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■41218 / inTopicNo.49)  Re[52]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 17:47:41)
    No41217につづけて、あ、これわたしの課題になってることね。

    No39936のようなこと――2才児kちゃんの「これ、リンゴ」。
    これ、カントの「超越論的」っていうのから見たらどうなのかな?っていうことについてね。

    No40162で見たような、
    カントの
    (K-q)アプリオリな総合判断(認識)は如何にしてかのであるか?

    (A-q)2才児の「これ、リンゴ」が如何にして可能であるか?
    にして見たことについてね。

    No41076で見たように、
    カントに言わせると、
    2才児kちゃんの「これ、リンゴ」は、総合的(拡張)判断(認識)だけど、経験に拠るもので、ア・プリオリじゃない。
    っていうことになるんだとわたし見てるんだけど。

    カントの「超越論的」っていうのが、
    No41196の図Aのように、
    ・(a)のような「ア・プリオリな総合的(拡張)判断(認識)」(y)を可能にするア・プリオリなものを「超越論的」っていってるとすると、「これ、リンゴ」は(y)じゃないから、カントの超越論的の対象外、っていうことになるのかも。
    ようするに(a)には「これ、リンゴ」は入らない、(K-q)は(A-q)にはかかわってない、っていうことになるのかも。

    あと、
    No40973の、
    (KoM)『いかにしてア・プリオリな総合判断は可能であるあるか。』
    この問いなんだけど、これ、
    「アプリオリな総合判断は可能である。ではそれはいかにして?」っていう問いなんだと思う。
    No41037で見たように、〈ア・プリオリな総合判断は存在する〉で、それが数学とか自然科学にあるから,っていうふうに、カントの「超越論的○○」っていうの、こういうのから始まってて、「アプリオリな総合判断がいかにして可能であるのか」、っていうことに限られてる認識、っていうことなのかも。
    だから、
    2才児kちゃんの「これ、リンゴ」はいかにして可能なのか?にはカントの「超越論的○○」では答えることができないのかもね。

    きょうはこれでおしまいかな。
    さーてと、(本Ko)、読み進めましょ。

引用返信/返信 削除キー/
■41217 / inTopicNo.50)  Re[51]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 17:40:37)
    きょうはもうちょっとこれまでわたしに思われたものお喋りしとく。

    カントの「超越論的」っていうのについて、
    No41196に戻るね。

    (お)の、
    〔超越論的論理学は対象にかかわる純粋思考を対象にしていると記しましたが、対象にかかわるからといって、この論理学は対象領域の側に論理を見出そうとするものではありません。〕@
    に、
    いろんな「対象」が出てきてるけど、何が何を対象としてるのか、っていうことを、

    図Aので見て見ると、

    〔純粋思考〕が(x)、〔対象領域の側〕が(a)-(y)、って見るのね。

    (a)-(y) を可能にするような、あるいは(a)-(y)に適用できる(使える)ような(x)を「超越論的」ってして見て、
    (x)によって(a)-(y)が可能になるような認識、これを「超越論的な認識」ってして見て、
    だから、@は、
    〔超越論的論理学〕のその「超越論的な認識」が「対象」としてるのは(x)で、(a)-(y)じゃない。
    っていうことを言ってるじゃないかな、って。

    あと、
    (a)は、「ア・プリオリな〈経験に拠るものではない〉総合的(拡張)判断」なの?っていうことで、
    No41154で、「7+5は12」についてちょっと思ったんだけど、
    「三角形の内角の和は二直角である」っていうのはどうなのかな?って。
    これもわたし学校で教わったこと(経験)だけど、これを最初に発見した人においては、「ア・プリオリな〈経験に拠るものではない〉総合的(拡張)判断」になってるのかも。でも、これ〈完全に思考だけから〉とは言えない感じしてる。

引用返信/返信 削除キー/
■41215 / inTopicNo.51)  Re[50]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 15:54:58)
    No41208の他に、
    もう一つ想い出したのが、中島義道さんの。
    出所忘れちゃったけどわたしの「ニーチェファイル」に記録しといたのから一部。

    (K-Na)―――――――――――――――――――
    超越的と超越論的
    まず強調されねばならないこと(そしてほとんどの人が無視していること)は、「超越論的」と「超越的」(transzendent)と不可分の概念だということである。神や死後の魂の永遠などの人間の認識を超えるものに関することを「超越的」と呼ぶが、「超越論的」とはこの基本構図をのこしたまま、積極的意味と消極的意味とをあわせ持っている。積極的意味はさらに二局面に分かれる。第一は、人間の認識の限界を定めるという機能、そして第二は、その限界内でさらに夢や錯覚や妄想や印象から「客観的な実在世界」を区別する機能である。カントによると、この両機能は人間理性を探ることによりいっきょに見いだされる。つまり、各人がただただ理性を省みさえすれば、そのうちに「経験を可能にする諸条件」として時間・空間・(物の基本的あり方としての)カテゴリーを見出すことができ、これらによって構成できる限界が「可能な経験」の限界である。また、「経験を可能にする諸条件」とは、同時に時間・空間における物の基本的あり方なのだから、はじめからそのうちに夢や妄想などと区別された「客観的な実在世界」を抽出できる機能を含んでいる。すなわち、ただ人間理性のうちから「経験を可能する諸条件」を見いだし、それによって「可能な経験」(「客観的な実在世界」)を構成するという以上の手続きに関するすべてが「超越論的」と呼ばれる。
    ―――――――――――――――――――

    「ただ人間理性だけから」みたいなのがカントにはあったのかもね。

    「理性」っていうの、わたしのばあい、
    No40964のように、
    「悟性」=概念によって理解したり、概念を利用して思考する能力
    「理性」=悟性の根拠・原理を推理する能力
    なんだけど、

    簡単に「理性」を〈推理する能力〉ってして見て、その推理が間違ってないとは言い切れないんじゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■41208 / inTopicNo.52)  Re[49]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 13:49:04)
    【ニーチェ著『善悪の彼岸』1885-86/木場深定訳/発行者山口昭男/発行所岩波書店1970】の、 十一から、

    できるだけ省略してみたけど。/////が省略部分ね。

    (K-Ni)―――――――――――――――
    (p24)いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸(そら)し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものを――とにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、かつドイツ的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉(たの)しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。
    ////////
    それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。それは誰よりもまず――老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。
    ////////
    それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。
    ////////
    ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するに――《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった…‥
    ―――――――――――――――

    カントのやドイツ哲学の、ニーチェの見方みたいだけど、なんかおもしろい。

    『一つの能力』っていうのはたぶん「理性」のことだと思う。

    ニーチェでさえ、『簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体(もったい)らしく、』って思ってるわけだから、カントの文章、わたしなんかがわかんないのは当然ね。

    『我を忘れて喜ばれたのであった‥‥』
    ってある。
    デカルトのは、「ego cogito」、「我、考える」だったと思う。この「我」を忘れて「考える」だけになっちゃった、みたいなこと言ってるのかな?

引用返信/返信 削除キー/
■41207 / inTopicNo.53)  Re[48]: その後の文章
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/15(Sat) 13:45:47)
    No41201
    >田村一郎先生の訳文<
    pipiさま、ありがとございま〜す。
    でも、やっぱ、カントの文章分かりにくい。

    ニーチェのちょっと想い出したので、次にそこんとこ書き写して見ます。

引用返信/返信 削除キー/
■41201 / inTopicNo.54)  その後の文章
□投稿者/ pipit -(2025/03/14(Fri) 21:15:02)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^ ^)

    No41196
    > (K-お)のはぜんぜんわかんないだけど、<

    (K-お)文の後に続いている文章を足すと、もう少しわかりやすくなるかも、とその箇所あたりの田村一郎先生の訳文をご紹介するね。

    『純粋理性批判 上』以文社、p117より引用。(B80.81)
    『ここでその影響がこれからの考察のすべてに及ぶし、誰もがはっきりわきまえておかなければならない一つの注意をしておこう。

    それは超越論的と呼ばれなければならないのはア・プリオリな認識のすべてではなく、そう呼べるのは(直観であれ概念であれ)ある表象がア・プリオリにだけ用いられるかア・プリオリにだけ可能であるか、あるいはどのようにしてそうなるのかをわきまえているようなア・プリオリな認識(つまり認識のア・プリオリな可能性か認識のア・プリオリな使用)に関してのみということである。

    したがって空間も、空間のなんらかのア・プリオリな幾何学的規定も超越論的表象ではなく、こうした表象がまったく経験的な源泉を持たないという認識だけが、それにもかかわらずこれらの表象がどうして経験の対象にア・プリオリにかかわりうるかという可能性だけが、超越論的と呼ばれるのである。』

    引用終了。

    それではー m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■41196 / inTopicNo.55)  Re[46]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/14(Fri) 18:46:23)
    カントの言う「超越論的」っていうの、p113-114に書いてあった。
    ちょっと書き出して見ます。

     〈超越論的認識とア・プリオリな認識〉
    (K-お)―――――――――――――――――
    『ここでひとつ注意しておこう。この注意は、以下に続くすべての考察に影響を及ぼすものであり、しっかり念頭におかれねばならないものである。あらゆるア・プリオリな認識を超越論的と呼んではならない。超越論的(すなわち、ア・プリオリな認識の可能性あるいはア・プリオリな認識の使用)と呼ばれねばならないのは、なんらかの表象(直観あるいは概念)がもっぱらア・プリオリに適用されること、またいかにして適用されるか、あるいはその表象がア・プリオリに適用可能であること、またいかにして適用可能であるかを、それによって私たちが認識するア・プリオリな認識である。』(A56/B80)
    ――――――――――――――――――――
    (お)―――――――――――――――――
    これは複雑な文章なので、例を挙げて説明しましょう。三角形の内角の和が二直角であることも、7+5が12であることも、ア・プリオリな認識ですが、これらは超越論的認識とは呼ばれません。超越論的認識とは、そうしたア・プリオリな認識が可能であること、またいかにして可能であるかを認識させるような、ア・プリオリな認識なのです。したがって、超越論的という形容詞が用いられるのは、認識の対象についてではなく、私たちのこころの表象についてなのです。私たちはやがて「超越論的対象」や「超越論的理念」という表現に出会うでしょうが、このことを忘れないことが大切です。もちろん、「超越論的論理学」についても同様です。先に、超越論的論理学は対象にかかわる純粋思考を対象にしていると記しましたが、対象にかかわるからといって、この論理学は対象領域の側に論理を見出そうとするものではありません。
    ――――――――――――――――――――

    (K-お)のはぜんぜんわかんないだけど、(お)のをペイントして見たので添付します。
    ここんところについては後で、わたしの、お喋りしようと思いま〜す。

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■41178 / inTopicNo.56)  Re[45]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/13(Thu) 19:15:36)
    No41176のようにして見たのは、次のところ読んで考えてるときにね。

    (K-お)――――――――――――――――――――――
    『したがって、悟性は自分の一切のア・プリオリな諸原則を、それどころか自分の一切の諸概念を、経験的にしか使用することができず、けっして超越論的に使用できない。この命題は、それが確信をもって認識されることができるなら、重要な帰結を見込むものである。なんらかの原則における概念の超越論的使用とは、その概念が物一般に、そして物それ自体に関係づけられる使用であり、他方、経験的使用とは、概念がたんに諸現象に、すなわち可能な経験の諸対象に関係づけられる使用である。しかし、そもそも後者〔経験的使用〕だけが成立することができるということが、先の命題から見て取れる。』  (A238f./B297f.)(p311)
    ―――――――――――――――――――
    ここのところについての御子柴さんの記述の一部を、
    (お)―――――――――――――――――――
    〔カントの『純粋理性批判』は「超越論的批判」(B26)の書です。この観点からすると、「超越論的」という表現は、カントの認識批判の方法を表示する肯定的な用語であると受け止めることができます。しかし、彼が「超越論的」〈神様な〉という表現を、この引用文に見られるとおり、「経験的」の対語として用いる場合、その表現には認識不可能な領域にかかわっているという意味が込められていることにもなります。超越論的批判は、人間の認識に超越論的にア・プリオリな概念や規則を見出しますが、同時にそうした概念や原則を超越論的に使用することを禁じているのです。これはいかにも逆説的な事態ですが、ことがらとしてその通りなのです。〕(p312)
    ―――――――――――――――――――

    な〜んか、なに言ってるのかゼンゼンわかんなかったんだけど、〈神様な〉っていうのを思いついて、
    (お)をわたしの見方を入れて見て見るて、〈 〉内がそうね。
    (お-A)―――――――――――――――――――
    「超越論的」〈神様な〉という表現は、カントの認識批判の方法を表示する肯定的な用語であると受け止めることができます。しかし、彼が「超越論的」〈神様な〉という表現を、この引用文に見られるとおり、「経験的」の対語として用いる場合、その表現には認識不可能な領域〈神的な〉にかかわっているという意味が込められていることにもなります。超越論的〈神様な〉批判は、人間の認識に超越論的〈神様〉にア・プリオリな〈経験に拠らないような〉概念や規則を見出しますが、同時にそうした概念や原則を超越論的〈神様〉に使用することを禁じているのです。これはいかにも逆説的な事態ですが、ことがらとしてその通りなのです。
    ―――――――――――――――――――

    で、(K-お)と(お-A)をわたしなりにして見て見た。
    ―――――――――――――――――――――
    「超越論的〈神様な〉批判」といっても、私たち人間の内にはこのような〈神様な〉ものをもっているという肯定的な用語であると受け止めることができます。
    この私たち人間の考える能力(悟性)のうちにある〈神様な〉ものは、〈神的な〉ものにかかわっているという意味が込められていることにもなります。
    私たち人間の内に〈神様な〉ものをもち、それによってア・プリオリな〈経験に拠るものではないような〉概念や規則を見出すが、そうした概念や原則を超越論的〈神の様に〉に使用することをカントは禁じているのです。
    なぜなら、私たち人間は〈神的な〉ものを知ることはできず(物それ自体を知ることはできず)、
    〈神様な〉ものは、あくまでも、経験的――概念がたんに諸現象に、すなわち可能な経験の諸対象に関係づけられる――にしか使用することができず、経験的使用だけが成立することができるものだから。
    ―――――――――――――――――――――
    こんな感じで見たのね。

    もっとも、
    「超越論的」⇒ア・プリオリなものを見出そうとする営み
    だけでもいいいんだけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■41176 / inTopicNo.57)  Re[44]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/13(Thu) 18:41:24)
    ちょっといいこと思いついちゃったよ。

    No41109で、
    わたし、
    (A-meta)「形而上学」⇒人間の経験-感性的知を超えたところに、普遍・必然的な知があるとする学問
    ってして見てて、
    カントの場合、
    (K-pr)「ア・プリオリ」⇒経験に拠らないもの
    (K-po)「ア・ポステリオリ」⇒経験に拠るもの
    (K-r)「純粋」⇒一切経験に拠らないもの

    No41124で、(K-t)「超越論的」⇒ア・プリオリなものを見出そうとする営み

    No41125で、「形而上学」と「超越論的」を結びつけて、

    No41128で、わたし〈神的な知〉って言うことにしちゃって。

    でね、

    カントは、私たち人間の悟性(考える能力)のうちには、〈神の様なもの〉があるのではないか、って考えたんじゃないかしら?
    で、〈神様なもの〉をちぢめて〈神様な〉ね。

    〈神的な〉に対して人間のを〈神様な〉って言うことにして見た。
    (〈神様〉っていうのは〈かみよう〉って読むのね、〈かみさま〉じゃないよ。)
    で、これを〈ア・プリオリな〉と同じとして見て(純粋でもいいんだけど、ひとまずね)、
    でね、これを「超越論的」ってして見よっかな、って。

    で、

    (A-t)「超越論的」⇒〈神様な〉=私たち人間の考えることのうちにある経験に拠るものではない神の様な=〈ア・プリオリな〉

    ってしてみたのね。
    〈神様な〉ものを見つけだそうとする営み、っていうふうに見ることもできるかな。

    〈神様な〉なもの(超越論的)をカントは「純粋○○」って言ってるんじゃないかな。
    「純粋理性」「純粋直観」「純粋悟性」「純粋形式」みたいに。

引用返信/返信 削除キー/
■41157 / inTopicNo.58)  計算
□投稿者/ pipit -(2025/03/11(Tue) 21:00:23)
    No41154
    > 「7+5は12」は小学校で誰からから“教わった”ものじゃないかしら?
    > 私のうちの〈経験に拠るものではない(ア・プリオリ)なもの〉じゃなくて〈経験に拠る(ア・ポステリオリ)なもの〉じゃないかしら?<

    みんなが12って言ってるから、12って答え出すなら、それは経験(インプット)に拠るものだね。
    チャットGPTの世界みたいだ。
    人間なんかロボットと同じなんかな。
引用返信/返信 削除キー/
■41154 / inTopicNo.59)  Re[42]: 知的直観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/11(Tue) 19:29:03)
    〈ア・プリオリな総合的判断は存在する〉(p71)
    (お)〔純粋数学の判断がア・プリオリな総合判断であることを例示するためにカントが引き合いに出すのは、7+5=12という判断です。これは自明に見える判断ですが、7+5をどのように分析しても、そこで考えられているのは7と5の和ということに過ぎず、12はそこに含まれていません。したがって、7+5と12の結合は総合的であり、ここで私たちの判断は拡張しています。〕

    「7+5は12」っていうの、ア・プリオリな〈経験に拠るものではない〉総合判断(拡張判断)?

    総合的判断(拡張判断)だっていうことはそんな感じするけど、
    「7+5は12」は小学校で誰からから“教わった”ものじゃないかしら?
    私のうちの〈経験に拠るものではない(ア・プリオリ)なもの〉じゃなくて〈経験に拠る(ア・ポステリオリ)なもの〉じゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■41140 / inTopicNo.60)  Re[41]: 知的直観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/10(Mon) 19:46:19)
    pipiさま、
    No41136、ありがとございま〜す(^O^)

    >御子柴先生の解説本では、B307のカント文の翻訳がp319に載ってました。<
    >B342は残念ながら翻訳は載ってないけど、その箇所あたりについての御子柴先生の解説がp353に載っていました。<

    このページのとこ、フェノメノンとヌーメノンについてのとこだと思うけど、
    前にね、pipiさまに教わってp319は少しだけ読んで見たの。
    っていうのは、カントの「Erscheinung」(日訳で「現象」)と現象学で言う「現象」との違いを知りたくて。

    まだわたしのなかでははっきりしてないんだけど、

    pipiさまとのやりとりで、いまわたしに思いついたのペイントして見たので、添付しま〜す。
    けっこうラフに、わたし用にだけど。

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