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■41136 / inTopicNo.61)  知的直観
  
□投稿者/ pipit -(2025/03/09(Sun) 22:56:17)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)

    何かの参考になったら嬉しいな、と、弘文堂の『カント事典』p334の【知的直観】の冒頭部分を引用するね。
    でも、冒頭文に続けて約1ページ分、文章が続くから、引用部分だけの内容ではないみたいだけど...(ごめんね、私は把握してません m(_ _)m)
    とりあえず冒頭だけでもと引用します。

    『知的直観[(独)intellektuale Anschauung]
      対象を感性によらずに直接的に認識する叡智的能力。カントによれば、人間の直観は、心が対象からなんらかの仕方で触発されることによってはじめて可能となる「感性的直観」である。
    (略)』

    続く事典文章の中に、[B307,342]というのがでてきて、カントの純理での文章なんだけど、もし読みたい時は翻訳本から引用するので、言ってね!

    御子柴先生の解説本では、B307のカント文の翻訳がp319に載ってました。
    B342は残念ながら翻訳は載ってないけど、その箇所あたりについての御子柴先生の解説がp353に載っていました。

    それではおじゃましましたー(^ ^)
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■41130 / inTopicNo.62)  Re[39]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/09(Sun) 10:14:19)
    No41128のつづき
    わたしが〈神的な知〉って呼んじゃうことにしたところ。

    (K-お)『C諸対象が、それ自体でそして私たちの感性のこのような一切の受容性を離れて、どのようなものであるかは、私たちにはまったく知られないままである。私たちが知るのは、そうした諸対象を知覚するための私たちの仕方に他ならない。その仕方は、私たちに固有のものであり、あらゆる人間はそれをもつに相違ないが、あらゆる存在〔者〕がそれを必然的にもつわけではない。』 (A42f./B59f.) (p103)

    このところの御子柴さんの、
    (お)〔C私たちに物それ自体を認識する可能性がないことをあらためて主張します。もっとも、人間ならざる知性的存在にとっても同様であるとは言えないことを付言します。カントはしばしば人間ならざる知性的存在を念頭に置きつつ、人間における認識の可能性と不可能性を語りますが、ここでの言及もその一例です。〕 (p104)

    (K-お)の『あらゆる存在〔者〕』っていうの、わたしのばあいハイデガーの「存在者」っていう表言を想いだしてて、
    『あらゆる存在〔者〕がそれを必然的にもつわけではない』っていうところは、〈(あらゆる人間はそれをもつに相違ないが)たとえば人間以外のネコやイヌっていう存在者はそれを必然的にもつわけではない〉ってして見たんだけど、違うのかもね。

    じゃ、だからといって、カントの言う『存在〔者〕』(日訳)って言うのが、(お)の〔人間ならざる知性的存在〕なのか、っていうと、な〜んか違う気がする。

    わたしが見たのは、(K-お)と(お)から、
    《『私たちにはまったく知られないままである』〔人間ならざる知性的存在〕》
    ってして見て、カントはこのような存在を想定してる、って見て、わたしこのような存在における知を〈神的な知〉ってして見たわけね。

    あと、
    (お)の、〔私たちに物それ自体を認識する可能性がない〕っていうのがカントの根本にある考え方のような気がするけど、これたぶん、〈神が万物を創造たのであって、人間は万物を創りだすことはできないどころか、人間もそのひとつであって、そのような私たち人間が神の創造物そのものを知ることできるはずないじゃん〉って思ってたからじゃないかしら?
    で、
    〈神的な知〉にくらべて、〔人間における認識の可能性と不可能性〕を物語ってるのが『純粋理性批判』、みたいな?

    (K-お)のところに「知覚」っていうの出来てきてて、この(A42f./B59f.)のところについてはまた後で引用するつもり。

引用返信/返信 削除キー/
■41128 / inTopicNo.63)  Re[38]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/09(Sun) 08:27:43)
    おはようございま〜す。

    No41127、さすがpipiさま、ありがとございま〜す(^0^)
    【「カント純粋理性批判」御子柴義之著/角川選書】、教えてもらってよかった。ありがと。
    おかげでカントのに触発されました。いまいっしょうけんめい読んでるところ。
    わたしの物語り、最終的にはメルポンの現象学のとを見くらべてみようと思ってるん(わたし勝手に)だけど、相当先になりそう。

    わたし読んでるのはまだ「感性論」のところまで。「超越論的演繹論」っていうのよくわかんないので、もしわたしがお喋りできるようになたらそのときまた相手してね。

    おかげで分かったことだけ書きます。

    >感性もいらんわい、なんでも完璧にお見通しだい!っていう知り方を『知的直観』ってカントは言っているみたい。<
    なるほど!
    >悪魔ちゃんの言うように〈神的な知〉を想像してたと私も思うなぁ。<
    やっぱそうよね〜。

    昔の人は神的なものの存在(万物の創造主とか全知全能の、みたいな存在)を信じていたみたいだから、そこんとこおさえとかないと、カントの読むときにわかんない言表(日訳)が出てくることにわたし気づいたのね。わたしのばあいそういうの薄いし。

    「知的直観」「純粋直観」っていうの、よく分かんなかったんだけど、おかげでなんか分かった感じ。
    カントの場合、「直観」って呼んでるものには3つあって、
    @「経験的(感性的)直観」
    A「純粋直観」
    B「知的直観」
    @とAが〈人間の〉で、Bが〈神的な〉。
    ってひとまず見ることにしました。
    Bは私たち人間に知ることはできない。でもカントによって知り得たのがA、みたいな?

    学者さんたちは、〈神的な知〉って、「神」っていう語を使うと「神学」と間違えられやすくなるから、たぶんあまり使わないようにしてるのかも?でも、わたし学者じゃないから、ふつう〜に使っちゃうのよね。

    次に、わたしが〈神的な知〉って見ることになったところを(本Ko)から書き出して見ます。

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■41127 / inTopicNo.64)  Re[37]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ pipit -(2025/03/08(Sat) 21:05:13)
    悪魔ちゃん、おじゃまします(^^♪

    No41125

    私見書きます。
    純粋悟性概念(量や因果関係や実体などの概念)の妥当性は、感性的直観に適用させる限りにおいては証明できる、という記述が超越論的演繹論という箇所だと思っています。
    その超越論的演繹論が、悪魔ちゃんのコメントでいえば、

    >でも、(x)を超えたところにある(y)、っていっても、それはあくまでも私たち人間の〈経験-感性的知(認識)〉のうちでのもの。<

    にも関わる箇所だとpipitは思っています。
    この演繹論を含む超越論的分析論を『真理の論理学』と言ってると思っています。(純理B87)

    それでそのあとカントは、「超越論的弁証論」という箇所で、感性的直観を超えた対象にも純粋悟性概念を使って規定できるかを検査した結果、規定結果は二律背反を起こして純粋悟性概念による規定は不能となることをカント的に証明するとpipitは思っています(pipitはまだ未読です(´;ω;`))
    こちらは、仮象についての批判ってかんじなのかな。こちらをカントは『超越論的弁証論』って言っているみたい。(純理B88)

    > 雰囲気的になんだけど、
    > カントは、〈神的な知〉みたいなのを想像してたんじゃないかしら?それに対して〈私たち人間の知〉っていうふうに。

    感性もいらんわい、なんでも完璧にお見通しだい!っていう知り方を『知的直観』ってカントは言っているみたい。(違ったらごめん)
    悪魔ちゃんの言うように〈神的な知〉を想像してたと私も思うなぁ。
    それに比べて人間は、いろんな要素を総合してものを知っていくしかないんだよ、ってかんじなのかな
    カントは謙虚だな〜と思ったことがあるよ。

    それか、まぁ、人間の認識における普遍を規定しようとすると、不公平のないような基準を定めようとしたのかなとも今思ったよ。
    特別者をつくらなくてすむ平等な基準をね。

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■41125 / inTopicNo.65)  Re[36]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/08(Sat) 16:32:13)
    ちょっと思ったんだけど、

    No41124の、
    (K-t)「超越論的」⇒ア・プリオリなものを見出そうとする営み
    ってして見たとき、

    No41109で見たような、
    (a)「形而上学」⇒人間の経験-感性的知を超えたところに、普遍・必然的な知があるとする学問
    (b)カントは、人間の認識において、〈経験に拠るもの(ア・ポステリオリ)〉と〈経験に拠らないもの(ア・プリオリ)〉に分けた。
    の、(a)と(b)を対応させて、
    (x)人間の経験-感性的知――〈経験に拠るもの(ア・ポステリオリ)〉
    (y)普遍・必然的な知があるとする学問――〈経験に拠らないもの(ア・プリオリ)〉
    そして、
    (x)を超えたところにある(y)。
    そして、(K-t)、
    (y)を見出そうとすることを「超越論的」〈ア・プリオリなものを見出そうとする営み〉

    なんかつながったかも?

    でも、(x)を超えたところにある(y)、っていっても、それはあくまでも私たち人間の〈経験-感性的知(認識)〉のうちでのもの。
    ってカントは考えてたんじゃないかしら。

    雰囲気的になんだけど、
    カントは、〈神的な知〉みたいなのを想像してたんじゃないかしら?それに対して〈私たち人間の知〉っていうふうに。

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■41124 / inTopicNo.66)  Re[35]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/08(Sat) 16:16:17)
    わたしがいま話題にしてるのとはちょっと違うんだけど、

    No41119の、

    (お1)に、
    〔形式とは、現象する多様を秩序づけるもののことです〕
    ってある。わたしのばあい、〔秩序づける〕より〈まとめる〉の方がイメージできる。で、これから、カントの、

    (K-f)「形式」⇒多様を秩序づける(まとめる)もののこと

    ってしてひとまずして見た。

    (お2)に、
    〔『純粋理性批判』の感性論は、感性におけるア・プリオリなものを見出そうとする営みであることから、超越論的感性論と呼ばれます。〕
    ってある。これから、カントの、

    (K-t)「超越論的」⇒ア・プリオリなものを見出そうとする営み

    ってひとまずして見た。

    カントの用語、見方を探りだしながら。

引用返信/返信 削除キー/
■41119 / inTopicNo.67)  Re[34]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/07(Fri) 19:55:42)
    No41118のつづき
    「形式」を取り出すための「捨象」という手続きについて書いてあるところね。

    カントの言う「現象」について書いてあるところから、
    ――――――――――――
    (お1)〈感覚と現象〉(p88-89)
    〔さて、批判哲学者カントは、「分ける」という視点でことがらに臨みます。ここに登場した「現象」についても、その「内容」と「形式」を分けます。現象の内容が上述の「感覚」であることは明らかです。したがって、現象の内容はいつでも経験的でア・ポステリオリです。しかし、現象の形式はどうでしょうか。ここで形式とは、現象する多様を秩序づけるもののことです。実際、私たちが現象としての現象を見定めるとき、そこに見出されるのは混沌ではなく、なにほどかの秩序をもったものです。〕(p89)

    (お2) 〈現象の形式――それを取り出す手順〉(p90-91)
    〔「超越論的感性論」において、カントはこのような現象の「形式」に注目し、それがア・プリオリで純粋であることを明らかにしようとします。もしそれが見出せるとしたら、そうした形式は感性的直観の「純粋形式」ですあし、「純粋直観」とも呼ばれるべきものです。というのは、感性に対象が与えられる仕方は直観だけであり、いまだ概念の入り込まないことがらだからです。私たちはやがて、直観の形式そのものが純粋直観であることを学ぶでしょう。ともあれ、『純粋理性批判』の感性論は、感性におけるア・プリオリなものを見出そうとする営みであることから、超越論的感性論と呼ばれます。〕

    (K-お)『したがって、超越論的感性論において私たちは第一に、感性をそれだけで取り出すであろう。そのためには、悟性がそこでその概念によって考えているものすべて分離する。それによって、経験的直観だけが残ることになる。第二に、私は経験的直観から感覚に属するものすべてを分離する。それによって、純粋直観と諸現象の形式だけが残ることになる。これこそ感性がア・プリオリに提供できる唯一のものであるある。このような探究において、感性的直観の二つの純粋形式すなわち空間と時間がア・プリオリな認識の原理として存在することが見いだされるだろう。』 (A22/B36)

    (お3)〔この引用文には、カント批判哲学における典型的な手続きが表現されています。緒論の冒頭に記されたように、私たちの認識は経験とともに始まります。その経験は感性と悟性によって成立しています。そこで、感性論では、経験から悟性由来のものを排除することで、感性由来のものだけを取り出します。それは経験的直観です。次に経験的直観から感覚(現象の内容)に属するものを除去すると、そこに純粋直観あるいは現象の形式が残ることになります。このように、カントは認識におけるア・プリオリな原理を探究する際に、経験からの捨象という手法を採ります。哲学には、さまざまな経験から共通する要求を抽象するという手法(帰納法)もありますが、カントは捨象という手法を用いるのです。〕
    ――――――――――――――――――
    これをペイントしたの、添付しま〜す。

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■41118 / inTopicNo.68)  Re[33]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/07(Fri) 19:49:15)
    No41110のつづき

    「形式」を取り出すとき、カントは「捨象」っていう手続きをとってるみたい。

    (本Ko)からところどころ書き写して見るね。
    ―――――――――――――――――――
    (K-お)『しかし、私たちのすべての認識が経験をもって始まるとしても、だからといって私たちの認識がすべて経験か生じるのではない。というのは、私たちの経験認識ですら、私たちが印象によって受け取るものと私たち自身の認識能力が(感性的印象をたんなるきっかけとして)自分自身から提供するものから合成されたものであるということも、きっとありうることだろうとからである。私たちは、長い修練によってこのような〔認識能力によって〕付け加えられたものに注意を払うようになり、それを分離することに習熟するまでは、付け加えられたものなのかの〔印象によって受け取った〕原素材から区別することはできない。』(B1f) (p56)

    (お)〔カントは、経験認識が経験をもって始まるとしても、この認識において感性的印象(原素材)と悟性が提供するもの(付加物)との「結合」が生じている可能性を指摘します。この後者(付加物)を見出す手法が「分離」です。カントはしばしばこの手法を「捨象」と表現します。カントの論点を理解するために、ここでも次のように問うてみるのがようでしょう。私たちは経験において、感覚的印象以上のものを見ていないだろうか、と。〕(p57)
    ―――――――――――――――――――
    ここから、
    ・@私たち人間の認識がすべて経験から生じるのではない。
    ・A私たち人間の認識は、(a)『私たちが印象によって受け取るもの』(感性的印象)と(b)『私たち自身の認識能力(自分自身から提供するもの)』(悟性が提供するもの) が結合してる。→認識は(a)と(b)で合成されてる。→認識=(a)+(b)
    ・B(a)+(b)から、(b)を「分離」、「捨象」する。
    ・Cすると、(a)だけが残る。

    こんな感じ?

    「私たち人間の認識」、っていうのを〈経験-感性的認識〉ってしてもいいかな。
    あと、わたしのばあい「形式」っていうのを〈仕方〉ってして見てる。
    御子柴さんは、カントの「形式」っていうの、「現象する多様を秩序づけるものこと」っていうことみたい。


引用返信/返信 削除キー/
■41111 / inTopicNo.69)  Re[32]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/06(Thu) 20:16:06)
    No41110、添付するの忘れてた。
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引用返信/返信 削除キー/
■41110 / inTopicNo.70)  Re[31]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/06(Thu) 20:12:26)
    No41109でちょっとすっきりした感じ。

    今日はわたし用にもうちょっと。

    「分ける」っていうことで見たとき、
    カントは、「内容」と「形式」を分けてる。
    って見ることもできるかな。

    わたしのばあい、カントのを見てくときにどうしても現象学のと対比して見ちゃうのね。
    (『純粋理性批判』についてだから、pipiさまのところに書けばいいんだろうけど、こういうことからここで書くことにしてる。)

    現象学では
    No36070のような「ノエマ/ノエシス」っていうのあって、両者は区別されてる。
    ちょっとここらへんの、わたしに思われたのをペイントしたのあるから添付するね。前にも書いたと思うけど。

    ペイントしたので見て見るね。
    意識を分節したなかで、aとb〈するものa,b〉っていうのがあるとするのね。bはaに志向するのね。aはbの対象となってる。bの働きによってbの内に(b-a)が構成されるのね。bの内容が(b-a)、あるいはaっていうことになる。
    〈するもの〉があって、その〈するもの〉が〈すること〉によって、〈されたもの〉ができる、みたいな。
    このようなかで、カント的には、〈するもの〉が〈する〉とき、そのする「形式(仕方)」がある、って言ってるのかも。

    カントので見ると、bを「Ersheinung(現象)」〈するもの〉、aを「感覚」〈するもの〉ってすると、現象は諸感覚されたものに志向するのね。〈感覚されてるもの〉が現象の対象となってるっていうことね。現象が〈すること〉によって諸感覚がまとまられ、現象の内に〈諸感覚がまとめられたもの〉(b-a)ができるのね。この(b-a)が現象の「内容」っていうこと、あるいは〔現象の内容が感覚〕(p89)っていうことになるのね。そして、現象が〈する〉ときには、その「形式(仕方)」がある。みたいな?

    わたしのばあい、カントの「内容」と「形式」の区別を見るときにこんな感じで見るのね。
    たしかに「形式(仕方)」っていうのはありそう。

    次にカントの「形式を取り出す」っていうことについてね。

引用返信/返信 削除キー/
■41109 / inTopicNo.71)  Re[30]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/06(Thu) 19:53:05)
    用語の意味表言をちょっと変えるね。

    No40930で、
    ・(A-meta)「形而上学」=人間の経験的生活世界を超えたところに、知の究極的・普遍的・必然的なものがあって、それを探究する学問。
    ってしたんだけど、
    「知」っていうことを中心にして、〈人間の経験的生活世界〉を〈人間の経験-感性的知〉ってすることにした。〈知〉っていうのは
    「認識」も意味するよ。
    で、
    ・(A-meta)「形而上学」⇒人間の経験-感性的知を超えたところに、普遍・必然的な知があるとする学問
    に変える。
    こうすると、
    カントは、人間の認識において、〈経験に拠るもの(ア・ポステリオリ)〉と〈経験に拠らないもの(ア・プリオリ)〉に分けた。
    って見ることに結びつけられることもできるかも。

    カントの場合、

    (K-pr)「ア・プリオリ」⇒経験に拠らないもの
    (K-po)「ア・ポステリオリ」⇒経験に拠るもの
    (K-r)「純粋」⇒一切経験に拠らないもの

    ってして、

    わたしのばあいは、

    (A-pr)「ア・プリオリ」⇒生まれつき備わっているもの

    っていうのは変わりないよ。

    〈生まれつき備わっている〉っていうのは、誰からも教わったことじゃなく、自然と、みたいなんで、経験に拠らないもの、っていう意味も含まれるよ。
    たとえば、一般的に人は1才ぐらいになると自然と立つことができて、立ってあるようになってく。言葉も喋れるようになる。こういうのって誰かに立ち方、歩き方、喋り方を教わったわけじゃないじゃん。

    もっとも、〈生まれつき備わってるもの〉を「ア・プリオリ」って言う語で呼ぶ必要もないんだけどね。
    「本能」、ま、それもいいかもだけど、でもそれだと大人の返事みたいになっちゃう感じするから、いまいちかな。

引用返信/返信 削除キー/
■41104 / inTopicNo.72)  Re[29]: つれづれなるままに 18
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/05(Wed) 20:08:03)
    フィロソフィアに、「認識論」って言うのあるみたい。
    こういうの、ほとんど、いまの〈私たち〉の生活世界では関係ない話し、っていうふうにはわたし思ってないのね。

    たとえば、ネットニュース見てるなかで、
    「マス(*)の報道」の中で、「米の大統領(t)が・・・・って言ってる」とか「日本の総理大臣(i)が・・・・って言ってる」とか、ってあるけど、それって結局マスの言う (t),(i)の「認識」じゃない?その認識が正解(真、信)なのかの判断は次の段階になるとして、フィロソフィアで問題としてるのは、その認識がどのようにして成り立ってるのか(原理)、について考えてるみたいで、(t)、(i)だって、〈私たち〉の中のある一個人の、一つの「認識」にすぎないんじゃないかしら、ってね。

    (*)は個人の正体を明かさないのかな?アナウンサーは、誰かが作った原稿を読み上げてるだけ(もっともアナウンサー自身が作った原稿だったら話は変わるけどね)?だから、ただの読み手。「この原稿は○○(←個人名)によるものです」ってアナウンスしたらいいのにね。ん?これしないのは著作権法(ほら、出所を明記するみたいな)のに引っかからないのかしら?

    そこはかとなく

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