| パニチェさん、レスありがとうございます。
>>まさに、時間・空間の枠とカテゴリー分けされた世界を認識することを義務づけられた人間の「苦」の部分ですね。 >>もちろん、その人間独自の認識形態による恩恵というのもたくさんあるのですが。 > > 同感です。言語も認識形態も多大な恩恵がある反面、暗黒面も多いということでしょうね。
仏教、その他での探究をされている方はご存じのことで、パニチェさんももちんご存じだと思うのですが。 思考(言語)は、本体ともいえる「青空(意識)」に現れては消えていくものなんですね。 感情、感覚もそうです。 物質と分類される様々なものもそうです。 もともと「在る」のは、本体としての意識。 このことを実感とするのはなかなか大変なのですが、そうなるとかなりラクになりますね。
そして、その後。言葉や思考、感情、物質に使われるのでなく、それらはあくまで使役するもの、というふうに変化していくのですが、ここもなかなか大変ではあると思います。 >>「私」に実体がない(無自性)という理解はさほど難しくはないと思うのですが、それを落とし込んでいく、実際に実感としていき、日常で普通のこととしていくのが骨が折れるのだと思います。 > > 私の知る覚者も悟ってからの修行の方が大変だと言ってます。 > 日常ではどうしても自己を立てて思考を巡らす。巡らせば巡らすほど煩悩の汚れに塗れるようです。 > 分かっている(無自性を体得している)のにそうなってしまう自己に猛省する日々みたいです。
覚者といわれる人でもそうである、というのは、ある意味では励み(?)にはなりますね。 「ほら、覚者だってそんなもんなんだよ。」という意味ではなく、それぐらい日々、謙虚に取り組まないといけないものなのだ、という意味において。
慧能でしたっけ、「鏡にはチリはつかない」というので、秀才の詩より良いものとされたのですよね。(すごいうろ覚え書いてすみません。) 青空本体(意識)それそのものは汚れず、そこに流れてくるもの、無意識から溢れてくるものによって汚されているだけなのだ、という意味だと思うんですね。 覚者といわれる人たちというのは、鏡にチリがついてもそんなに苦労せずに自然に落ちていくのだろうと想像します。 全くつかないではないけれど、取れやすい、なので溜まらない。
> PS. もしよかったら「哲学のドアをノックする 3」作っときましょうか?^^
ふと見たら、いつの間にか90超えてたんですね。( ゚Д゚) はい、依頼します。 よろしくお願いします。^^
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