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■No40902に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > 「認識」っていうの、コトバンクのを見て、 > 〈物事を正しく理解し判断すること〉ってして、これを〈思考に属するもの〉ってしてわたし見たんだけど、 > > No40871の(本Ko)を読んでるなかで、いろいろ考えて見たのね。 > でね、コトバンクの中でも、 > [n認識]――――――――――― > ブリタニカ国際大百科事典 cognition; Erkenntnis > 知ること,あるいは知られた事柄。後者の意味では knowledgeの語も多く用いられる。概念,推理,判断を主要3契機として遂行され,推理と判断において認識全体が積極的に関与する。推理の過程のない認識を直観的認識という。さらに判断の契機が消えるか極小になると知覚になり,認識と区別される。しかし知覚により近い自然科学的認識の場合,判断は客観的であり,その認識は一般性をもっている。そこでの認識の働きは本質的に重要でなく,結果のみが価値をもっている。このような認識内容は知識と呼ばれることが多い。一方形而上学的,宗教的認識などでは認識主体の役割が大きく,この場合認識の働きそのものが認識内容と等しい重要性をもっている。 > ――――――――――――― > これをこのごろわたし採用することにしたんだけど、 > でね、まずね、 > (A-E)「認識」=〈知〉=〈知ること-知られたもの〉 > ってすることにした。 > 〈知ること〉は運動(作用・働き)で、〈知られたもの〉っていうのはそれによってもたらされたものね。わたし両者は分けることにしてる。 > > わたしのばあい、世界を知るその仕方として、per-ceptとcon-ceptの二つの仕方によって、ってして見てるからこれとも合うし。 > > (本Ko)を読むときでも、「認識」を〈知〉とか〈知ること-知られたもの〉って言い換えて見ることにして見たのね。 > たとえば、 > Ko@〔人間の認識からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し〕(p7) > は、 > 〈人間の知からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し〉 > KoA〔カントは理性認識を「理論的認識」と「実践的認識」とに分けます〕(p39) > は、 > 〈カントは理性による知を「理論的な知」と「実践的な知」との分けます〉 > ってなるのね。 > > > No40810での(資料b)で、カントの「認識」について、 > 〔カントにおいて,認識(Erkenntnis)とは一般に「経験的認識」〕ってあって、もう一つ、 > 〔「我々の認識は経験と共に始まるが,我々の認識が全て経験から生ずるのではない」 (Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung, Bl).〕 > ともあった。 > これをわたしなりに見ると、 > (b-@A)〈カントにおいて、知とは一般的に経験的知。我々の知は経験と共に始まるが、我々の知が全て経験から生じるのではない〉 > っていうふうにして見ることになるね。 > > (本Ko)に、 > KoB〔人間とは何か。ここでそれを規定することはできません。それこそれこそ哲学の究極の問いだからです。当面、自分が創ったわけではない地上に産み落とされ、さまざまなものを体験・教育・研究など介して徐々に知っていくことしかできない存在として押さえておきましょう。〕(p28) > ってあって、 > KoC〔このさまざまなものを知っていく中で客観的な知を得る働きが「認識」であり、その能力の一つが理性なのです〕(p28) > ってあった。 > > KoBとKoAから、カントの場合、人間の認識〈知〉について考えてるなかで、特に〈客観的な知(認識)〉、〈理性による知(認識)〉を主題においてるんじゃないかしら、って。 > > あ、わたしが再認識(知られたもの)したのは(A-E)って言うことね。 > > 20周年を記念して、 > 「科学的な知見ならともかく、今どき、哲学なんてものに興味を抱く人ってどれくらいいるのだろう」 > に寄せて。 >
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■41259
/ inTopicNo.1)
おはよー(^○^)
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□投稿者/ pipit
-(2025/03/17(Mon) 07:47:48)
悪魔ちゃん、おはよ!
また朝起き抜けに思いついちゃったのでー
考えることで獲得する!
カントには批判されるかもしれないけど、遺伝子情報に心(?)電気(?)をアクセスして概念(路、道)を顕在意識化する、意識内のネットワークに要素として召喚できる、とかね。
では今日もがんばって(??)いってみましよー
(*^ω^*)v
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■41240
/ inTopicNo.2)
Re[58]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/16(Sun) 19:49:50)
わたしが前に名ずけてやった「マスターベイメディアベイション」、ちょっと長いから略してこれからは「マスオナ」って呼ぶことにするね。
マスオナの「世論調査」って言うの? なんかいやらしいよね。
引用返信
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■41236
/ inTopicNo.3)
Re[57]: pipiさまへ
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/16(Sun) 18:36:08)
No41234
pipiさま、ありがとございま〜す。
カントの言う「ア・プリオリ」、
@生得的という意味ではない
A「根源的獲得」(一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念)
B知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である
C「経験に由来しない」という意味を出ない
Dその目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである
な〜んとなくわかってきた感じで〜す。
わたしのばあい、
「ア・プリオリ」⇒生まれつき備わっている
ってして見ちゃってるから、これ、生得的(性質などが生まれつきであるさま)的な意味あいが強くなってるのかも。
カントのは、『「経験に由来しない」という意味を出ない』っていうことで
「ア・プリオリ」⇒経験に拠るものではない、あるいは経験的ではない
ってするより、「非経験的なもの」って見た方がいいのかな。
そしてその「非経験的なもの」うちで、「知性自身から獲得した」ものであること。
っていうふうに見ることにしました。
ただ、ちょっと気になるのがここで言われてる「知性」ね。
Dについては、
(本Ko)に、
〔さて、カントが普遍的なものを求める際のキーワードは「ア・プリオリ」です。この用語が『純粋理性批判』に頻出します。そのメルクマールは、本文中で説明するように、普遍性と必然性です。カントがこの用語を用いて行う主張は、人間の認識からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し、その正当性を主張します。〕(p7)
ってありました。
これから、
〈それが「ア・プリオリ」なものである、と言えるのはそれが「普遍・必然性」であることから〉
って見て、
で、ちょっとまとめると、
私たち人間には、知性自身から獲得した非経験的なものがあって、それを見つける目印になるのが普遍・必然性であること。
簡単に、
〈普遍・必然性をもつ知性自身から獲得した非経験的なもの〉
このようなものをカントは「ア・プリオリ」と呼んでいる。
こんな感じになるのかな?なんかよけいやこしくしちゃったかもだけど。
「根源的獲得」って言うい方、「獲得」だから〈なかったものを獲得する〉っていうふうにも思えちゃうから、わたしにとってはややこしくなるのね。もっとも〈根源的に獲得されているもので、その先なる根源を前提しない概念〉って見たらいいのかな。
>幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?<
なるほど〜。
っていうことは、「発達」っていうことも視野に入れないとかな?
わたしのばあい数学のア・プリオリ、なかったみたい (- -;)トホホ
おかげでいろいろ思いつきました(^o^)
引用返信
/
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■41234
/ inTopicNo.4)
悪魔ちゃんへ
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□投稿者/ pipit
-(2025/03/16(Sun) 14:44:26)
こんにちは!
例えば数学のアプリオリについてなんだけど、能力の種を持って生まれてきている、他人から使い方を教えてもらうことで、自分にある能力が花開く、みたいな考え方もできるかなって私は思ってるんだよ。
経験がきっかけかもしれないけど、アプリオリな能力を使うことができるようになる感じ。
カントの理解として合ってるかどうかはわからないけど、
カントが使ってる用語に『根源的獲得』っていう用語があるみたいでさ。
この『根源的獲得』について書いた過去投稿をコピペするね。
---------------------
No1338
(根源的獲得についてのpipit投稿と本の引用)
『カント入門』という新書のp111〜113で、著者の石川文康先生は、
世間ではよく誤解されているが、「純粋理性批判」におけるアプリオリとは、生得的という意味ではない、と注意喚起されています。
(経験から)獲得的⇔生得的
これが一般的な対語だが、カントはこの従来の二分法を超えて、第三項として「根源的獲得」という領域を切り開く、とされてます。
部分引用します。
『それに対してカントが第三項として導入した自然法用語「根源的獲得」は、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。
したがって神からも経験(先なる根源)からも派生しない概念である。
それは知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である。
そしてその意味で、カテゴリーは知性自身にその根源をもつ概念である。』(p113より引用)
『たしかにカント以前、とくにライプニッツにおいては、「アプリオリ」と「生得的」とはほぼ同義であった。しかしカントの場合、「アプリオリ」とは「経験に先立つ」すなわち「経験に由来しない」という意味を出ない。その目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである。』(石川文康先生『カント入門』p111より引用)
No3900
(pipitの私見)
一応カントの言い分だと、
人間の持つ能力によって、アプリオリな綜合判断が可能だ、って言ってるんだと思ってるよ。
だから、人間の能力にすぎない、というのは、カントもそう言うと思ってるよ。
カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて
根源的獲得、という意味合いみたい。
獲得、ってあるでしょう?
どこから獲得するのか。神から?経験から?
カント的には自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの。
だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?
----------------------------
それではねー (^^)/
引用返信
/
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■41232
/ inTopicNo.5)
Re[55]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/16(Sun) 13:55:31)
現象学の姿勢として、「いつも最初からやり直す」とか「永遠の初心者」って言ってる。
それに倣って、っていうか〜、っていうより〜、わたしのばあい呑み込み悪い(っていうか理解力低い)せいかな。
でね、またちょっと戻るんだけど、
No40924
で見たように、
No40902
のKoCから、
カントの「認識」っていうのを
(K-E)「認識」=客観的な知、論理的な認識〈知〉
ってして見てるんだけど、「客観的な知」っていうのどういうの?
ってうことで、あらためて「客観」、「主観」を調べて見た。
ネットに、「主観 – Wikipedia」 「客観 – Wikipedia」 があったのでこれを手がかりにしてちょっと考えて見たよ。
(1)語源のところから―――――――――――――――
(x)―――――――――――
(x1)ラテン語の subiectum はギリシア語の hypokeimenon(ヒュポケイメノン:基体)。
(x2)(ギ)hypokeimenonはアリストテレスの用語。
(x3)(s1)は、「下に置かれているもの・こと」「ある議論ないし理論において何かを述べたり規定したりするときにその前提とされているもの」
(x4)(ラ)subiectum、(ギ)hypokeimenon は、古代から近代初頭まで常に「基体」という意味と「主語」という意味で使われてきた。
(x5)ホッブズ――「感覚の基体(subiectum sensionis)」
(x6)ライプニッツ――「基体あるいは魂そのもの(subiectum ou l'âme même)」
(x7) カント哲学以前より (ラ)subiectum には「心の内なる基体」「心の内なる実体」と言った用法が使われていたことが容易に想像できる。
(y)――――――――――――
(y1)ラテン語の obiectum はギリシア語の antikeimenon。
(y2) (ギ)antikeimenonは、アリストテレスの用語。
(y3) (ギ)antikeimenonは、「向こう側におかれたもの」。
(y4)(ラ)objectum と objectum の形容詞形である objectivus はアリストテレスにおいて「対象」を意味していた。
(y5)中世スコラ哲学では(ラ)objectum は「投げられてあるもの」を指し、意識の志向的対象、意識、表象などを意味する。
(y6)(ギ)antikeimenonは、「向こう側におかれたもの」、複数形で「たがいに対立し合うもの」、単数形で「思考や感覚の働きに対置させるもの」。
(y7)デカルトやスピノザも realitas objectiva を単に表象され限りの事象内容(可能的事象内容)の意味で使用しており、現実化された事象内容である realitas acutualis(現実的事象内容)や事物そのものの形相として存在する事象内容 realitas formalis(形相的事象内容)を意味している。
――――――――――――――――――――――――――
(2)――――――――――――――――――――――――――
(xy1)アリストテレスや、中世から近代初頭にかけては、subiectum(hypokeimenon) と objectum (antikeimenon) を対を成す用語(概念)としては使っていなかった。
(xy2) 中世から近代初頭においては subjectum が客観的存在者を意味しており、obiectum が主観的表象を意味していた。
(xy3)(ラ)subiectumは(独)Subjek。(ラ)obiectumは(独)Objekt。
―――――――――――――――――――――――――――――
(3)カント以降では―――――――――――――――
(k1)カント哲学においては意味が逆転し Subjekt が「主観」を Objekt が「客観」を意味するようになった。
(k2)「主観」と「客観」が対立する概念として扱われるようになった。
(k3)客観的実在は悟性の範疇で決定されることになった。
(k4) subiectum(hypokeimenon)は、カント哲学以降のいわゆる「主観」という意味は全く含まれていなかっただけでなく、「基体」という意味で subiectum が使われる場合は「心の外にそれ自体で存在するもの」であるという意味で使用されていた。
(k5)カントは subiectum を認識機能の「主観」と位置付け、主観自体は世界を超越していながら世界の存在を基礎づけるという意味で「超越論的(transzendental)」な「主観」に読みかえることで、認識される限りの「客観(obiectum)」のみを存在者として認知する「主観−客観関係」という論理を発表した。
(k6)しかしカントの論理では認識主観とその相手となる客観であるところの「現象」の背後の「主観−客観関係」には人間があらゆる認識手段を使用しても知り得ない「物自体」を想定せざるを得なかった。
(k7)カントは意識の外側に人間があらゆる認識という手段を使用しても知り得ない事物を想定した。
――――――――――――――――――――――――
「Wikipedia」のをこういうふうにして見たのね。
引用返信
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■41231
/ inTopicNo.6)
Re[54]: 私見
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/16(Sun) 13:51:42)
No41224
、pipiさま、ありがと
>超越論的の中に経験的はないかもだけど、<
>経験的が生まれるためには、超越論的が必要、とカントは考えてるのかなと私は今のところ思ったよ。<
わたしもそう思ってる。
<経験的が生まれるためには、超越論的が必要>、これ、わたしのばあい、
2才児kちゃんの「これ、リンゴ」――経験的認識――これが可能となるためには、
「超越論的」=〔私たち人間の〈考えること〉のうちにある〈経験に拠るものではない〉(ア・プリオリな)〕――が必要。
っていうふうに見るんだけど、
実際、2才児kちゃんには「これ、リンゴ」――たとえその判断が間違っていたとしてもそういう“判断(認識)はできてる”わけだし――が可能になってるわけね。ってしたとき、カントによると、2才児kちゃんには〔〈経験に拠るものではない〉(ア・プリオリな)もの〕(=超越論的なもの)が存在してないとダメなわけなのね。
それはどのようにしてか、っていうと、「これ」(知覚されてるもの)は「空間と時間という形式」によって、「リンゴ」(考えることによる概念-分類−語)は「純粋悟性概念(カテゴリー)という形式」によって、って、カントのでは、なるのかもだけど、そこらへんがまだよくわかんないのよね〜。
2才児kちゃんは「超越論的な認識」をすでにもっているのかしら?って。
引用返信
/
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■41224
/ inTopicNo.7)
pipitの私見
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□投稿者/ pipit
-(2025/03/16(Sun) 07:42:05)
悪魔ちゃん、おはよう(^_^)
超越論的の中に経験的はないかもだけど、
経験的が生まれるためには、超越論的が必要、とカントは考えてるのかなと私は今のところ思ったよ。
これ、リンゴ。これ、ナシじゃない。は、肯定判断と否定判断で、仮にこれを人間のアプリオリな知性判断能力とした時、下記の(カント文の日訳)@から用語を入れ替えてみるね。
No41201
(カント文の日訳)@
>したがって空間も、空間のなんらかのア・プリオリな幾何学的規定も超越論的表象ではなく、こうした表象がまったく経験的な源泉を持たないという認識だけが、それにもかかわらずこれらの表象がどうして経験の対象にア・プリオリにかかわりうるかという可能性だけが、超越論的と呼ばれるのである。<
pipitによる置き換えA
したがって肯定判断も否定判断も超越論的表象ではなく、こうした表象がまったく経験的な源泉を持たないという認識だけが、それにもかかわらずこれらの表象がどうして経験の対象にア・プリオリにかかわりうるかという可能性だけが、超越論的と呼ばれるのである。
朝起き抜けに思いついたのでー
失礼しましたー m(_ _)m
引用返信
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■41218
/ inTopicNo.8)
Re[52]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/15(Sat) 17:47:41)
No41217
につづけて、あ、これわたしの課題になってることね。
No39936
のようなこと――2才児kちゃんの「これ、リンゴ」。
これ、カントの「超越論的」っていうのから見たらどうなのかな?っていうことについてね。
No40162
で見たような、
カントの
(K-q)アプリオリな総合判断(認識)は如何にしてかのであるか?
を
(A-q)2才児の「これ、リンゴ」が如何にして可能であるか?
にして見たことについてね。
No41076
で見たように、
カントに言わせると、
2才児kちゃんの「これ、リンゴ」は、総合的(拡張)判断(認識)だけど、経験に拠るもので、ア・プリオリじゃない。
っていうことになるんだとわたし見てるんだけど。
カントの「超越論的」っていうのが、
No41196
の図Aのように、
・(a)のような「ア・プリオリな総合的(拡張)判断(認識)」(y)を可能にするア・プリオリなものを「超越論的」っていってるとすると、「これ、リンゴ」は(y)じゃないから、カントの超越論的の対象外、っていうことになるのかも。
ようするに(a)には「これ、リンゴ」は入らない、(K-q)は(A-q)にはかかわってない、っていうことになるのかも。
あと、
No40973
の、
(KoM)『いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるあるか。』
この問いなんだけど、これ、
「アプリオリな総合判断は可能である。ではそれはいかにして?」っていう問いなんだと思う。
No41037
で見たように、〈ア・プリオリな総合判断は存在する〉で、それが数学とか自然科学にあるから,っていうふうに、カントの「超越論的○○」っていうの、こういうのから始まってて、「アプリオリな総合判断がいかにして可能であるのか」、っていうことに限られてる認識、っていうことなのかも。
だから、
2才児kちゃんの「これ、リンゴ」はいかにして可能なのか?にはカントの「超越論的○○」では答えることができないのかもね。
きょうはこれでおしまいかな。
さーてと、(本Ko)、読み進めましょ。
引用返信
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■41217
/ inTopicNo.9)
Re[51]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/15(Sat) 17:40:37)
きょうはもうちょっとこれまでわたしに思われたものお喋りしとく。
カントの「超越論的」っていうのについて、
No41196
に戻るね。
(お)の、
〔超越論的論理学は対象にかかわる純粋思考を対象にしていると記しましたが、対象にかかわるからといって、この論理学は対象領域の側に論理を見出そうとするものではありません。〕@
に、
いろんな「対象」が出てきてるけど、何が何を対象としてるのか、っていうことを、
図Aので見て見ると、
〔純粋思考〕が(x)、〔対象領域の側〕が(a)-(y)、って見るのね。
(a)-(y) を可能にするような、あるいは(a)-(y)に適用できる(使える)ような(x)を「超越論的」ってして見て、
(x)によって(a)-(y)が可能になるような認識、これを「超越論的な認識」ってして見て、
だから、@は、
〔超越論的論理学〕のその「超越論的な認識」が「対象」としてるのは(x)で、(a)-(y)じゃない。
っていうことを言ってるじゃないかな、って。
あと、
(a)は、「ア・プリオリな〈経験に拠るものではない〉総合的(拡張)判断」なの?っていうことで、
No41154
で、「7+5は12」についてちょっと思ったんだけど、
「三角形の内角の和は二直角である」っていうのはどうなのかな?って。
これもわたし学校で教わったこと(経験)だけど、これを最初に発見した人においては、「ア・プリオリな〈経験に拠るものではない〉総合的(拡張)判断」になってるのかも。でも、これ〈完全に思考だけから〉とは言えない感じしてる。
引用返信
/
返信
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■41215
/ inTopicNo.10)
Re[50]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/15(Sat) 15:54:58)
No41208
の他に、
もう一つ想い出したのが、中島義道さんの。
出所忘れちゃったけどわたしの「ニーチェファイル」に記録しといたのから一部。
(K-Na)―――――――――――――――――――
超越的と超越論的
まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。積極的意味はさらに二局面に分かれる。第一は、人間の認識の限界を定めるという機能、そして第二は、その限界内でさらに夢や錯覚や妄想や印象から「客観的な実在世界」を区別する機能である。カントによると、この両機能は人間理性を探ることによりいっきょに見いだされる。つまり、各人がただただ理性を省みさえすれば、そのうちに「経験を可能にする諸条件」として時間・空間・(物の基本的あり方としての)カテゴリーを見出すことができ、これらによって構成できる限界が「可能な経験」の限界である。また、「経験を可能にする諸条件」とは、同時に時間・空間における物の基本的あり方なのだから、はじめからそのうちに夢や妄想などと区別された「客観的な実在世界」を抽出できる機能を含んでいる。すなわち、ただ人間理性のうちから「経験を可能する諸条件」を見いだし、それによって「可能な経験」(「客観的な実在世界」)を構成するという以上の手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。
―――――――――――――――――――
「ただ人間理性だけから」みたいなのがカントにはあったのかもね。
「理性」っていうの、わたしのばあい、
No40964
のように、
「悟性」=概念によって理解したり、概念を利用して思考する能力
「理性」=悟性の根拠・原理を推理する能力
なんだけど、
簡単に「理性」を〈推理する能力〉ってして見て、その推理が間違ってないとは言い切れないんじゃないかしら?
引用返信
/
返信
削除キー/
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削除
■41208
/ inTopicNo.11)
Re[49]: つれづれなるままに
▲
▼
■
□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/15(Sat) 13:49:04)
【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の、 十一から、
できるだけ省略してみたけど。/////が省略部分ね。
(K-Ni)―――――――――――――――
(p24)いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸(そら)し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものを――とにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、かつドイツ的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉(たの)しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。
////////
それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。それは誰よりもまず――老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。
////////
それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。
////////
ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するに――《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった…‥
―――――――――――――――
カントのやドイツ哲学の、ニーチェの見方みたいだけど、なんかおもしろい。
『一つの能力』っていうのはたぶん「理性」のことだと思う。
ニーチェでさえ、『簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、』って思ってるわけだから、カントの文章、わたしなんかがわかんないのは当然ね。
『我を忘れて喜ばれたのであった‥‥』
ってある。
デカルトのは、「ego cogito」、「我、考える」だったと思う。この「我」を忘れて「考える」だけになっちゃった、みたいなこと言ってるのかな?
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■41207
/ inTopicNo.12)
Re[48]: その後の文章
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□投稿者/ 悪魔ちゃん
-(2025/03/15(Sat) 13:45:47)
No41201
>田村一郎先生の訳文<
pipiさま、ありがとございま〜す。
でも、やっぱ、カントの文章分かりにくい。
ニーチェのちょっと想い出したので、次にそこんとこ書き写して見ます。
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