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■7482 / inTopicNo.25)  Re[16]: RUN
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/07(Wed) 20:51:36)
    ■7479 、聞いて見たけど、歌詞、つまんない。

    お邪魔〜、ね。

    彼はこう言ってる。

    「私は嘘をついている」って。
引用返信/返信 削除キー/
■7480 / inTopicNo.26)  たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/07(Wed) 20:45:10)
    2020/10/07(Wed) 21:42:59 編集(投稿者)

    >だけどフォレストガンプくらい人の目を気にしないという強い精神がないと、中々世俗では厳しいと思います。

    横レスで失礼します。

    人の目を気にしないというのは、精神力で養っていくものという部分は
    少ないと思います。
    たーぼーさんは、あえて傍若無人に振舞ってるところがある気がするんだな〜。

    「私」が弱まってくると、自然体になって人目も気にしなくなりますよ。
    体験的にそう思います。
    私が言うと説得力に欠けそうですけど(笑)、ネット上で見える部分という
    のは一部分ですから、ということで。

    レスはお気遣いなく。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7479 / inTopicNo.27)  RUN
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/07(Wed) 20:40:31)
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■7476 / inTopicNo.28)  Re[22]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/07(Wed) 20:00:57)
    走り続けるとは、つまり一隻眼の連続で今に生きつづけるということです。

引用返信/返信 削除キー/
■7475 / inTopicNo.29)  Re[21]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/07(Wed) 19:57:22)
    No7467に返信(knowing itselfさんの記事)

    knowing itselfさん、こんばんわ。


    たーぼー)だからそれが第六図になって映画とスクリーンは即になるんですよ。

    knowing itselfさん)映画もスクリーンも残るわけでしょう?即とはどういうことなのか、よくわかりません。


    禅でもこの一点だけなんですよ。西田幾多郎はまさにこれの第一人者だと思います。
    でもこの一点がしっかり分かるのが難しいから、みんな物凄い修行したりするわけです。
    knowing itselfさんなら西田幾多郎くらい読めると思いますから、一度読まれたらいかがでしょうか?
    私は言葉が難しくてちょっと無理でした。
    結局は悟り終わって悟り無しということになるわけです。


    >>この時にどの映画のワンシーンワンシーンを選ぶかというところに因果ということが関わってくる。
    >
    > 映画の登場人物の限界内で、相対的な意味では因果の起点たりうると思いますが、あくまで第四図という映画内にとどまらざるをえないですね。

    ちょっと意味が分からないけど、ダルマというのは因果そのものですよ
    ダルマっていうのは働きなんです。
    だから第六図でその働きが映画のワンシーンワンシーンを決定していくんです。
    それは自我の働きとは違うわけ。
    それで糸が切れた凧みたくなったとこで第六図終わり。
    そのままフォレストガンプみたいにひたすら走り続ければ第七図で、そうなるとスクリーンと映画の二重構造はなくなると思います。
    あれ映画では3年以上走り続けてたね。
    私はそこまで行ってないから、あくまで色々な本からの知識ですけど。
    だけどフォレストガンプくらい人の目を気にしないという強い精神がないと、中々世俗では厳しいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7474 / inTopicNo.30)   気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/07(Wed) 18:46:50)
    自己レスです。

    >手を使って壁や机をコンコンと叩くとする。手の感触、痛み。これが宇宙に独在する「気づき」の喩え。手が「気づき」。手に叩かれる壁の小部分にあたるのが、脳と肉体をもつ個人としての人間。普通の人間は壁の側からすべてを捉えようとする。

    もちろん、人間はコンコンの瞬間しかわからないですよ。コンコンにおいて壁にも手に触れていて、それが一つであることは確か。壁についてなら、カントの純粋理性批判におけるように認識を構成できるわけだ。あくまで現象としてだが。

    仏教的にいうと、このコンコンが連続することで輪廻が展開する。ここは、たーぼーさんともある面では一致していると思う。
引用返信/返信 削除キー/
■7472 / inTopicNo.31)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/07(Wed) 16:32:47)
    お久しぶりです〜、たーぼーさんもお元気だと嬉しいです(^O^)/

    やっぱり、西田幾多郎さんの文章は、すごく難解なんですね (^_^;)
    禅を経験してる方なら、まだ、理解しやすくなるのかな、と、思いました。

    なんとか、ことばでもって表現しようとされてたのかな、と、思いました。

    たーぼーさんに聞いてみたかったんですよね、聞けてよかったです
    お返事ありがとうございます(o^^o)


引用返信/返信 削除キー/
■7471 / inTopicNo.32)  Re[25]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/07(Wed) 16:06:47)
    No7468に返信(pipitさんの記事)
    > こんにちは!
    >
    > 今のわたしは本当だめだめなのですが、思ってることをたーぼーさんにお話ししますね。
    >
    > 他人の役に立つにしても、まず、釈尊の教説が虚妄でなかったことを、自らでしっかりと証明したいんです。
    >
    > わたし、悟った後に、選択可能と思ってるんです。
    >
    > まあ、ほんと〜に、だめだめですが〜〜
    >
    > ところでなんですけど、たーぼーさん、西田幾多郎さんのことご存知ですか?
    > 最近、他所で、永井均さんの『西田幾多郎』という本をすすめていただいて(感謝です)、永井さんが書いてるからなのか、おもしろかったんですよね。
    > たーぼーさん、ご存知かなあ?と、思ってたんですよね
    > 西田幾多郎哲学自体は、めっちゃ、ややこしくて手強そうな印象なんですけど(^_^;)


    Pipitさん、お久しぶりですね^^
    元気にしてましたか?
    しばらく書き込みがないからどうしたのかなと思ってました。
    西田幾多郎持ってますよ。
    善の研究って本だけど、ちょっと読んだけど難しすぎて読めてないです。
    でも言わないとしてることは、あんなに難しく書かなくても分かると思うんです。
    つまり内山図の第六図のスクリーンと映画が即のことを、西田は純粋認識と言ってるんじゃないかと思います。
    第五図で一隻眼になり、そのまま一隻眼の連続ではないでしょうか?


引用返信/返信 削除キー/
■7470 / inTopicNo.33)  Re[19]: 気づきの独在性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/07(Wed) 15:57:50)
    minoriさん こんにちは

    > 279「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
    > ・・・・・
    > これなんですが。 
    > 一切の事物(無常であり苦しみである形成されたもの)とは、第四図、映画のことを指しているように思えるんですよね。
    >
    > そして。明らかな知恵をもって観るときに、苦しみから遠ざかり離れる、って第五図そのものじゃないかって。
    > だとすると、「我」はスクリーンに相当するように思えてしかたないんです。
    >
    > (原始仏教の場合は、もともとの本籍が第五図というのではなく、修行により第四図から第五図の涅槃に到達する、ということだとは思うのですが。)
    >
    >
    > knowing itselfさんも、もしかしたら同じように考えられていないかな、と思い、投稿させていただきました。

    「一切の事物は我ならざるものである」の日本語の訳文がシンプル過ぎるので、立ち入った解釈は無理ですが、全体としての趣旨はわたしが散々カキコしてきたことと違わないと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7469 / inTopicNo.34)  Re[21]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/07(Wed) 15:48:30)
    >  痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。

    これ異論あります。物語に過ぎないなら、いわゆる第五図がわかっていませんね(笑)。永井さんじゃないですが、第五図的な世界観と道元、龍樹、釈迦のそれが違うなら、道元、龍樹、釈迦が間違っていると思います。わたしは釈迦はズバリ、第五図的な世界観を説法しているとみるので、釈迦は正しいとみなします。


    >このときこそ明星が輝き、如来も出現する。しかし思弁的になりすぎないのが禅師の凄さだろう。結局「物語」を離れては生きられない我々のために、「住法位の活鱍鱍地なる、これ有時なり」と、説示してくださる。これは私には、これまでのあらゆる時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。

    ここも、第四図の外に出ることの不可能性をいっていますので、違うと思います。

    >しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。
    >  禅師の言葉のとおり、目の前の松も竹も、かつて見た山も海も、あらゆる体験「彼方にあるに似たれども而今(にこん)なり」である。それならば道元禅師もその著作も常に而今(たった今)にあると言わねばならない。我々はいつでも道元禅師に聴くことができるのである。


    > ニーチェや藤田さんがやろうとしているのは、これなんですよ。
    > つまりこの世を浄土にするという、最高の物語、いい映画を作ろうじゃないかということなんです。

    藤田さん本人がそう言われているのでしょうか。

    > ついでに言えば親鸞の阿弥陀の本願というのもこれです。
    > これに気づけるかというのが山下さんのマインドフルネスの真意だと思います。

    これはいえると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7468 / inTopicNo.35)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/07(Wed) 15:48:17)
    こんにちは!

    今のわたしは本当だめだめなのですが、思ってることをたーぼーさんにお話ししますね。

    他人の役に立つにしても、まず、釈尊の教説が虚妄でなかったことを、自らでしっかりと証明したいんです。

    わたし、悟った後に、選択可能と思ってるんです。

    まあ、ほんと〜に、だめだめですが〜〜

    ところでなんですけど、たーぼーさん、西田幾多郎さんのことご存知ですか?
    最近、他所で、永井均さんの『西田幾多郎』という本をすすめていただいて(感謝です)、永井さんが書いてるからなのか、おもしろかったんですよね。
    たーぼーさん、ご存知かなあ?と、思ってたんですよね
    西田幾多郎哲学自体は、めっちゃ、ややこしくて手強そうな印象なんですけど(^_^;)
引用返信/返信 削除キー/
■7467 / inTopicNo.36)  Re[20]: 第四図のカント哲学性
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/07(Wed) 15:36:23)
    たーぼーさん こんにちは

    No7436に返信(たーぼーさんの記事)
    > ■No7435に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>内山興正の作図のどこにカント的な哲学をみるかというと、第四図に認識のコペルニクス的転回を読み込むからです。世界は外にあるのではなく、人間が認識主観的に構成することによってそこにあるかのようにみえている。これが映画という喩えを使うと投影であり、第四図はそれと同じ事態です。第四図と第五図を分離している時点で、映画とスクリーンは別ですよ。仏教3・0のあの対談では基本そうだと思います。
    >
    >
    > だからそれが第六図になって映画とスクリーンは即になるんですよ。

    映画もスクリーンも残るわけでしょう?即とはどういうことなのか、よくわかりません。



    > この時にどの映画のワンシーンワンシーンを選ぶかというところに因果ということが関わってくる。

    映画の登場人物の限界内で、相対的な意味では因果の起点たりうると思いますが、あくまで第四図という映画内にとどまらざるをえないですね。

引用返信/返信 削除キー/

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