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■729 / inTopicNo.25)  Re[6]ゴウさん
  
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:44:38)
    坐禅 2008/ 7/21 13:48 No.167
    投稿者:gouichi10201020さん

    パニチェさん。。。まずはお詫びを・・・パニさんとわかっていながら、バニさんと打っていました。
    言い訳がましくなりますが、ネパール語で「パニ」は水を意味します。で、名前だと「バニ」さんは結構いらっしゃるもので、ついつい「バニさん」と呼び掛けてしまいました。ごめんなさい。

    > 今のところ輪廻に関しては無記としていますので「長い過去世において実践された」という箇所を除いては、上記の論旨に同意します。

    はい、「輪廻」に関しては、ある・なしに頓着しないで進めることに賛成です。

    大乗仏教運動を引率した「凡夫の菩薩」にとって、また当時のインド人にとって「輪廻」はごく自然な思想であり、多くの人が指示していたものだと考えます。それだけに、『ジャータカ(本生譚)』に描かれる釈尊の過去世と自らの人生を重ね合わせ、“そのように生きたい”と、そこに大乗菩薩の「理想像」を打ち立てたということですね。

    > 他宗教の教祖と同じく時代とともに後世の人々によって神格化された釈尊より、無上正等覚者としての人間・釈尊をパニチェは仰ぎます。

    はい、完全同意です。

    > 何をもって言葉とするかによるとは思いますが、これに関してはあまり拘るつもりはありません。

    まさしく「何をもって言葉とするか」の議論になれば、そこで立ち往生、一歩も前に進めなくなる可能性がありますから、そう言って頂けると助かります。

    で、パニさんのNo.160の以下の投稿まで戻ります。。。

    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    No12293に返信(パニチェさんの記事)
    >> 唯識における「阿頼耶識」と仏性を同一に扱うことに関しては、まだ同意できません。何故ならば、アーラヤ識を「一切種子心識」とするならば、過去のカルマ(業)を蓄える蔵、となりますから・・・
    >> これに関しては、輪廻の問題として扱いたいと考えますが、如何でしょう。

    > 阿頼耶識が過去のカルマを蓄える蔵であるなら無覆無記ではありえず、仏性と同一視できないということですね。
    > 如来蔵は九識説を採用した上での「阿摩羅識」ってことになるんでしょうが、どうもこの辺は言葉と定義の問題というか、本当にそういう階層があるのかどうか知らないパニチェには何とも分かりません。^^
    この辺のテーマは輪廻の問題として扱うことに同意します。

    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    パニさんご指摘の通り、「阿頼耶識」をどの様にとらえるか、で考え方はまったく違ってしまいます。「九識説」は先送りにするとしても、アーラヤ識を「一切種子心識」とするか、または「無覆無記」とするか、ここは重要ですね。

    まず、どちらの説にも拘らずに進めることとし、「唯識」における「識」の観念、と申しますか、考え方から進めたいと思いますが如何でしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■728 / inTopicNo.26)  Re[5]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:43:01)
    坐禅 2008/ 7/19 13:19 No.165
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、こんにちは。

    > バラモン教も密教も、ともに汎神論的ではあるが、梵我一如の「我」と、入我我入の「我」とは、同じ「我」でも明らかに違うということですね。

    はい、そう考えます。


    > 自行化他なら分かりますが、悟ってもない人間がその人間が思うところの利他行の実践をとおして悟りに到達できるという見解を重視する主張なら反対です。
    > 大乗仏教の暗黒面として、カルト宗教や一部の新興宗教団体が信者獲得のための広宣流布があたかも仏修行や菩薩行であるかの如く利用するのが、この「利他行の実践をとおして悟りに到達できる」という大乗的な発想ですからね。

    これは説明不足でした。バニさんの仰る「自行化他」で同意です。

    確かに、残念なことですが、仏陀の教えとはかけ離れたような団体が、『「利他行の実践をとおして悟りに到達できる」という大乗的な発想』を、信者獲得と資金集めに利用している面は否定できません。

    その原因としては、大乗仏教の菩薩が「凡夫の菩薩」であるからだと考えられます。
    そして、この「凡夫の心(衆生心)」の中に仏性を有することから、仏伝の中の釈尊、すなわち「仏伝の菩薩」と「凡夫の菩薩」を重ね、そこに親近感が生まれた。そして、仏伝に描かれる釈迦菩薩が長い過去世において実践された「本生行」こそが、大乗菩薩の理想とする姿となり、「一切衆生への利他」が強調されることとなった、と考えます。

    しかし反面、バニさんご指摘のように、凡夫の立場で「利他」を押し立てることは、まさに僭越であり、ひとつ間違えれば衆愚思想に陥る危険を含んでいたわけで、現実にそれを利用する団体が生まれた、ということですね。。。この点においてバニさんに同意です。

    ただ、大乗の「凡夫の菩薩」は、部派仏教のエリートとは違い、自ら「一切衆生」の一員である自覚をもち、仏教の専門知識も乏しく、修行の階梯も修めていないことを認め、それでも「自利行」のみに邁進する部派仏教に対抗して、必死で活動されたことは事実であり、だからこそ私たちは仏教に出会えることができた、と考えます。

    長々と書きましたが、結論を言えばバニさんの言わんとすることが分かり、それに同意し、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」が、心ないものに悪用されないことを祈るばかりです。


    > 以下は、それを分かった上での返信ですが。。。
    > 真言が呪文でありえるのは、言語がコミュニケーションツールとなりえる理由でもあるところの(身体性や文化や生活様式を背景とし)慣用や用法上に発生する意味の共有化(言語ゲーム)から離れているからだと思います。
    > 言い換えれば真言は言語化できない釈尊の教えを音声として表したから呪文たりえると思うのですが、如何でしょうか?

    真言陀羅尼を「呪」と考えることを間違いとはいえないのですが、逆に、経典すべてを「呪」と考えることができます。また、経典を「言葉」と考えるように、真言陀羅尼を「言葉」と考えることもできます。

    これは、真言陀羅尼の成立と般若思想の密教化というアプローチが面白いのですが、これは後のこととして、「輪廻の主体」に進みませんか。

    ただ、言語表現に関しても、「表せる・表せない」のどちらか一方に偏らず中道という立場であり、バニさんのお考えを否定するものではありません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    バニさんのレスが早かったので、これだけ返信できました。
    それでは出発ですので、またよろしくお願い致します。
引用返信/返信 削除キー/
■727 / inTopicNo.27)  Re[4]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:35:36)
    坐禅 2008/ 7/19 3:02 No.163
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、レスありがとう御座います。

    > なるほど、「比類なき先言の〈私〉」が仏性と同一視できるような代物かどうかはともかく、上記のゴウさんの説明は理にかなっていますし納得できます。
    > 般若心経と金剛般若、中論と大乗起信論。
    > どうもこの二つの仏典や論書がしっくりこなかったのは、ここら辺りのパニチェの理解度に問題があったのかもしれません。

    はい、釈尊が「絶対的な主体など何処にも存在しない」と説かれたものこそが、無我の「我」であり、その先にあるもの、すなわち仏性が「比類なき先言の〈私〉」であれば、無我の行を修することによって知ることのできる<私>は、すでに輪廻から解脱したものであり、私=大宇宙となります。

    しかし、それが輪廻する主体であれば「無記の我」になります。無記の我とは、「絶対的な主体など何処にも存在しない」ということを知識として理解し、未だ智慧に消化していない状態の<私>と表現できるかも知れません。

    そして、そのような凡夫のために説かれたものこそが「大乗経典」といえるのではないでしょうか。大乗経典成立における部派仏教との対立の経緯は割愛しますが。。。

    ご紹介の「般若思想」は、なによりも煩悩と菩提との一如、世俗生活と仏教生活の同時達成を説き、利他行を因として「比類なき先言の〈私〉」に到達するための教えといえます。
    また、「大乗起信論」はその名の通り、大乗の根本義において心を起こすこと説く論といえます。すなわち、わたしたち凡夫の心、衆生心の中に仏性を有することを信じ、利他行の実践をとおして悟りに到達できる、というのが、大乗ではないでしょうか。

    「中論」に関しては、二諦説に進んだ段階で考察したいと思いますが、中観思想として、今関連のありそうな部分だけを書きますと・・・

    月称の主張は、「仏陀は日常の言語活動とは異なった智慧を得て絶対真理を体得する」というもので、言葉を通して“理解せしめられる”世界(現象界)を超絶したところに絶対があると考え、宗教実践の重要性を強調します。
    それに対し清弁は、「絶対真理を現象界に内存的なもの」とし、絶対真理と現象世界は言葉という接点を有しているからこそ、絶対真理を言葉によって論証可能と考えます。

    私としては、どちらか一方に組するものではないのですが、言葉の可能性を信じています。


    > この辺のテーマは輪廻の問題として扱うことに同意します。

    ありがとう御座います。

    > 言葉を通して伝えようとすると、言葉の機能や特性から、どうしても必然的に変質したり削げ落ちてしまう部分があると思うのですが、ゴウさんが先に言われた『言語化できないものって、これを想定しちゃ駄目』がどういう意味なのか、またよろしければ教えて下さい。

    はい、バニさんの仰ることはわかります。人間の意識の対象世界が無限の奥行きと多様性、そして連続性をもつのに対し、言葉の数は有限であり、またバニさんの「必然的に変質したり削げ落ちてしまう」からこそ言葉がコミュニケーションの手段となる、ことを考えれば無力であるといわざるを得ません。

    しかし、私たちの苦悩、またそれを取り除くことは、すべて身体的・言語的・心的(身口意)な行為によっていると考えられます。そして、身体的・言語的な行為は「心」に基づくものである以上、それはまさに心の表れといえます。

    そして、すでに分別を離れ悟りに到達した釈尊の言語活動とは如何なるものであるかを考えた場合、すべての分別は言語表現に結びつくとすれば、「分別を離れた仏陀」と「言語活動を行うもの」とは矛盾概念ではないか、という疑問が起こります。もし矛盾であれば、膨大な仏教経典は無意味なものとなるかもしれません。

    しかし、仏陀釈尊の言語活動は「無分別智の力より生じた分別」から起きたものであり、釈尊に説法を促すものは慈悲心に他ならない、とすれば矛盾は起こりません。

    また、私が真言を重視する金剛乗であることもあって、先の発言「言語化できないものって、これを想定しちゃ駄目」になりました。さらに、釈尊の説法が衆生に対する慈悲心であるように、親の子に対する言葉も慈悲心である、と信じています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    土日に外出しますので、次の返信は週明けになります。
引用返信/返信 削除キー/
■726 / inTopicNo.28)  Re[3]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:34:01)
    坐禅 2008/ 7/18 14:54  No.157
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、レスありがとう御座います。。。

    > 無記は常見にも断見にも偏らない中道を示すための教説でもあるわけですね。

    はい。。。バニさんの知識からすれば、もうここら辺は互いに了解済みと言うことで進めてもよさそうですね、失礼しました。ということで、基本的なところはどちらかが引っかかった時に確認し合うということで、先に行きます。

    > 我の苦は対象を認識し、そこに意味や価値を創出する主体であるところの「我在り」との相関によって生じるわけですから、「我が無ければ苦も無い」ということになり、そういう意味で「我」とは「我の苦」を生じせしめる共通の一因であると思います。

    まさにその通りで、釈尊はまずこれを打ち破ることをお考えになって「無我」を説いた、ということです。換言すれば、苦悩する一切の衆生を度せんが為に、当時、世俗に蔓延る教えに対して、「無我」を説かれた、と考えられます。

    煩悩(三毒)に覆われてた衆生は、仏性(比類なき先言の〈私〉)があることを知らない、そして、煩悩によって生み出された「我」を実在と考えそれに執着する。また、それが間違っていると知識でわかっても、智慧として「真の無我」を知らない。

    何故ならば、自らの三毒によって、自ら苦を生み出しているからである。そこで、煩悩を尽くせば仏性を証知することができる。すなわち、「無我」を知ってこそ、「有我」を知ることができ、まず、無我の行を修することを教える。。。

    この考え方はどうでしょうか?

    > 一方、「自灯明法灯明」の「自」とは「一切衆生悉有仏性」や「如来蔵」において法と一如となる対象であり、唯識で言えば全く混じりもののない純粋無垢(無覆無記)な「阿頼耶識」ということになり、この「自」によって苦が生じることはないし、法を灯明として修行する主体ということになるでしょうか。

    唯識における「阿頼耶識」と仏性を同一に扱うことに関しては、まだ同意できません。何故ならば、アーラヤ識を「一切種子心識」とするならば、過去のカルマ(業)を蓄える蔵、となりますから・・・

    これに関しては、輪廻の問題として扱いたいと考えますが、如何でしょう。


    > 但し、「如来蔵」や「仏性」、「阿頼耶識」や「魂」と名付けることによって、一般化されてしまい変質あるいは削げ落ちてしまうような対象ではあります。

    はい、言語表現の限界ですね。これも、発言者と受者に分けて論ずる必要があると考えます。ただ「不立文字」の言わんとすることは理解できます。。。


    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    本日はこの後、返信できませんが、よろしくお願い致します。
引用返信/返信 削除キー/
■725 / inTopicNo.29)  Re[2]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:30:56)
    2018/11/03(Sat) 10:31:46 編集(投稿者)

    坐禅 2008/ 7/18 11:21 No.154
    投稿者:gouichi10201020さん

    バニさん、こんにちは。。。

    御存知のように、仏教であれば上座部や大乗、また顕教や密教にかかわらず「無我」が説かれます。そして、三宝に帰依し「四法印」を認めることが仏教徒としての基本条件ともいえます。勿論、私もそれを認めた上で「諸法無我」でいうところの『我』とは何であるか・・・また、この『我』は、他の教えで説かれるところの「我」や「自」と同じか、違うか、を考察することに意味があると考えます。

    まず、諸法無我でいうところの「我」は、当時のバラモン教が説いていた、もしくはバラモン教徒が信じていた「アートマン」をさして、それを無としたと考えます。すると、これは「輪廻の主体は無い」とうことにもなり、無記に抵触することとなりそうです。

    そこで、無記の有用性について考えますと、毒矢の譬えのような修行者にとって益がない・・・は当然として、もし釈尊がその是否を宣言した場合、それを聞いたものは常住論か断滅論の両極端に陥る可能性があると考えられます。さらに、「輪廻の主体としての我はない」と宣言した場合、虚無論に陥る可能性があります。

    よって、釈尊は時には「自・我」の存在を説き、また沈黙を守った、となるわけですが、そもそも、諸法無我の「我」と、無記の「我」が違うものであったら、まったく話は変わってきます。そこで気になるのが、釈尊が入滅に際して説かれた「自灯明法灯明」の教えです。ここでは、「自」と「法」が同列的に説かれています。この「自」とは如何なるものか・・・

    この3つの「我・自」について、バニさんはどのようにお考えですか?


    > そんなものを全て捨て去っても残るもの、それがカニッツァの三角形たる言語という網の目を抜け出る「比類なき先言の〈私〉」であるところの唯一無二の比類なき「私」の〈魂〉である。

    バニさんの言わんとされる、この「比類なき先言の〈私〉」を読み切れてないのですが。。。仏教の「如来蔵思想」にヒントがあるかも知れません。涅槃経には、「我はこれ如来蔵の義であり、一切衆生に悉く仏性がある、これが我の義である」と説かれます。

    バニさんの言を借りれば、「一切衆生悉有仏性」の仏性こそが、「比類なき先言の〈私〉」と考えることはできませんか?

    不立文字に関しては、後ほど。。。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    彼岸までの間、外出が多く返信が遅れることがありますがお許し下さい。。
引用返信/返信 削除キー/
■724 / inTopicNo.30)  [1]ゴウさん
□投稿者/ パニチェ -(2018/11/03(Sat) 10:28:30)
    禅 2008/ 7/17 14:21 No.32101
    投稿者:gouichi10201020さん

    レスありがとう御座います。

    > 輪廻については全く分かりませんが、あると考えて生きるより、ないと考え現世でもって自己完結的に生きる方が私の好みには合います。

    はい、現世力一杯生きる。。。これは大賛成・・・で、生とか死とか、そんな自己完結が、好みにかかわらず無いとしたら、どうします。。。

    > 逆説的に言えば、言語化できない、あるいは言語ルールの外にあるため、言語によって変質していまうところが<魂>の性質または特性であると思われます。

    ああ、そうじゃないんです。。。自分の子供を目の前にして、馬鹿やろぉ〜って怒鳴れば、その愛は宇宙なんです。「言語化できないもの」って、これを想定しちゃ駄目なんです。。。

    完ぺきに宇宙は表現します。。。道端の石ころ、踏みつけられた雑草、父親の馬鹿やろぉ〜、母親の勉強しなさい・・・・完ぺきです。

    > 欲(発心)を起こして欲を離れようとする、我を見極め尽くして無我を体得しようとする、悟りを目指して悟りを捨てようとする、いやぁ〜ほんと仏道って厳しいですねぇ〜。(故・水野晴郎風)

    ははは、水野さん。。。旅だったね・・・


    > gouichi10201020さんにとっての魂とは如何なるものでしょうか?
    > よろしければ教えて下さい。

    わからないことはわからない、と捨て去って。。。よし、捨てたと決着ついた時・・・そこに残っているものです。
引用返信/返信 削除キー/
■722 / inTopicNo.31)  Re[15]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 09:07:57)
    2018/6/23 23:42 同

    掲示板という場所は地道な調査や懸命の努力は嘲笑されるらしい。あんまり他人の投稿を読んでいないんでよく知らんが揶揄や反感を会話のようなスピードで返すのが主流なのか?

    おれは雪国に生まれ虫けらだけが友だちだった陰気な男なんだからそんなことを要求するな。だいたいおまえらは現実を知らない。石をひっくりかえしたこともないし畑に捨ててある生ごみに集まる甲虫を見たこともない。もやしっ子は黙っとれ! 朽ち木を割りキノコの裏側を観察し穴の開いた雑草の葉っぱを裏返す。そういう地道な作業をやらねえからうけねらいの瞬発投稿しかできないんだ。

    死ぬ間際になって「そういえば無縁仏とかいうマヌケが死は生という拷問からの解放であるとわけのわからねえことを唱えてたがこれから確かめられるな」と思い出したりするのがおれの投稿。 

    わかったな!

引用返信/返信 削除キー/
■721 / inTopicNo.32)  Re[14]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 08:31:48)
    2018/5/11 23:39 同

    反遺伝子による反世界の創造はできないもんかね。

    遺伝子はエロガッパ指数が高い。たとえばスケベ遺伝子は繁殖に有利だ…あたりまえだが。禁欲遺伝子はそいつ一代で終わる。他人をだしぬく遺伝子も生存確率を高めるので残る。正直遺伝子は途中でカモにされて終わり。だから世の中二枚舌の嘘つきばかり。

    そこで消え去る運命の遺伝子ばかりからできた生物を別の惑星につくる。孤独を愛し繁殖もせず集まらずひっそりした惑星。そこに少数の地球人が強制移住させられたらと考えると愉快だ。地球におけるおれみたいな立場となり毎日おもしろくねえぞと反世界の掲示板で騒ぐことだろう。

    ざまあみさらせ!
引用返信/返信 削除キー/
■720 / inTopicNo.33)  Re[13]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 08:17:38)
    2018/5/8 12:44 同

    アルコール依存だギャンブル依存だといろいろあるようだが人間依存はいいのか?

    どっかに行ったり飯を食ったときに誰かに報告したくなるというのは依存だ。花見もイベントも依存だぞ! 集まるの起源は下等動物においては繁殖、安全、食料確保だろう。イナゴと同じで集まるとストレスでたいてい狂暴化する。最初は画家くずれのホームレスがミュンヘンの酒場で騒いでるだけだったのにいつのまにか数百万人が殺され多くの文化遺産が消失するなどということもあるんで注意しよう。

    集まらずに散れ!

引用返信/返信 削除キー/
■718 / inTopicNo.34)  Re[12]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 08:05:06)
    2018/5/4 23:46 同

    よく間違えられるんだがおれは何が正しいかとかどう生きるべきかという主張をしてるんじゃない。

    文章が下手なんでそう思われてもしかたないが基本的にはなまけよう、サボろう、手を抜こうという方向に人類がむかってほしいだけ。正義野郎や真理野郎に任せておくといきなり戦争や殺し合いになったりするんでそれがいやでね。
    でもなまけたいので家庭もつくらないしエロも別にいらんし友達もいりませんぜなどという筋金入りは少ない。

    おれの希望的ヤマカンではこんなふざけた素質を持ったミュータントはあちこちにいる。そいつらは家族の圧力に屈してどうせ離婚する結婚や失敗する子育てに乗り出して痛い目を見る。やめろやめろ。だらだらしていいんだよ。

    なまけになまけて共に滅びようではないか!

    その滅びるまでの暇つぶしは今の時代無尽蔵にある。最低でも1000年分くらいあるんで安心せい。

引用返信/返信 削除キー/
■717 / inTopicNo.35)  Re[11]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 07:58:51)
    2018/10/28(Sun) 08:00:06 編集(投稿者)

    2018/5/4 14:21 同

    誰にも相手にされないだの社会の役に立ちたいだのうるさいぞ!

    祖先はそんな寝言は言わない。

    海の中でぼーっとしてるだけ。

    潔い態度だ。
引用返信/返信 削除キー/
■716 / inTopicNo.36)  Re[10]: 無縁仏三郎さん
□投稿者/ パニチェ -(2018/10/28(Sun) 07:57:22)
    2018/10/28(Sun) 07:59:37 編集(投稿者)

    2018/5/4 14:00 同

    大衆にとって自分には価値がないと判断する基準は他人の基準である。

    そこがいやでね。それなら他人から「君は価値がある」といわれたら直ちに自信満々になってしまう。

    だから「おれは無価値である」と判断するときの基準に他人の顔色をもちこむな。

    だが「価値」は他人に喜びを与えたり役に立ったりする社会的判断によって決まる。おれは他人に喜びも与えないし役に立ってるともいえない。だから無価値。このように自分で判断したわけ。もしおれに価値があると考える人間がいたらそいつの判断力をおれは疑うだろう。

    以前はここから「おれという無価値なものを存在させてる宇宙は不完全なクズ」であるという判断に進んだが宇宙は人間の都合による「価値」「無価値」「不完全」などには無関係であるという結論に達した。

    なんだか意味のよくわからねえことのたまうトンマがいるぞ…おれのことは日本海溝の底にいるクモヒトデかナマコ程度に考えてもらいたい。

引用返信/返信 削除キー/

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