ね合わしてます。


    > 私はだいぶ昔、読んだ記憶はあるんです。
    > でも詳細は覚えてなくて・・・
    > あらすじを拝見して思うのは。 ロドリゴとフェレイラが棄教した際の思いを想像すると辛いなぁ。。ということ。
    > 棄教を迫られた一般信者、拷問死した一般信者たちももちろん辛いんですけどね。

    棄教しなければ信者が苦しみます。
    辛いですが、自分の信念より信者の心の安定を計るのがやはり宗教者のあるべき道だと思います。

    > とにかく辛い歴史です。
    > しかし、その時期、日本にキリスト教が大々的に広まったとしたら、当時、隆盛を誇っていたポルトガルに国を乗っ取られていた可能性も無きにしも非ずで、日本の権力者はそれを恐れたんですよね。
    > 今の時代だったら、もっと穏健な方法で、キリスト教の侵入を押さえむことができたんでしょうけれど、当時の人々の心というのはまだ残酷なことができるのが普通というか、人々の権利など弱かったですからね。
    >
    > なんていうか、自作自演的な物語でもあるな、と、今回、あらすじを拝見して感じました。
    > なぜかというと。自らが信じ広めようとしたもののために自らの首が絞められ、自らその信じて広めようとしたものを捨てなければならなくなった物語だからです。
    > 私はクリスチャンではないので、こんなふうな引いた観方をどうしてもしてはしまいます。

    物語は全て自作自演ではないでしょうか。
    ただその自作自演の物語を物語はつまらないといってガチの総合格闘技にいく人と、物語こそ楽しいじゃないかとプロレス的な感覚で自分の脚本を楽しむ人で宗教の分かれ道があるように思います。
    ガチでやったら人生も世の中もなくなります。
    そんな身も蓋もない道を極めて楽しいのかなと個人的には思いますね。



    > 歴史の必然というか、起こるべくして起きた避けられない出来事だったんだろうな、と、日本でのキリスト教の弾圧についても思います。
    > すべての出来事というのが避けられなかったから起きた、そうなったこと、ですしね。
    >

    やはり自分を越えた大きな力に動かされてそうなるんでしょうね。
    自分で自分の進路を決めてるつもりで、決めさせられてる感じがします。

引用返信/返信 削除キー/
■8080 / inTopicNo.58)  Re[30]: 沈黙 遠藤周作
□投稿者/ minori -(2020/10/21(Wed) 11:40:44)
    2020/10/21(Wed) 11:54:55 編集(投稿者)
    2020/10/21(Wed) 11:42:11 編集(投稿者)

    たーぼーさん、こんにちは。

    たーぼーさんが、以前にも『沈黙』をどこかで出されていたのを拝見した記憶だけあります。 
    『沈黙』の登場人物に対して、どんな思いを持ってらっしゃるのかまでは、書かれていなかったのか、それとも私が覚えていないだけか。。不明です。
    ああ、そういえば・・・キチジローにご自分を重ね合わせていらしたような記憶があります。

    私はだいぶ昔、読んだ記憶はあるんです。
    でも詳細は覚えてなくて・・・
    あらすじを拝見して思うのは。 ロドリゴとフェレイラが棄教した際の思いを想像すると辛いなぁ。。ということ。
    棄教を迫られた一般信者、拷問死した一般信者たちももちろん辛いんですけどね。
    とにかく辛い歴史です。
    しかし、その時期、日本にキリスト教が大々的に広まったとしたら、当時、隆盛を誇っていたポルトガルに国を乗っ取られていた可能性も無きにしも非ずで、日本の権力者はそれを恐れたんですよね。
    今の時代だったら、もっと穏健な方法で、キリスト教の侵入を押さえむことができたんでしょうけれど、当時の人々の心というのはまだ残酷なことができるのが普通というか、人々の権利など弱かったですからね。

    なんていうか、自作自演的な物語(本人たちは気づかなくても)でもあるな、と、今回、あらすじを拝見して感じました。
    なぜかというと。自らが信じ広めようとしたもののために自らの首が絞められ、自らその信じて広めようとしたものを捨てなければならなくなった物語だからです。
    私はクリスチャンではないので、こんなふうな引いた観方をどうしてもしてはしまいます。

    歴史の必然というか、起こるべくして起きた避けられない出来事だったんだろうな、と、日本でのキリスト教の弾圧についても思います。
    すべての出来事というのが避けられなかったから起きた、そうなったこと、ですしね。

    書いてみたくなったので書かせていただいただけですし、レスはお気遣いなくされてくださいね。
引用返信/返信 削除キー/
■8077 / inTopicNo.59)  
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 10:31:33)
    杭を残さず向こう岸に渡った人は、その瞬間にこの世を捨てている。
    親、兄弟、友人という現世的な物語を全て捨てている。
    私は知っている。

    この世を捨てた人をまた戻す?
    裏切り者では?

引用返信/返信 削除キー/
■8075 / inTopicNo.60)  沈黙 遠藤周作
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/21(Wed) 10:00:31)
    沈黙 遠藤周作

    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E9%BB%99_(%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C)

    編集
    『沈黙』(ちんもく)は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説。1966年に書き下ろされ、新潮社から出版された。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて、神と信仰の意義を命題に描いた。第2回谷崎潤一郎賞受賞作。この小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という考えは、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となった。世界中で13か国語に翻訳され、グレアム・グリーンをして「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめたのを始め、戦後日本文学の代表作として高く評価される。


    目次
    あらすじ 編集

    島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。

    長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前ではキチジローが何度も何度も、ロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

    神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

    夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

    こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

    踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。

    登場人物 編集

    セバスチャン・ロドリゴ(岡田三右衛門)
    ポルトガル人の若きイエズス会司祭。恩師であるフェレイラ棄教の謎を追うため、同時に、日本にキリスト教の灯を絶やさないようにするため、日本へ向かう。しかし、その後キチジローの裏切りで長崎奉行所に捕らえられ、そこで信仰を続けるか棄教するかの重い選択を迫られることになる。
    モデルとなったのはイタリア出身の実在の神父ジュゼッペ・キアラ。キアラは棄教後、斬首刑に処された下級武士、岡田三右衛門の名を与えられ、江戸小石川の切支丹屋敷で生涯を終えている。
    フランシス・ガルペ
    ロドリゴとともに日本に渡った同僚のポルトガル人司祭。のち別行動をとるがやはり奉行所に捕らえられ、ロドリゴの見る前で殉教する信徒たちとともに命を落とす。
    クリストヴァン・フェレイラ
    ポルトガル人の高名な神学者にしてイエズス会の司祭。日本で布教中に捕縛され、「穴吊り」の拷問に屈して棄教したと伝えられる。歴史上実在した人物。「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」とする台詞は当時の流行語にもなったが、日本の精神的土壌とキリスト教との背反問題へ向き合った者たちを描いた武田清子『背教者の系譜 -日本人とキリスト教-』(岩波新書、ISBN 9784004121626)[1]も引用している。
    ヴァリニャーノ
    マカオに駐在するイエズス会の司祭。日本での布教経験があり、ロドリゴとガルペに日本における苛烈なキリスト教弾圧を伝える。史実で著名なイエズス会員に天正遣欧少年使節を率いたアレッサンドロ・ヴァリニャーノがいるが、島原の乱よりも前の1606年に没している。
    キチジロー
    ロドリゴがマカオで出会った日本人の男。ロドリゴを日本へ連れて行くが、やがて彼を裏切り、長崎奉行所にロドリゴの居場所を密告する。しかしその後もロドリゴの後を追い続け、彼の許しと告解の秘蹟による神の赦しを乞う。遠藤周作は後に、この人物は彼に幼児洗礼を受けさせた母親を裏切った自分自身をモデルにしたと述べている。
    井上筑後守
    幕府大目付・宗門改役。「穴吊り」というもっとも有効に棄教に結びつける拷問方法を編み出した人物として恐れられているが、本人は温厚な初老の政治家。自らもかつては熱心なキリスト教徒であった[2]。ロドリゴにキリスト教はこの国では根付かないと説く。
    通辞
    井上の部下で奉行所の通訳を務める男。ロドリゴに対しては説得という形で棄教を勧め、時に議論を戦わせるが彼もまた神学校で学び洗礼を受けた過去を持つ。彼が棄教したのは宣教師の傲慢で日本人への侮蔑意識に満ちた態度に失望したためであることが作中で示唆されている。
    カトリック教会からの批判と遠藤のその後の発言 編集

    『沈黙』出版当初のカトリック教会からの反発は非常に強いものがあった[3]。特に長崎においては禁書に等しい扱いをされた[4]という。司祭が踏絵を踏むという衝撃的な結末を快く思わない教会指導者による非難がその要因とされる[4]。

    1972年(昭和47年)1月13日付で遠藤による「踏絵」と題する記事が『カトリック新聞』に掲載された。本記事において遠藤は「『早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ』と(踏絵の)キリストの顔が言っている気がした」と書いたが、その記述に対し、サレジオ会司祭で当時ドン・ボスコ社の月刊誌『カトリック生活』編集長であったフェデリコ・バルバロ神父とアロイジオ・デルコル神父は、遠藤が『沈黙』の中の踏絵の場面を正当化したとして、『カトリック生活』で反論を述べている。

    イエズスが「正義のためにしいたげられる人は幸せ」という自分の信念をすてて、ただこの弱いあわれな人々の今のしあわせを考えたならば遠藤氏のいうようなことになっただろう。(中略)日々、人間として信仰者として、われわれは、いろいろな意味でのふみ絵の前に立たされている。キリストと、キリストの国と、キリストの愛をえらぶか、それとも、あなた自身の傲慢と、利益と邪欲とのいずれをえらぶかが、日々ためされている。 この場合、よわい人間としてえらびやすい方をえらんでもよいなら、そしてどうせキリストは弱いもののためにきたのだから、それをあてにして行動するならキリストが、”天にまします父のように完全であれ”という言葉も空しくなる。こうなれば、キリストは、「人類が歩くべき気高い道の旗印」とはならず、「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者」となるほかない。キリストが「人類の気高いものの旗印」となったのは、かれが生命をかけて正義と愛と真理を守り通したからである[5]。
    遠藤は1974年の著書『切支丹の里』において、棄教者に向ける自身の思いを以下のように記している。

    それには考えられる理由が当然ある。棄教者は基督教教会にとっては腐った林檎であり、語りたくない存在だからだ。臭いものには蓋をせねばならぬ。彼等の棄教の動機、その心理、その後の生き方はこうして教会にとって関心の外になり、それを受けた切支丹学者たちにとっても研究の対象とはならなくなったのである。
    (中略)

    こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。
    やがて遠藤の思いは、弱き者に寄り添う「同伴者イエス」の像として、1980年に発表された『侍』に結実するのである[6]。














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