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■41086 / inTopicNo.73)  Re[28]: つれづれなるままに 18
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/02(Sun) 19:03:58)
    No40973の(KoL)に、
    『形而上学にはア・プリオリな総合的認識が含まれているはずである』
    ってある。これをわたしが見てきたようなので書いて見ると、
    〔形而上学には〈経験に拠らない〉ような〈「AはBである」、Aに同一性ではないBが結びつき付け加えられた拡張判断(認識)〉が含まれてるはずである〕
    ってなる。でもね『はずである』、だから、こんなはずじゃなかった、みたいなこともありえるかもだけどね。

    〈形而上学の可能性への問い〉では、
    KoM→KoN、KoO
    ってなってるみたいなんだけど、
    カントはア・プリオリな総合判断が数学や自然科学のなかにあると見て、じゃ形而上学はどうなの?っていうふうにわたし見たから、わたしが見た感じ、順番としてはKoN、KoO→KoMじゃないかしら?て。

    あと、〈経験的判断は総合判断である〉(p68)に、
    (お)〔ここで「総合判断」について注意しておきましょう。私たちはときに「総合的に判断します」という言葉を聞くことがあります。それは往々にして、多面的な検討に基づいて判断しますと言う意味です。もっと言えば、この言葉は、判断基準が曖昧であることを糊塗するための言い逃れ文句でさえあります。カントが考えていることは、そうした言葉の使用とはまったく無縁です。〕
    ってあった。
    で、ちょっと思ったんだけど、
    政治家さんが、「総合的に判断します」みたいなのを言ってるのを聞いたことあるんだけど、それって、糊塗(一時しのぎにごまかすこと。その場を何とか取り繕うこと。)するための言い逃れ文句だったのかな?って。

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■41077 / inTopicNo.74)  Re[27]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/01(Sat) 17:08:45)
    No41076、ごめん番号間違えました。No39935じゃなくて、
    No39936でした。(あってるかな?)

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■41076 / inTopicNo.75)  Re[26]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/01(Sat) 16:52:52)
    No41075、ちょっとつづけて、

    「AはBである」っていう判断、
    No39935や、
    No40162のつづき的になるんだけど、
    2才児kちゃんの「これ、リンゴ」っていう判断(認識)はどうなるんだろう?って。

    カントに言わせると、ア・ポステリオリな〈経験に拠る〉総合判断(拡張判断)=経験的総合判断(認識)、ってなるのかな?

    っていうのは、「これ」っていうのは、現前する「見えてる物(リンゴのこちら面)」(経験)。そして「リンゴ(概念-分類語)」っていうのは教わった(経験された)言葉。どちらも〈経験に拠るもの(ア・ポステリオリ)〉になるんだと思う。だから「経験的」。そして、「これ」(見えてるリンゴのこちら面)には「リンゴ(概念-分類語)」は含まれてないし(たとえば、7+5=12の「7+5」には「12」が含まれてないように)。ようするに、「これ」に同一性ではない「リンゴ(概念-分類語)」が結びついて付け加えられ拡張されてる判断だから「総合的判断」。

    一般的に、2才のときにはすでに「これ、リンゴ」っていう経験的総合判断(認識)が可能となってるわけよね。ここに、カントの言う「純粋直観」「純粋悟性概念(カテゴリー)」「ア・プリオリな形式」みたいなのがどうかかわってくるのか、いまんとこわたしによくわかんない。

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■41075 / inTopicNo.76)  Re[25]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/01(Sat) 16:37:56)
    No41064で、カントの言う「総合的判断」っていうのを(K-sU)のように見たんだけど、簡単に、「AはBである」において、BによってAが拡張されているような判断(認識)っていうふうにして見てもいいかな。って。
    そしてカントは、
    No40973の(KoQ)の問いに答えるために、この「総合的判断(拡張判断)」を手がかりとして、なのかな?

    「AはBである」っていう判断(認識)で、想いだしてるのが、
    No39160で見たような「概念主義」
    ここでの問いは、
    No39368
    〔知覚の内容はどれほど概念化されている(されうる)のか、知性に(どのように)依存するのか〕?
    で、
    No39511
    セラーズの「概念主義」っていうのを、
    (c-p)私たちが何かを〈知覚すること〉において、“すでに”概念的思考〈思考による概念〉が伴ってる(組み込まれている)。
    ってわたし見てる。

    このときちょっと想い出したのが【「カント」小牧治著清水書院1967】に書いてあった、
    〔それにしても、時・空形式がまとめあげたものにたして、はたして異質的なカテゴリーは、適用されるのだろうか。思考能力である悟性の働きが、感覚的に与えられた表象を、カテゴリー(思考の様式)によってまとめてゆくためには、感覚的表象はそれに応ずるようなものでなくてはならない。カテゴリーが、感覚を統一していく働きであるといても、肝心の素材としての感覚が、カテゴリーの手におえないようなものであっては、なんとしようもない。思考形式が、それとはまったく無関係に、時・空の形式によってまとめられた感覚素材にどうして適合するか。それが、カントをもっとも苦しめた問題であった。
    カントはこう考えた。じつは、感性の時間的・空間的形式によって、感覚が整理されてゆくさい、すでに悟性が働いていたのである。〕(p147-148)
    っていうところ。
    これ、〈知覚作用と知覚されたもの〉のなかに“すでに”〈思考作用や思考されたもの〉が入りこんでいる、ってわたし見たんだけど、こういう見方・考え方はどうなのかしら?これ、〈思考から知覚を見てる〉ことになってないかしら?〈知覚を思考が見る〉っていうのとは逆で。わたしのばあい後者で見てるんだけど、でも、カントのを見るとき、前者のほうで見たら捉えられるんじゃないかな?って、このごろふとね。

    わたしがカントのにかかわり始めるきっかけとなったのがセラーズ、マクダウェルのなんだけど、ここでは「知覚」ってあって、でもね、
    No40617のところまでには「知覚」っていうのが出てきてないのね。それで、カントにおいて、「Ersheinung(現象)」と「経験-感性的直観」と「知覚」の関係はどうなってるの?で調べて考えてるところなのね。これについてはまたお喋りできるようになったらにする。

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■41064 / inTopicNo.77)  Re[24]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/27(Thu) 18:20:12)
    No41037のところから、まとめて見たよ

    「AはBである」っていう「判断」において、

    @ひとまず、
    (K-sU)「総合的判断(拡張判断)」⇒「AはBである」、Aに同一性ではないBが結びつき付け加えられ拡張されてる判断
    ってしといた。

    Aカントは、彼の諸説を展開するとき、そのてがかりとして、概念にではなく「総合的判断(拡張判断)」に求めていた。
    「A」の概念や「B」の概念にじゃなくて、(K-sU)のような「A」と「B」の結びつき。

    B「総合的判断(拡張判断)」は、「経験的総合判断」(ア・ポステリオリな総合的判断)と「ア・プリオリな総合的判断」(経験に拠るものではない総合的判断)をカントは考えてた。

    C「アプリオリな総合的判断」は、〔純粋数学の判断はすべて総合的であり、次に自然科学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれている〕(お7)っていうことから、存在する。

    Dでも、カントが問題としてるのは、数学や自然科学じゃなくて、「形而上学」。形而上学における「ア・プリオリな総合判断(拡張判断)。

    で、
    No40973の、
    (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合的判断は可能であるあるか。』 (B19)
    っていう問い。

    No40052の(資料b)のなかでは、
    〔「ア・プリオリな総合的判断〔認識は如何にして可能であるか」 (Wie sind synthetische Urteile a priori moglich?)と定式化しうる.カントはこれを「純粋理性の一般的課題」 (B19)と呼んで,批判哲学を通じての根本的問題と考えている.〕
    ってなってた。
    「総合的判断」を「認識」ってして見てもいいのかも。どういう認識かっていうと(K-sU)のような判断。
    ネットで調べたら、[synthetische]→「合成」、 [Urteile]→「判決」ともあった。「A」と「B」の合成による「AはBである」っていうふうにして見ると、「総合的判断」っていうよりも、(同一性のない)「合成的判断」って言った方がわたしにはわかりやすい感じ。

    こういうふうに見ると、(KoM)の問いは、
    (KoMA1)《いかにして、形而上学において、ア・プリオリな総合判断(拡張判断)は可能であるのか》?
    っていうことなんじゃないかしら?
    もうちょっと、これをわたしので見ると、

    (KoMA2)《形而上学〈人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問〉におけるア・プリオリ〈経験に拠るものではない〉総合判断(拡張判断的認識)は、いかにして可能であるのか》?

    っていうふうになる。

    いづれにしても、(KoM)のカントの言う「総合的判断」っていうの、(K-sU)のようなもの、って見とくことにしたよ。

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■41037 / inTopicNo.78)  Re[23]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/24(Mon) 16:00:48)
    No40983のつづきね
    No40973の(KoL)のなかの、「分析的に説明することではない」とか「総合的判断」、っていうのについてね。

    (本Ko)の中かからところどころ書き出して見る。
    御子柴さんのカント記述の日訳を(K-お)、御子柴さんの記述を(お)ってするね。
    ―――――――――――――――――――
    (お1)〈分析的判断と総合的判断〉ってあって、

    (お2)〔ここでカントの批判哲学にとって重要な視点が提示されます。はたして〈概念を分析すること〉は――それ自体否定されるべきことではなのですが――認識に拡張をもたらすでしょうか。この問いに対して、カントは自らの諸説を展開する端緒を「概念」にではなく「判断」に求めます。「判断」とは、〈AはBである〉というように、主語と述語との結合によって表現されるものです。〕(p66)

    (K-お1)『すべての判断においては、主語の述語に対する関係が考えられているが(私は肯定判断のことだけを考える。後から否定的判断に応用するのは容易だから)、このような関係は二つの仕方で可能である。述語Bが、主語Aに(隠されたかたちで)含まれているものとして主語Aに含まれているか、あるいはBが、確かにAと結びついてはいるものの、概念Aのまったく外にあるか、のいずれかである。前者の場合の判断を私は分析的と名づけ、後者の場合の判断を総合的と名づける。したがって、分析的判断(肯定的)は、述語の主語との結合が同一性によって考えられている判断である。他方、そのような結合が同一性なしに考えられている判断を、総合的判断と呼ぼう。前者は解明判断と呼ぶことができるだろうし、後者は拡張判断とも呼ぶことができるだろう。』(B10f.) (p67)

    (お3)〔述語Bが主語概念Aに(隠されたかたちで)含まれていて、その主語Aと述語Bとの結合が「同一性」で考えられている判断を分析的判断(ein analytisches Urteil)と呼びます。主語概念Aにおいてすでに考えられている内容が述語Bとして捉えらだされるので、ことがらは主語概念Aの同一性に基づいて進行します。それでも、この判断によって、主語概念Aが部分概念に分けられ、主語概念Aが判明になります。〕(p67)

    (お3)〔他方、述語Bが主語概念Aと結びつきつつも、概念Aの外にある場合、したがって、この結合が「同一性」によらない場合、そうした判断を総合的判断(ein synthetisches Urteil)と呼びます。この判断によって、主語概念Aに対して、そこまでまったく考えられていなかった述語が付け加えられることになるので、このような判断は拡張判断とも呼ばれます。〕(p68)

    そして、
    (お4) 〈経験的判断は総合判断である〉(p68)
    ってあって、

    (お5)〈アプリオリな総合判断という問題〉ってあって、

    (お6)〔分析的判断はア・プリオリです。経験的判断は総合的だがア・ポステリオリです。では、「ア・プリオリな総合判断」はどうでしょうか。先に、そうした判断が存在することは容易に分かるとされました。では、そうした判断において総合=拡張は可能でしょうか。これこそが『純粋理性批判』の核心的問題です。〕(p69)

    (K-お2)『しかし、ア・プリオリな総合判断の場合には、このような補助手段がまったく欠けている。私が、概念Aを出ていくことで、他の概念Bが概念Aと結合していると認識しようとする場合、いったい、私のささえになるもの、またそれによって総合が可能になるものはなんだろうか。この場合、私には経験の領野にそれを求めて探し回るという術がないのだから。』(B12f.)(p69)

    (お6)〔「ア・プリオリな総合判断」はア・プリオリなのだから、ア・ポステリオリな経験的なものを含んでいません。したがってそこでは、経験判断のように経験的なものを「補助手段」として総合を行うことはできません。なお、この引用文にある「概念Aを出ていく」という表現に気を付けましょう。「出ていく」というのは多分に比喩的な表現です。ここで「概念Aを出ていく」とは、〈概念ではないなにか〉にかかわるということを意味しているのです。では、〈概念ではないなにか〉とはなんでしょうか。〕(p70)

    そして、
    〈ア・プリオリな総合判断は存在する〉ってあって、
    (お7)〔経験的なものを補助手段にしない、ア・プリオリな総合判断は存在するのでしょうか。・・・・この問題に「存在する」と答えます。というのは、まず純粋数学の判断はすべて総合的であり、次に自然科学にはア・プリオリな総合判断が原理として含まれているからです。〕(p71)
    ―――――――――――――――――――

    これらのからペイントして見たので添付しま〜す。

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■41035 / inTopicNo.79)  Re[22]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/24(Mon) 15:05:57)
    カントの『純粋理性批判』、いまはカントの「Ersheinung(現象)」と「経験-感性的直観」と「知覚」の関係をいろいろ調べてみてるところなんだけど、けっこう時間かかってる。後でわたしなりに簡単に見れたら書くとして。

    No40983のつづきの前に、(本Ko)のなかに「形而上学」と『純粋理性批判』の関係についてもうちょっと書いてあったのがあったから、まとめとくね。

    (本Ko)から、御子柴によると
    ―――――――――――――――――――――――――
    (1)どうやら人間理性には形而上学への素質があるらしいのです。(p75)

    (2)『純粋理性批判』は、純粋理性を批判することで、旧来の独断論的形而上学が不可能であることを明らかにするととともに、ア・プリオリな原理に基づく新しい形而上学の可能性を拓くものでした。これは、人類にとっての普遍的な知を、いやそれどころか普遍性そのものの可能性を明らかにすることでもあります。(p21)

    (3)「超越論的弁証論」において、カントは、神の現存在を人間理性によって思弁的に証明しようとすることの不可能性を論じ切りました。(p22)
    ―――――――――――――――――――――――――

    これをわたしので見て見ると、

    (1-A)どうやら人間の理性〈思考-概念/概念-理解/概念-思考の根拠・原理を推理する能力〉には形而上学〈人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問〉への素質があるらしいのです。

    (2-A)『純粋理性批判』は、純粋理性〈一切経験に拠るものではない、思考-概念/概念-理解/概念-思考の根拠・原理を推理する能力〉を批判することで、旧来の独断論的形而上学が不可能であることを明らかにするととともに、ア・プリオリ〈経験によるものではない〉原理〈成らしめてるもの〉に基づく新しい形而上学の可能性を拓くものでした。これは、人類にとっての普遍的な知を、いやそれどころか普遍性そのものの可能性を明らかにすることでもあります。

    ってなる。

    そして、(3)になった、っていうことかな。

    【「カント」小牧治著/清水書院1967年】に、
    ―――――――――――――――――――――――
    カントは、形而上的なものを論理的・科学的に捉えようとする方法を、批判した。そういう形而上学を否定した。しかし、形而上的なものへの関心を、人間にとっての、さけることのできない、いや、欠くことのできない関心とした。彼は、神や霊魂の不死を信じて疑わなかった。そこで問題は、形而上的なものは、そもそも何らかの方法で捉えることはできないのか、ということである。論理的・科学的に捉えることができないとするならば、他の何らかの方法で捉えることはできないのであろうか。形而上的なものへ、理論的な先天的総合判断を下すことができなくとも、他の何らなの立場に立つことによって、かかる判断ができるのではなかろうか。
    ・・・・・・・
    こうしてカントは、新しい形而上学を求めて、見る立場(理論の立場、科学の立場)から、働く立場(実践の立場、道徳の立場)へ移っていくのである。
    ―――――――――――――――――――――――
    ってあった。
    この本では、このつづきが、
    『実践理性批判』―人間はなにをなすべきか
    ってなってる。

引用返信/返信 削除キー/
■40983 / inTopicNo.80)  Re[21]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/16(Sun) 18:10:09)
    No40976、また間違っちゃた
    (A-po)「ア・ポステリオリ」⇒〈経験に拠るもの〉
    です。

    No40975のつづき、(KoL)をわたしので見たのを書いて見るね。
    (KoL-A)―――――――――――――――
    〈人間の経験世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを研究する学問〉を、これまでただ試みられたに過ぎない学問ではあるが、それでも人間の〈悟性の根拠・原理を推理する能力〉の本性によって不可避の学問であると見なすなら、そうした〈人間の経験世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを研究する学問〉には〈経験に拠るものではない〉ような総合的〈客観的な知、論理的な認識〉が含まれているはずである。〈人間の経験世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを研究する学問〉にとって重要なのは、〈(神に対して)私たち人間〉が〈経験に拠るものではない〉ような物事について作る諸概念を、たんに分解しそれによって分析的に説明することではない。むしろ、〈(神に対して)私たち人間〉は自分の〈経験に拠るものではない〉ような〈客観的な知、論理的な知〉を拡張しようとする。そのために〈(神に対して)私たち人間〉は、与えられた概念を超え出てそこに含まれていなかったことを付け加えるような諸原則を使用しなくてはならない。そして、〈経験に拠るものではないもの〉な総合判断によって、経験そのものがそこまではついてこられないところにまで出て行こうとするのである。たとえば、世界には最初の始まりがなければならない、という命題におけるように。このように〈人間の経験世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを研究する学問〉は、少なくともその目的からすれば、まったく〈経験に拠るものではない〉ような総合的命題からなるものである。
    ―――――――――――――――
    なんか長くなっちゃたけど、どうかしら?

    No40973を読み返して、わたしちょっと思ったこと。
    {神、自由、不死、霊魂、世界全体}(形而上)、このような課題の解決に向けられている学問が形而上学。たしかにこれらは人間に経験することできない。そして、人間理性には形而上学への素質があるらしくて、で、理性にこの企てを実現する能力があるかないかを前もって吟味すること。これが『純粋理性批判』。
    {自由}って、経験できない?そうなのかも。
    {世界全体}、メルロが「ハイデガーが言うように世界という知覚があるかどうかがさておき」って言ってたのを、ちょっと想い出した。
    わたしのばあい形而上的なの考えたことないからちょっと距離感あるかな。

    ちなみに、わたしの見方から、
    「純粋理性批判」→〈一切経験に拠るものではない〉〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉の〈根拠・原理-推理〉の批判
    ってなるのかな。

    これでひとまず「形而上学」との関係からは離れるね。

    わたしの物語り、次の展開は、
    No40973の(KoL)のなかに、「分析的に説明することではない」とか「総合的判断」っていうのあるけど、これについて(本Ko)にあったから後で見て見る。


引用返信/返信 削除キー/
■40976 / inTopicNo.81)  Re[20]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/16(Sun) 10:19:37)
    あ、No40975の前に、これまで見てきたカント用語のわたしのをまとめたのあるから。

    No40924
    (A-E) 「認識」=〈知〉=〈知ること-知られたもの〉
    (K-E) 「認識」⇒〈客観的な知、論理的な認識〉
    No40925
    (A-i)「直観」⇒〈感覚にものづく知〉
    No40930
    (A-meta) 「形而上学」⇒〈人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問〉
    No40964
    (A-Vd)「悟性」⇒〈概念によって理解したり、概念を利用して思考する能力〉
              ⇒〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉能力
    (A-Vt) 「理性」⇒〈悟性の根拠・原理を推理する能力〉
              ⇒〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉の〈根拠・原理-推理〉能力
    No40965
    (A-pr) 「ア・プリオリ」⇒〈経験に拠るものではないもの〉
    (A-r) 「純粋」⇒〈一切経験に拠るものではないもの〉
    (A-po) 「ア・プリオリ」⇒〈経験に拠るもの〉

    たとえば、
    @「純粋悟性」→〈一切経験に拠るものではない〉〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉能力
    A「純粋理性」→〈一切経験に拠るものではない〉〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉の〈根拠・原理-推理〉能力
    B「純粋悟性概念」→〈一切経験に拠るものではない〉〈思考-概念/概念-理解/概念-思考〉能力によってもたらされた概念
    みたいに見ることになるのね。

    ただね、問題なのはね、(A-i)のようなわたしの見方で見たとき、
    「経験的直観」→経験における〈感覚にもとづく知〉
    で、あってると思うんだけど、
    「純粋直観」っていうのあって、(A-i)ってすると、
    「純粋直観」→〈一切経験に拠るものではない〉〈感覚にもとづく知〉
    ってなって、ちょっとヘンになっちゃうのね。
    カント、 「Anschauung(直観)」っていうのをどういう意味で使ってるのかがいまいち分かんないのね。

    あと、
    わたし「経験的」と「感性的」を同じようなこととして見て、「経験-感性的」ってまとめて見ちゃってもいいかな、って。
    「経験的直観」と「感性的直観」を両方「経験-感性的直観」ってして見る、っていうこと。
    でもね、
    「経験的概念」を「経験-感性的概念」ってしていいかな?って思って。どうしてかっていうと、「概念」は「思考(知性)」に属するもの、ってして見ると、「感性的概念(知性)」じゃヘンかな、とも思ってる。でも、「知性」っていうのを「思考」だけじゃなくて「感性」も含めて見る場合ヘンではなくなると思うんだけど。だから、「経験-感性的概念」もありかな?って。

引用返信/返信 削除キー/
■40975 / inTopicNo.82)  Re[19]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/16(Sun) 10:13:44)
    No40973の(KoL)、写し間違いあったので、
    「経験そのものがそこまではいってこられないところまでに出て行こうとする」
    →「経験そのものがそこまではついてこられないところにまで出て行こうとする」
    「啓示少額」→「形而上学」
    でした。ごめん。

    ついでだから(KoL)をわたしなりに見たのを書いて見るね。

引用返信/返信 削除キー/
■40973 / inTopicNo.83)  Re[18]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/15(Sat) 18:28:06)
    No40871の(本Ko)から「カントの」にわたし取り組んでるんだけど
    やっぱ、カントの『純粋理性批判』、(本Ko)から、「形而上学」っていうの必須課題みたいなのね。
    No40933で、カントの『純粋理性批判』と「形而上学」の関係について簡単に見たんだけど、
    こんどはカントの「ア・プリオリ」と「形而上学」の関係について書いてあるところを書き出して見たよ。

    (p57)
    「経験に依存することなく、感官の一切の印象にさえ依存することのない認識が存在しないかどうか」という問いは、言い換えれば、「ア・プリオリな認識が存在するかどうか」という問いだということになります。この問いは、形而上学の可能性をめぐる問いでもあります。形而上学は経験できない「形而上」の領域で議論されるという点で、ア・プリオリな性格をもつからです。カントが形而上学という学問をめがけて議論を展開していることに、私たちも注目しましょう。
    (p62)
    このように数学や常識的な悟性使用には、判断や概念にア・プリオリな源泉をもつものが見出だされます。では、形而上学においてはどうでしょうか。形而上学がまさにメタ-フィジックスとして経験の限界を超えた学問であるとしたら、そこには経験に依存しないア・プリオリな概念や判断が見出されることが予想されます。さらには、そうした概念や判断によって、形而上学という学問における認識の拡張、したがって学問の発展が実現しているのではないでしょうか。
    (KoK)『まさにこのような感性界を超え出た認識、そこでは経験が指導原理も正誤表も与えることができない認識にこそ、私たちの理性が追求するものが存する。私たちは、このような追求を、重要さの点で、悟性が現象の領野で学ぶことができることすべてに比して、はるかに優れたものと見なし、その究極意図においてたいへん崇高であると見なしている。(中略)このような純粋理性そのものの不可避な課題が、神、自由。不死である。その究極意図が、自分のもっている装備すべてをもって本来もっぱらこの課題の解決に向けられている学問が形而上学と呼ばれる。形而上学の手続きは、当初、独断的である。すなわち、形而上学は、理性にかくも大きな企てを実現する能力があるかないかを前もって吟味することなしに自信たっぷりで実行に着手するのである。』(B6f.) 

    (p72) 〈形而上学とア・プリオリな総合判断〉
    しかし、『純粋理性批判』の主要問題は、数学や自然科学ではなく、形而上学です。これは初版の序文を読めば明らかなことです。では、もし形而上学が可能であるとするなら、そこにはア・プリオリな総合判断が含まれるのでしょうか。
    (KoL)『形而上学を、これまでただ試みられたに過ぎない学問ではあるが、それでも人間理性の本性によって不可避の学問であると見なすなら、そうした形而上学にはア・プリオリな総合的認識が含まれているはずである。形而上学にとって重要なのは、私たちがア・プリオリに物事について作る諸概念を、たんに分解しそれによって分析的に説明することではない。むしろ、私たちは自分のア・プリオリな認識を拡張しようとする。そのために私たちは、与えられた概念を超え出てそこに含まれていなかったことを付け加えるような諸原則を使用しなくてはならない。そして、ア・プリオリな総合判断によって、経験そのものがそこまではいってこられないところまでに出て行こうとするのである。たとえば、世界には最初の始まりがなければならない、という命題におけるように。このように啓示少額は、少なくともその目的からすれば、まったくア・プリオリな総合的命題からなるものである。』
                                                                   (B18)
    この引用文では、形而上学について「ただ試みられたに過ぎない学問」であるとか「その目的からすれば」という留保が付けられています。それは、学問としての形而上学がいまだ実現していないことを示唆しています。ともあれ、初版の序文冒頭でカントが書いていたように、人間理性はその「推理の能力」としての本性上、「なぜ」と根拠を問い続けながら、経験不可能な世界にまで問いを及ぼそうとします。これは、概念分析を行うことではなく、ア・プリオリな認識を拡張しようとすることです。そこではア・プリオリな総合判断が行われるに相違ありません。したがって、仮に形而上学が可能であるとするなら、それはア・プリオリな総合判断からなる学問であるはずなのです。(p73)

    (p73) 〈形而上学の可能性への問い〉
    以上のことから、形而上学の可能性への問いは、次の問いへと収斂することになります。
    (P74-76)
    (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるあるか。』 (B19)
    カントの批判哲学を読む人は、彼が「いかにして・・・・は可能であるか」という問いを立てることに気づきます。これは、彼が哲学する姿勢や方法bを代表する問い方なのです。ともあれ、ここに提示された問いこそが、『入水理性批判』の全体、少なくともその前半部を貫く問いです。
    ・・・・・
    形而上学が可能であるとしたら、ア・プリオリな総合判断が可能であるはずです。・・・・
    (KoN)『いかにして純粋数学は可能であるか』
    (KoO)『いかにして純粋自然科学は可能であるか』 (B20)
    上述のように、純粋数学の判断はすべてア・プリオリな総合判断です。自然科学の原理を扱う純粋自然科学もまた、ア・プリオリな総合的原則からなるはずです。こうした問いにおいて「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるか」を明らかにするなら、それは形而学の可能性に光明を見いだすことになるかもしれません。なお、『純粋理性批判』の中で、第一の問いは「超越論的感性論」において、第二の問いは「超越論的分析論」において扱われることになります。
    もっとも、ア・プリオリな総合判断が可能であるか否かにかかわらず、人類は形而上学を(上首尾にではないにせよ)試みて見てきました。どうやら人間理性には形而上学への素質があるらしいのです。仮にそうした素質がないとするならば、ア・プリオリな総合判断が可能であったとしても、形而上学に人間が関心をもつことはなかったでしょう。そこで第三の問いが立てられます。
    (KoP)『いかにして自然素質として形而上学は可能であるか』 (B22)
    人間は、自分の素質に基づいて、すなわち人間理性の本性に基づいて、どのように形而上学を展開してきたのでしょうか。それは『純粋理性批判』の「超越論的弁証法」で批判的に明らかにされます。そうした批判を介して確定的に答えられるべき究極の問いが次のようなものです。
    (KoQ)『いかにして学問としての形而上学は可能であるのか』 (B22)
    この問いに答えるため、カントの批判哲学は、旧来の独断論的形而上学とヒュームに代表される懐疑論を論駁して見据えつつ、本来の形而上学に向けて準備を行うのです。

    『 』内は、たぶんカントの記述訳だと思う。

    でね、ちょっと思ったのね。
    カントの『純粋理性批判』の背景には「形而上学」っていうのがあって、これ読むとき、これを大前提としとかなくっちゃ、って。
    でね、カント記述の日訳で、「私たち」って言うのを〈(神に対して)私たち人間〉ってして見たらどうかしら?って。
    たとえば(KoL)に『私たちは』ってあるけど、これを「(神に対して)私たち人間は」って補足して読むことにして見たのね。

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■40965 / inTopicNo.84)  Re[17]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/02/14(Fri) 18:50:35)
    今日はカント用語、もう一つ

    「ア・プリオリ」なんだけど、

    ネットから一部
    [nア・プリオリ]―――――――――――――――
    (ウィキペディア)
    @アプリオリ(羅: a priori)とは、議論や知識の前提があらゆる経験に依存しないことを表す言葉。知識が経験的証拠(英語版)に依存する場合、アポステリオリと表現される。

    Aカントにおける「アプリオリ」の概念
    「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的なものをまったく混入していない認識を「純粋認識」と呼ぶ)。

    (改訂新版 世界大百科事典 )
    Bア・ポステリオリa posterioriと対をなして,推論の二つのあり方を規定する中世スコラ哲学の用語。ア・プリオリとは〈より先なるものから〉の意味で,元来,原因から結果へ,原理から帰結へという方向をとる推論・認識を,ア・ポステリオリ(〈より後なるものから〉の意)は,その逆の方向をたどる推論・認識を意味した。神とその諸属性,理性,道徳的諸性質やそれらについての概念,判断,認識はア・プリオリと,一方,人間により近い感覚的経験的なものをもととする推論・認識はア・ポステリオリと考えられたのである。
    ――――――――――――――――――――――――

    (本Ko)から、

    (Ko-a)〔「ア・プリオリ」とは「経験に依存することなく、感官の一切の印象にさえ依存することのない」ことです。他方「ア・ポステリオリ」とは経験を源泉としてそれに依存していることです。〕(p57-58)

    あと、カントにおいて、「ア・プリオリ」と区別される「純粋(rein)」っていうのもあるみたいで、

    (K-ar)『したがって、以下でア・プリオリな認識とは、この経験やあの経験から独立に生じる認識ではなく、すべての経験からたんてきに成立する認識のことである。この意味でのア・プリオリな認識には、経験的認識、言い換えれば、たんにア・ポステリオリにすなわち、経験によって可能な認識が対置される。さらに、ア・プリオリな認識の内で、まったく経験的なものが混入していない認識は純粋と呼ばれる。たとえば、「それぞれの変化にはその原因がある」という命題は、ア・プリオリな命題だが純粋ではない。なぜなら、変化は、経験からだけ引き出すことのできる概念だからである。』(B2f.)  (p59)

    ってあった。なんかカントにおいては「ア・プリオリ」と「純粋」っていうのビミョーに違うみたいなんだけど、
    ひとまず、

    (A-pr)「ア・プリオリ」→〈経験に拠るものではないもの〉
    (A-r)「純粋」→〈一切経験に拠るものではないもの〉
    (A-po)「ア・ポステリオリ」→〈経験に拠るもの〉

    ってしとくことにした。

    (本Ko)では、
    「純粋」=〈たんてきに一切の経験に依拠しないで生じる〉(p59)
    っていう言い方をしてるみたいなんだけど、わたしのばあい(A-r)ってした。

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