| >>>ありえない架空の想定だが、常に傍らに天才的に耳の良い教師やリスナーがいて集中力を研ぎ澄ませているなら、その認知や識別、理解からまぬかれることはできない。生涯で鳴らすすべての音が対象になる。
>> ↑この二行ですね、下記のパナチェさんの疑問は。この文章は補足の意味での付け足しでしたが、なかった方がよかったかもしれません。「傍らに」教師やリスナーはいてもいなくてもよいからです。架空の想定をしなくても、 >> すべての音は認知や識別の可能な音として生まれているからです。傍らに耳の良い人がいれば、それを逃しませんが、傍らに人間は誰ひとりいなくても、確実に認知や識別可能な音としてそこにあったからです
>いえ、上記の二行だけではないです。 「全世界の音を鳴らす人のすべての音は、それと認知しうる。認知されうるものとして鳴らされる」から如何にして「神の全知とはそういうことではないか」が導き出されるのが分からないということなんです。 これは初めに全知全能の神を想定(ありえない想定)しているからではないか?ということです。
物質世界における現象の生成は、すべて認知しうるものとして生まれると解せるなら、そのことが認知されていることを必然的に含意しているのではないかと。「全知」から漏れる現象はない。全知全能の神を前もって想定しているのではありません。私の元投稿の「想定」の語も、全知全能の神の「想定」という意味ではありません。
認知されていることと現象の生成は、不可分で分けて考えることはできない。今回の論旨はそうなります。現象の生成からみると「全能」です。起こりうる現象ならすべて地平から起こりうるという意味で「全能」。
現象が生まれ消滅していく地平を、「全知全能」の神と捉えるのはそういうことです。地平の中では、確実に特定可能、識別可能、認知可能な現象として、生まれ、消えていきます。
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