| 2020/08/29(Sat) 22:10:22 編集(投稿者)
こんばんは、はじめまして。
■No5824に返信(ななしさんの記事) > こんばんは。 > > 最近、二重予定説を調べていたら何故かお釈迦様の決定論に行き着きました。 > > 二重予定説とは、神によって最初から救われる者と救われない人が > 決まっているという説です。
> また、釈迦は、すべての現象はメカニカルに決まるという決定論で > 世界を捉えたようで、これが、「諸法実相」スコトーマが外れた > 全ての存在のありのままの真実の姿のようです。
> それも決定論なのに複雑な動きのカオス理論のような仏教の刹那と > 次の刹那の関係が、縁起でメカニカルに決まるというものです。
これってどの経典というか出自はどこですか?
> つまり、この決定論では、自由意志はない(無我)と言うことになり
無我と自由意志がないは同義ではありません。
> 釈迦の最後の言葉「自灯明、法灯明」との関係が気になってきます。 > これは、「自らを拠り所にして生きなさい、法を拠り所にして生きなさい」 > というような意味なのですが、もっと深いものを感じます。 > これって、世の中は、寸分違わぬ物理法則でできていて自然の摂理というものは、 > 生老病死の四苦八苦でままならないドゥフカ(思い通りにならない苦しみ) > つまり、どうにもならないのだから、自分の欲求のレベルを下げる、 > 足るを知ること、そんな修行が必要なのだと説かれたのかなと考えているところです。
そうではないと思いますよ。 仏説的には苦は無常なるもの(常なるものは無く、全ては生滅する)に常住不変であることに執着するところから生じるということです。 さらに自己も含めて単体では実体のないもに実体があるかのように思い込んでいるから、無いはずの「私」の苦が生じるということでもあります。 これを体得すれば涅槃寂静に至るというのが仏教の教えであり法灯です。
そして法と自が不二であるから「自洲・法洲(自灯明・法灯明)」を最期の灯明として伝えれらたということです。
|