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■41148 / inTopicNo.73)  Re[16]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
  
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/11(Tue) 16:29:29)
    >祈る相手に対して、「同一階梯にいる主体」に対して私たちのために祈ってください、という祈り方に特徴があるとと思う。


    ミサでは冒頭に、

    「聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟のみなさん、罪深い私のために神に祈ってください」という祈りの文言が唱えられる。

    聖母マリアにイエスに向けて祈ってくれ、すべての天使にイエスに向けて祈ってくれ、

    すべての聖人にイエスに向けて祈ってくれ、

    すでに天国にいるクリスチャンといま地上で生きている罪人である仲間たちに、イエスに向けて祈ってくれ、

    そのように全員が祈るわけです。


    そのイエスに向けた祈りに合流するというか、一本に祈りを集約するというか、

    もともと同じベクトルの祈りの聖なる流れがあったというか、

    最終的にイエスその人の祈りが父なる神に捧げられると。霊魂や抽象的な言語だけでなく、体の現前としての祈りが捧げられると。

    この祈りが「聖体の秘蹟」ですね。キリスト教の外でもよく知られている十字架による罪の贖いとは、「聖体の秘蹟」と寸分も変わらずにイコールといっていいでしょう。

    このイエスの祈りが天と地を架橋して、完全に一つにするようにして完成される。

    これがカトリックのアルファにしてオメガといっていいと思います。

    今日も世界中で行われている。

    ミサの必須・不可欠の構成要素をなすのが「聖体の秘蹟」。
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■41142 / inTopicNo.74)   共に知る、共に祈る
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/11(Tue) 07:03:07)
    >>前にも書いたが、「共に知る」は音楽の演奏とも通じると思う。

    >人間は一人では知ることも考えることも、まったくできない存在だと思う。

    >学問にせよ、いかなる知的活動にせよ、

    >「共に知る」ことが本質をなす。

    西洋クラシック音楽は、ミサ音楽を母胎として発展してきたという捉え方もできる。

    その時代ごとの代表的な多くの作曲家たち、ペロタン、デュファイ、ジョスカンデプレ、ラッスス、パレストリーナ、モンテヴェルディなどはミサ曲を作ってきた。

    バッハ、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンといった人たちも、間違いなく超一流の彼らとしても代表的な傑作とみなせるミサ曲をかいている。

    それだけミサ曲というのが重要なら、ミサとはなんぞやと知ってみるのも悪くはない。

    で、ミサとは?

    単純にいうと、「共に祈ること」かもしれない。
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■41139 / inTopicNo.75)  Re[14]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/10(Mon) 18:55:12)
    > >聖体の秘蹟。パンの外観の下にキリストの体が現前するという秘義がある。

    聖体の秘蹟というのは、キリストによる祈り、キリストにおける祈り、キリストと共にする祈りです。

    これは案外知られていない、理解されていないことかもしれないが。

    キリストは超絶的な神だから、天上を仰ぎみて祈られる神でしかないとか、二千年前の歴史的な出来事を信じ込む以外何にもすることはないとか、そんな風に見ている人はいないとは思うが。そうではなく、キリストが、キリストこそが、祈りのイニシアチブをとるんです。

    例えば2025年3月10日に聖体の秘蹟は世界中で行われたはずだが、そこでは、キリストによる祈り、キリストにおける祈り、キリストと共にする祈りが行われたということです。いうまでもなく地上で行われたと。



    > 「同一の階梯」というのは、天と地、天上世界と地上世界、この二つが同一の階梯ということでもある。

    > 天のカトリック教会と地のカトリック教会は同一階梯にあると。まぎれもなく地に生きながら、同時に天にも帰属している。どちらも100パーセント。
    >
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■41134 / inTopicNo.76)  Re[15]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/09(Sun) 17:29:36)
    キリスト教の祈りというのは、直接に一神教的な絶対者に向けるというより、

    祈る相手に対して、「同一階梯にいる主体」に対して私たちのために祈ってください、という祈り方に特徴があるとと思う。

    具体的には、イエスに対して、父なる神に祈ってくださいというパターンになる。

    イエスの名によって祈りますとはそういうことだと思う。

    そしてイエスと父なる神は「同一階梯」にある神だと。

    これが三位一体の基本にあると思う。
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■41133 / inTopicNo.77)  Re[14]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/09(Sun) 16:39:51)
    >聖母マリアについては、@神の母、A無原罪懐胎、B終生処女、C聖母被昇天、という四つの教義がある。

      
    >正教会でもCは認めず

    Aの無原罪懐胎は処女懐胎とはまた別。プロテスタントは処女懐胎は認めるはずだが、無原罪懐胎まではどうかな?そもそも無原罪の女性として生をうけたということだから。もっともYouTubeでこれを信じプロテスタントをみたことがある。

    正教会もこのAは認めない?Bは認めるはずだが(プロテスタントは認めないか)


    これをみると、いかにカトリックが聖母マリアをイエスと「同一階梯」に置こうとしているかだ。

    これは何度もいっているように、土着の多神教でもないし、マリアを神にしているわけでもない。


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■41122 / inTopicNo.78)  「判断力批判」と先行の批判書の関係
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/08(Sat) 12:51:07)
    哲学史入門IIのp177に、御子柴先生の的確な発言があった。さすがにプロですね。

    カントの「判断力批判」と先行する二つの批判書の関係についてです。

    「判断力批判」とは、二つの批判書に対して、足し算と引き算を行っているのだと。

    足されるのは、

    「生命」と「個性」

    引かれるのは、

    「概念」と「感性が受け取るデータとしとの感覚内容」


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■41121 / inTopicNo.79)  Re[13]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/08(Sat) 08:48:04)
    >聖体の秘蹟。パンの外観の下にキリストの体が現前するという秘義がある。キリストの体というのは、象徴やメタファーではなく、キリストのリアルな体。聖母マリアに受胎したのもまったく同じリアルな体。

    >これによって、キリストと聖母マリアが同一階梯に置かれたのと寸分も変わらぬ、同一階梯性が宣言されるわけだ。聖体の秘蹟に参加するのがカトリック教会だから

    「同一の階梯」というのは、天と地、天上世界と地上世界、この二つが同一の階梯ということでもある。

    天のカトリック教会と地のカトリック教会は同一階梯にあると。まぎれもなく地に生きながら、同時に天にも帰属している。どちらも100パーセント。

引用返信/返信 削除キー/
■41117 / inTopicNo.80)  Re[13]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/07(Fri) 16:29:03)
    >聖母マリアと聖体の二つが、カトリックを他のキリスト教から隔てる特異な要素といわれることもあるが、この二つこそが、全人類と神を同一階梯におく要の原理なのだと思う。

    聖体の捉え方では、カトリックと正教会ではほぼ接近してる感じか。

    聖母マリアについては、@神の母、A無原罪懐胎、B終生処女、C聖母被昇天、という四つの教義がある。
    プロテスタントでも@は認めるだろう。Aも認めるところが多い?Bは少ないか?
      
    正教会でもCは認めず、Cを認めるのはカトリックだけか。わたしも最初は理論的な意味がもう一つピンとこなかったが、イエスとマリアを同一階梯に置くためには、Cは必須、不可欠だらうと得心するに至った。

    ちょっとマニアックな話しかもしれないが、不合理な妄信ではなく、キリスト教の本質的からみると明快な論理的帰結だろうとおもう。

引用返信/返信 削除キー/
■41116 / inTopicNo.81)  Re[12]: 神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/07(Fri) 15:32:10)
    >神とすべての人間、全人類を同一の階梯におくことが根本の趣旨だろうと、少なくともわたしは理解している。
      
    カトリックにおける聖母マリアの扱いについては、外から様々な批判がなされる。
    カトリックはマリア教だとか、女神信仰だとか、女性性を裏から持ち込んでるとか、カトリックの甘えだとか、神ならざる人間への偶像崇拝だとか。

    そうではないんだね。

    端的にいうと、一人の人間以外の何者でもない女性が神であり人間であるキリストと同一の階梯にあることを、明確に宣言しているわけだ。

    もう一つカトリックで超重要なものが、聖体の秘蹟。パンの外観の下にキリストの体が現前するという秘義がある。キリストの体というのは、象徴やメタファーではなく、キリストのリアルな体。聖母マリアに受胎したのもまったく同じリアルな体。

    これによって、キリストと聖母マリアが同一階梯に置かれたのと寸分も変わらぬ、同一階梯性が宣言されるわけだ。聖体の秘蹟に参加するのがカトリック教会だから、カトリック教会と聖母マリアとキリストが寸分も変わらずに同一の階梯にあるということになる。普通の人間が、誰でもが、人数の制限なく、無限にその中に入り込めるのがカトリック教会なので、実質、すべての人間と神であるキリストは同一の階梯にあることを言っている。

    聖母マリアと聖体の二つが、カトリックを他のキリスト教から隔てる特異な要素といわれることもあるが、この二つこそが、全人類と神を同一階梯におく要の原理なのだと思う。
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■41115 / inTopicNo.82)  神と全人類は同一の階梯に置かれる
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/07(Fri) 15:04:53)
    「一神教」というと、神と人間に横たわる無限の隔絶が如何ともしがたい、神によって機械やロボットのように操作される使役される、奴隷のようにぬかずく、後は訳も分からずに闇雲に信じ込んで助けてもらうだけ。

    このように思っている人も少なくないのかもしれない。

    ハッキリいって間違いです。

    少なくとも、キリスト教のカトリックは上記のステロタイプとは一線を画する。

    神とすべての人間、全人類を同一の階梯におくことが根本の趣旨だろうと、少なくともわたしは理解している。


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■41095 / inTopicNo.83)  あらゆる楽器の音の全実例を聴き分ける主体
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/04(Tue) 16:57:58)
    > >生涯で鳴らした音はすべて現実世界で、リアルに出力された、音として生まれた。そのすべての音を正確に記憶できることはないと思うが、少なくとも音を鳴らしたときは、音として認知していたのではないか。
    >
    > 全世界の音を鳴らす人のすべての音は、それと認知しうる。認知されうるものとして鳴らされる。
    >
    > 神の全知とはそういうことではないか。

    どの楽器でも、例えばピアノなら、

    世界中で数えきれないほどピアノを弾く人はいるわけだ。

    そこで鳴らされた音は、すべて、認知され、識別され、理解される音として生まれる。

    ありえない架空の想定だが、常に傍らに天才的に耳の良い教師やリスナーがいて集中力を研ぎ澄ませているなら、その認知や識別、理解からまぬかれることはできない。生涯で鳴らすすべての音が対象になる。

    これはピアノに限らず、あらゆる楽器であてはまるだろう。

    これは聴覚の話しだが、実はあらゆる感覚情報についてもいえないか。楽器は人間の身体のメタファーでもある。

    なぜこういうことをいうかというと、

    これが「すべてを知る」神のイメージになりうるかと思うからだ。

    感覚的にインプットされる現象は、認知されうる、理解されうるものとして生みださせる。


    生み出されることと認知される理解されることは同時といっていいかもしれない。

    もちろん、個人でも集団としての人間でも、認知や理解に追いついていけない、漏らしてしまうのが当然だが。

    しかし原理的にはすべてが認知可能理解可能なものとして、現象は生まれ消えていく。

    その認知や理解の主体が「すべてを知る」神ということになろうか。

    このとき、現象の創造主体であることと、「すべてを知る」ことは同一に帰するというか、区別することはできないようにも思う。同時の過程だから。




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■41084 / inTopicNo.84)  共に知る
□投稿者/ knowingitself -(2025/03/02(Sun) 17:02:45)
    >conscience は「共に知る」の意を語源的にもつ。

    >前にも書いたが、「共に知る」は音楽の演奏とも通じると思う。

    今回は特定の単語の語源や意味からは、とりあえず離れます。

    人間は一人では知ることも考えることも、まったくできない存在だと思う。

    学問にせよ、いかなる知的活動にせよ、

    「共に知る」ことが本質をなす。

    この点、現代はものすごく恵まれた時代だ。際限なく「共に知る」過程に向けて自分を開くことができる時代だろう。

    何かを知ったり、理解したり、考えたりを、小さく狭ますぎるスペースの人間の脳の活動に還元するなどというのは妄想に過ぎないと思う。

    わたしとあの人では脳のレベルが違うから?まったく愚かな言い訳にすぎない。

    日本人は集団主義だとかいわらるが、勉強や知的活動に関しては、

    変に個人主義が過ぎるんだね。ごくごく若い時に社会におけるポジション取りのために、やみくもに個人主義の競争原理で、上から与えられた知識の収集をすることが中心になる。

    ダイナミックな「共に知る」ことに向けて全然開かれていない!
引用返信/返信 削除キー/

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