| No41037のところから、まとめて見たよ
「AはBである」っていう「判断」において、
@ひとまず、 (K-sU)「総合的判断(拡張判断)」⇒「AはBである」、Aに同一性ではないBが結びつき付け加えられ拡張されてる判断 ってしといた。
Aカントは、彼の諸説を展開するとき、そのてがかりとして、概念にではなく「総合的判断(拡張判断)」に求めていた。 「A」の概念や「B」の概念にじゃなくて、(K-sU)のような「A」と「B」の結びつき。
B「総合的判断(拡張判断)」は、「経験的総合判断」(ア・ポステリオリな総合的判断)と「ア・プリオリな総合的判断」(経験に拠るものではない総合的判断)をカントは考えてた。
C「アプリオリな総合的判断」は、〔純粋数学の判断はすべて総合的であり、次に自然科学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれている〕(お7)っていうことから、存在する。
Dでも、カントが問題としてるのは、数学や自然科学じゃなくて、「形而上学」。形而上学における「ア・プリオリな総合判断(拡張判断)。
で、 No40973の、 (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合的判断は可能であるあるか。』 (B19) っていう問い。
No40052の(資料b)のなかでは、 〔「ア・プリオリな総合的判断〔認識は如何にして可能であるか」 (Wie sind synthetische Urteile a priori moglich?)と定式化しうる.カントはこれを「純粋理性の一般的課題」 (B19)と呼んで,批判哲学を通じての根本的問題と考えている.〕 ってなってた。 「総合的判断」を「認識」ってして見てもいいのかも。どういう認識かっていうと(K-sU)のような判断。 ネットで調べたら、[synthetische]→「合成」、 [Urteile]→「判決」ともあった。「A」と「B」の合成による「AはBである」っていうふうにして見ると、「総合的判断」っていうよりも、(同一性のない)「合成的判断」って言った方がわたしにはわかりやすい感じ。
こういうふうに見ると、(KoM)の問いは、 (KoMA1)《いかにして、形而上学において、ア・プリオリな総合判断(拡張判断)は可能であるのか》? っていうことなんじゃないかしら? もうちょっと、これをわたしので見ると、
(KoMA2)《形而上学〈人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問〉におけるア・プリオリ〈経験に拠るものではない〉総合判断(拡張判断的認識)は、いかにして可能であるのか》?
っていうふうになる。
いづれにしても、(KoM)のカントの言う「総合的判断」っていうの、(K-sU)のようなもの、って見とくことにしたよ。
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