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■41457 / inTopicNo.1)  Re[12]: 全知の神
  
□投稿者/ パ二チェ -(2025/03/25(Tue) 08:29:22)
    おはようございます、knowing itselfさん。
    今週は木曜まで時間があり、横レス失礼します。
    SumioBabaさんにもお伝えした通り、以下はあくまでも興味本位からのレスであり、論争を目的としたものではありません。

    No41455に返信(knowingitselfさんの記事)
    > 神の「全知」については、直観的には下記の過去レス程度でもいいかと感じている。
    > そして、この世界で発生しうるありとあらゆる現象の認知主体たりうるものを「全能」の神とみることもできるかなと。
    > このくらいであれば、素朴すぎるが、誰でも直観的に同意できるかと。

    > ■No41095に返信(knowingitselfさんの記事)
    > >>>生涯で鳴らした音はすべて現実世界で、リアルに出力された、音として生まれた。そのすべての音を正確に記憶できることはないと思うが、少なくとも音を鳴らしたときは、音として認知していたのではないか。
    > >>全世界の音を鳴らす人のすべての音は、それと認知しうる。認知されうるものとして鳴らされる。
    > >>神の全知とはそういうことではないか。
    >>どの楽器でも、例えばピアノなら、
    >>世界中で数えきれないほどピアノを弾く人はいるわけだ。
    >>そこで鳴らされた音は、すべて、認知され、識別され、理解される音として生まれる。
    >>ありえない架空の想定だが、常に傍らに天才的に耳の良い教師やリスナーがいて集中力を研ぎ澄ませているなら、その認知や識別、理解からまぬかれることはできない。生涯で鳴らすすべての音が対象になる。

    ここなんですよ。
    ありえない架空の想定をする時点で「はじめに全知全能の神ありき」だと思うのです。
    上記は演繹的な説明であって、帰納法的な説明にはなりえないと思うのですが如何でしょうか。

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■41455 / inTopicNo.2)  全知の神
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/25(Tue) 06:22:44)
    神の「全知」については、直観的には下記の過去レス程度でもいいかと感じている。

    そして、この世界で発生しうるありとあらゆる現象の認知主体たりうるものを「全能」の神とみることもできるかなと。

    このくらいであれば、素朴すぎるが、誰でも直観的に同意できるかと。


    No41095に返信(knowingitselfさんの記事)
    >>>生涯で鳴らした音はすべて現実世界で、リアルに出力された、音として生まれた。そのすべての音を正確に記憶できることはないと思うが、少なくとも音を鳴らしたときは、音として認知していたのではないか。
    >>
    >>全世界の音を鳴らす人のすべての音は、それと認知しうる。認知されうるものとして鳴らされる。
    >>
    >>神の全知とはそういうことではないか。
    >
    > どの楽器でも、例えばピアノなら、
    >
    > 世界中で数えきれないほどピアノを弾く人はいるわけだ。
    >
    > そこで鳴らされた音は、すべて、認知され、識別され、理解される音として生まれる。
    >
    > ありえない架空の想定だが、常に傍らに天才的に耳の良い教師やリスナーがいて集中力を研ぎ澄ませているなら、その認知や識別、理解からまぬかれることはできない。生涯で鳴らすすべての音が対象になる。
    >
    > これはピアノに限らず、あらゆる楽器であてはまるだろう。
    >
    > これは聴覚の話しだが、実はあらゆる感覚情報についてもいえないか。楽器は人間の身体のメタファーでもある。
    >
    > なぜこういうことをいうかというと、
    >
    > これが「すべてを知る」神のイメージになりうるかと思うからだ。
    >
    > 感覚的にインプットされる現象は、認知されうる、理解されうるものとして生みださせる。
    >
    >
    > 生み出されることと認知される理解されることは同時といっていいかもしれない。
    >
    > もちろん、個人でも集団としての人間でも、認知や理解に追いついていけない、漏らしてしまうのが当然だが。
    >
    > しかし原理的にはすべてが認知可能理解可能なものとして、現象は生まれ消えていく。
    >
    > その認知や理解の主体が「すべてを知る」神ということになろうか。
    >
    > このとき、現象の創造主体であることと、「すべてを知る」ことは同一に帰するというか、区別することはできないようにも思う。同時の過程だから。

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■41430 / inTopicNo.3)  Re[22]: 史的イエスと史的釈迦
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/23(Sun) 17:31:24)
    >昨今の日本人研究者による新書版の仏教書で売れているのは、

    >100年前の史的イエス研究の仏教バージョンをやっている印象を受ける。

    どこかに、本当の意味でお経といえるのはパーリ語仏典だけだという考えがあるのかもしれない。

    これに対して、禅宗などでは、「吸う息吐く息がお経なんだ」と言われることもある。

    めちゃめちゃお経の範囲が広大になる。普遍的になる。

    これはキリスト教の「神のことば」の捉え方にある意味では接近するといえないこともない。

    ケリュグマのキリスト、仏教ならケリュグマのブッダになる?

    他方でパーリ語仏典の研究をするような人は、専門家でも素人でも、一神教嫌いが多いはずだが、

    聖書解読における史的イエス偏重のある種のプロテスタント聖書学に接近するようなところがあるのではないか。




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■41408 / inTopicNo.4)  Re[22]: 史的イエスと史的釈迦
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/22(Sat) 16:46:03)
    例えば、非常に売れているとされる佐々木閑先生や清水俊史先生は史的釈迦研究的だと思う。

    石飛道子先生の研究はケリュグマのブッダか。この点は徹底している感じだ。ケリュグマの龍樹にしてケリュグマのブッダ。

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■41407 / inTopicNo.5)  史的イエスと史的釈迦
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/22(Sat) 16:08:45)
    史的イエスとケリュグマのイエスならぬ、

    史的釈迦とケリュグマの釈迦。

    まあ、私の思いつきレベルかもしれないが、

    昨今の日本人研究者による新書版の仏教書で売れているのは、

    100年前の史的イエス研究の仏教バージョンをやっている印象を受ける。

    これに対して、スマナサーラ長老(私は何十冊と読んでいます)は、

    ケリュグマの釈迦ではと私は受けとめている。

    それは、仏典は完全無欠なんだという前提から、すべて解き明かされている

    ということです。スマナサーラ長老はその点では、一切の疑いがないようにみえる。


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■41367 / inTopicNo.6)  仏教は英雄政治家史観と合わない
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/20(Thu) 19:34:43)
    科学や芸術、哲学などでも、私は英雄史観は取らない。

    政治においても当然だね。

    まさかいまの日本で、トランプ英雄史観をとる人はそんなにいないと思うが(笑)

    オバマやバイデンや民主党は悪の権化だ、トランプとマスクはすべてを変えてくれる!


    おめでたい人もいるもんだね。


    ちなみに、私は反トランプでも、反民主党でもない。

    政治経済に仏教を当てはめれば、そんな単純な脳みそにはならんと思うよ。
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■41357 / inTopicNo.7)  文化革命の背景にある知と感性の地殻変動
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/20(Thu) 08:42:00)
    以上な温暖化など昨今の地球環境の変化なら、ほとんど誰でも気づけるかもしれない。

    もっと微細な環境変化なら、気づける少数の人から気づいていく。

    何を言いたいかというと、音楽でも美術、文学、ドラマ、映画その他、つまり芸術作品の創造でも背景にあるのは

    環境変化。地殻変動、潮流の変化、大気の変動、といった地球環境の喩えで理解できるような、心や感受性の文明的歴史的な環境変化。

    その変化の向きを最前線でキャッチするのが、天才と言われる人なんだろうと。

    その人がキャッチしなかったとしとも、別の誰かが遅かれ早かれ、キャッチしたのでしょう。

    そういう意味で、芸術をすべて天才の個人的能力に帰するのは、通俗的な英雄史観のバリエーションかもしれない。

    どこかの国の地上波ドラマのような英雄史観。


    芸術でも、科学でも、その他のジャンルでも、英雄史観では説明できないと思う。

    ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの時代でも、音楽をめぐる環境変化の方が重要かもしれない。

    二十世紀の物理学革命もそう。

    ジャズやロックでもそうだと思う。




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■41304 / inTopicNo.8)  「ある」であることが神
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/18(Tue) 14:44:30)
    なぜ世界は「ある」のか?

    この問いに対するキリスト教の答えは、

    「ある」を「神」という、「神」とは究極の「ある」なんだと。

    この世界のありとあらゆる現象は「ある」を分有するから「ある」ことができるんだと。

    別の言い方をすると、究極の「ある」から「ある」性を分け与えられるから、それで初めて「ある」ことができるんだと。


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■41275 / inTopicNo.9)  「神のことば」が子なる神
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/17(Mon) 19:05:33)
    確かに一神教であることはまちがいない。唯一絶対の神。

    その神は自身を理解することにおいて自身の似像を自身のうちに生み出す。

    このようにして神自身のうちに生み出されたた自身の似像が「神のことば」。

    「神のことば」は生み出されたという関係において、生み出す「父なる神」に対して「子なる神」の区別がなされる。

    もちろん、父と子という生物的な働きとはまったく別。「似像」といっても感覚的な像ではない。




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■41270 / inTopicNo.10)  Re[16]: 人間神と人格神
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/17(Mon) 17:31:45)
    >「父なる神」も「子なる神」も「聖霊なる神」もペルソナではあるが、

    ギリシア教父たちは「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」をヒュポスタシスと名づけたが、西方教会はラテン語世界なので、ペルソナというラテン語訳をあてた。

    ヒュポスタシスは新プラトン主義のプロティノスで極めて重要な概念だが、三位一体というプロティノス思想との異質性が際立つ立場を表現するために、ヒュポスタシスを使ったことが、キリスト教の一筋縄ではいかない難解さの根っこにあるとかいわれる。


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■41213 / inTopicNo.11)  人間神と人格神
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/15(Sat) 15:43:28)
    キリストは神だというとき、日本人はこれを「人間神」と理解するのがほとんどのような印象だ。

    たしかにキリスト教は「人格神」を本質的な要素とするが、しかし「人間神」と「人格神」は違う。

    日本語で人格という語がもっている意味と、人格神の人格の原語であるペルソナがキリスト教神学でもつ意味は違う。

    「父なる神」も「子なる神」も「聖霊なる神」もペルソナではあるが、人間ではない!人間神ではない!本来そこに人間性なるものはゼロだ。

    「子なる神」というペルソナが受肉して、まことの神(100パーセント神)であると同時にまことの人間(100パーセント人間)にもなった、そのことを人格神というわけだ。イエスという人間を人間神イエスにしたわけではない。
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■41212 / inTopicNo.12)  キリスト教は聖典宗教とはちょっと違う
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/15(Sat) 15:14:50)
    >それは、聖書という過去の言語テキストが「神のことば」であるという誤解です。

    >そうではなく、キリスト教にあって「神のことば」とは、聖書をとおして永遠の現在において語っているキリストのことです。

    >いまこの瞬間も「神のことば」は語り出されている。

    旧約はヘブル語、新約はコイネーで書かれているが、ご存じのように聖書の外国語は次から次へと数多くの言語で新しい現代語訳が生まれていく。

    キリスト教の信仰世界では、原典が翻訳に対して序列が上になるという発想はない。少なくとも現代ではない。もちろん、文献解読としての聖書学では原典が圧倒的というか、ほとんど唯一の重要性だと思うが、

    パーリ語による文献読解に大きな重要性を与えるようなことは、キリスト教世界ではしない。

    いまこの瞬間も働きかけているのが「神のことば」なんだと、最新の母国語でも間に合わないくらい、S N SやAIも追いつかないスピードで、いまこの瞬間も創造作用を行なっているのが「神のことば」なんだと、そういう発想になると思う。

    「神のことば」を信じることは、聖書という過去の言語テキストを金科玉条で信仰することではまったくない。


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