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■41513 / inTopicNo.37)  Re[64]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/27(Thu) 20:21:18)
    そこはかとなくなんだけど、ちょっと戻って、

    〔認識には直観と概念の両方が必要ですが、加えて、両者が統一されることが必要です。カントはそれを、「直観を悟性的にする」ことと「概念を感性的にする」ことが必要であるとも表現します(A51/B75)。彼は、こうした認識の営為を必要とせず一挙に対象を認識する「直接的悟性」や「知的直観」を人間は持ち合わせていないと考えています。ここにカントの認識論の一つの特徴があります。〕(本Ko-p110)

    〔私たちに物それ自体を認識する可能性がないことをあらためて主張します。もっとも、人間ならざる知性的存在にとっても同様であるとは言えないことを付言します。カントはしばしば人間ならざる知性的存在を念頭に置きつつ、人間における認識の可能性と不可能性を語りますが、・・・・〕(本Ko-p104)

    っていうことから、カントは〔人間ならざる知性的存在〕と、その〔知的直観〕〔直接的悟性〕っていうのを想定しているみたい。わたしこういうのを〈神的な〉って呼んでる。

    ここらへんちょっとペイントして見たのあるから添付しま〜す。題名は「神の知と人間の知」(a)

    メルポンに倣って、「感官(身体-運動)」を忘れないように(注)入れといたんだけど、ふと思ったのね。ある外国人のいう「神」みたいなの、わたし身体無い感じしてるんだけど、カントの言う〔身体ならざる知性的存在〕と「人間」との違いは結局、身体を持ってるか持ってないかの違いなのかも?
    ん?神が受肉した、っていうのも聞いたことあるし。ってすると、神も身体を持ってるっていうことになるから、違うのかかもね。ん?ってすると〜、カントのからすると、神が身体を持っちゃたら人間のようになっちゃって、「物それ自体」の「直接的悟性」や「知的直観」、失っちゃうことになっちゃうじゃないかしら?

    --------
    (注)『〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。』(「モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009」P.106)

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■41473 / inTopicNo.38)  Re[63]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/25(Tue) 19:49:11)
    No41410の(資料E)の香川さんの、ひとつのカント解釈的なんあだと思うんだけど、わたしには難しすぎる〜。でもあきらめないよ。(本Ko)に書いてあるのと見くらべて見てるとこと。

    (資料E)読んで、ちょっと思ったんだけど、そこはかとなくね。

    カントって、「○○を見てる△△」あるいは「△△が○○を見てる」っていう見方(考え方)してるんじゃないかしら?って。(これ、〈外に置いて見る〉っていう客観的に見る、みたいなんなだとわたし思ってるんだけど)
    そして、「物それ自体」っていう見方(考え方)してるわけよね。
    ○○それ自体があって、△△が○○を見てるわけだから、△△は○○自体じゃないわけよね。△△の○○だから。
    ってすると、△△は別の名前をつけないとちゃんと区別するためにはダメよね、だから、△△を□□って呼ぶ、みたいな?

    たとえば、カントの言う「Ersheinung(日訳で「現象」)」と「phenomena?(日訳で「フェノメナ」「現象体」「感性体」)の区別みたいな?

    〈外に置いて見る〉――客観的に見る、っていうの、人間ならではの、じゃないかしら?
    「私を外に置いて私が私を見る」みたいな?

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■41412 / inTopicNo.39)  Re[62]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/22(Sat) 19:52:44)
    わたしの物語り、途中になってたのを
    No41232のわたしの、ちょと書いとく。
    (3)の、
    (k1)カント哲学においては意味が逆転し Subjekt が「主観」を Objekt が「客観」を意味するようになった。
    ってウィッキに書いてあったんだけど、これ考えて見たのね。

    〔”意味”が逆転した〕っていうことなんだけど、
    「意味(あるいは概念)」から出発して、それに「名」が付けられるってして見るのね。
    でね、「意味(概念)」を〈そのようなもの〉、〈そうようなもを〉を言葉で表言されたものを「そのようなもの」ってして見るよ。
    でね、こう言う見方からちょっとペイントして見たの、添付するね。
    で、こう見たとき、
    何が逆転したの?
    ってわたし思うのね。

    もともと(xy1)だったものを、カント以降の見方から見て(xy2)ってして見ちゃったことに問題あるんじゃないかしら?
    日本での「主観」「客観」の意味が「カントのである」、っていうことになっちゃてるわけだから、ま、それはそれでそれに従うしかないんだけどね。でもね、じゃ、それぞれどういう意味?ってなると話が変わってくるかもだけど。

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■41410 / inTopicNo.40)  Re[61]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/22(Sat) 19:26:34)
    まだカントの『純住理性批判』、取り組んでるよ。

    (本Ko)もそうなんだけど、今は
    No40763でちょっと触れたけど、

    (資料E)「カントの現象概念について」 香川 豊

    をね。
    (実はわたしのばあい(本Ko)よりこっちの方が情報としては先だったんだ)

    この中にはカントの「現象」についてだけじゃなくて、「直観」「知覚」「フェノメナ」「ヌーメナ」「図式」・・・いろいろ出てきててだいぶ複雑で苦労してる〜。
    (「フェノメナ」「ヌーメナ」については(本Ko)ではp315に書いてあった)


    お喋りできるようになったら、またいつか。

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■41352 / inTopicNo.41)  Re[60]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/19(Wed) 19:38:47)
    No41236で思いついたの、

    カントの、
    「超越論的」「ア・プリオリ」「純粋」っていうの、ぜ〜んぶ〈非経験的・普遍的〉って言うことにして見た。

    たとえば、
    「ア・プリオリな形式」→〈非経験的・普遍的な形式(まとめ)〉
    「純粋悟性概念」→〈非経験的・普遍的な思考−概念(思考にによる概念)〉
    「純粋理性」→〈非経験的・普遍的な推理〉
    「超越論的論理学」→〈非経験的・普遍的に考える学〉
    ・・・・

    〈非経験的〉ってすることによって、わたしが見てるような〈神的な〉や人間の〈神様な〉っていうのもこれに含めることができる気がしているし。

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■41259 / inTopicNo.42)  おはよー(^○^)
□投稿者/ pipit -(2025/03/17(Mon) 07:47:48)
    悪魔ちゃん、おはよ!

    また朝起き抜けに思いついちゃったのでー

    考えることで獲得する!

    カントには批判されるかもしれないけど、遺伝子情報に心(?)電気(?)をアクセスして概念(路、道)を顕在意識化する、意識内のネットワークに要素として召喚できる、とかね。

    では今日もがんばって(??)いってみましよー

    (*^ω^*)v
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■41240 / inTopicNo.43)  Re[58]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/16(Sun) 19:49:50)
    わたしが前に名ずけてやった「マスターベイメディアベイション」、ちょっと長いから略してこれからは「マスオナ」って呼ぶことにするね。

    マスオナの「世論調査」って言うの? なんかいやらしいよね。

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■41236 / inTopicNo.44)  Re[57]: pipiさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/16(Sun) 18:36:08)

    No41234
    pipiさま、ありがとございま〜す。

    カントの言う「ア・プリオリ」、
    @生得的という意味ではない
    A「根源的獲得」(一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念)
    B知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である
    C「経験に由来しない」という意味を出ない
    Dその目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである
    な〜んとなくわかってきた感じで〜す。

    わたしのばあい、
    「ア・プリオリ」⇒生まれつき備わっている
    ってして見ちゃってるから、これ、生得的(性質などが生まれつきであるさま)的な意味あいが強くなってるのかも。
    カントのは、『「経験に由来しない」という意味を出ない』っていうことで
    「ア・プリオリ」⇒経験に拠るものではない、あるいは経験的ではない
    ってするより、「非経験的なもの」って見た方がいいのかな。
    そしてその「非経験的なもの」うちで、「知性自身から獲得した」ものであること。
    っていうふうに見ることにしました。
    ただ、ちょっと気になるのがここで言われてる「知性」ね。

    Dについては、
    (本Ko)に、
    〔さて、カントが普遍的なものを求める際のキーワードは「ア・プリオリ」です。この用語が『純粋理性批判』に頻出します。そのメルクマールは、本文中で説明するように、普遍性と必然性です。カントがこの用語を用いて行う主張は、人間の認識からア・プリオリな(すなわち経験に依存しない)形式を取り出し、その正当性を主張します。〕(p7)
    ってありました。
    これから、
    〈それが「ア・プリオリ」なものである、と言えるのはそれが「普遍・必然性」であることから〉
    って見て、

    で、ちょっとまとめると、
    私たち人間には、知性自身から獲得した非経験的なものがあって、それを見つける目印になるのが普遍・必然性であること。
    簡単に、
    〈普遍・必然性をもつ知性自身から獲得した非経験的なもの〉
    このようなものをカントは「ア・プリオリ」と呼んでいる。
    こんな感じになるのかな?なんかよけいやこしくしちゃったかもだけど。

    「根源的獲得」って言うい方、「獲得」だから〈なかったものを獲得する〉っていうふうにも思えちゃうから、わたしにとってはややこしくなるのね。もっとも〈根源的に獲得されているもので、その先なる根源を前提しない概念〉って見たらいいのかな。

    >幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?<
    なるほど〜。
    っていうことは、「発達」っていうことも視野に入れないとかな?

    わたしのばあい数学のア・プリオリ、なかったみたい (- -;)トホホ

    おかげでいろいろ思いつきました(^o^)

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■41234 / inTopicNo.45)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2025/03/16(Sun) 14:44:26)
    こんにちは!
    例えば数学のアプリオリについてなんだけど、能力の種を持って生まれてきている、他人から使い方を教えてもらうことで、自分にある能力が花開く、みたいな考え方もできるかなって私は思ってるんだよ。
    経験がきっかけかもしれないけど、アプリオリな能力を使うことができるようになる感じ。

    カントの理解として合ってるかどうかはわからないけど、
    カントが使ってる用語に『根源的獲得』っていう用語があるみたいでさ。
    この『根源的獲得』について書いた過去投稿をコピペするね。

    ---------------------
    No1338
    (根源的獲得についてのpipit投稿と本の引用)
    『カント入門』という新書のp111〜113で、著者の石川文康先生は、
    世間ではよく誤解されているが、「純粋理性批判」におけるアプリオリとは、生得的という意味ではない、と注意喚起されています。
    (経験から)獲得的⇔生得的
    これが一般的な対語だが、カントはこの従来の二分法を超えて、第三項として「根源的獲得」という領域を切り開く、とされてます。

    部分引用します。
    『それに対してカントが第三項として導入した自然法用語「根源的獲得」は、一切の先なる所有者を、また先なる根源を前提しない概念である。
    したがって神からも経験(先なる根源)からも派生しない概念である。
    それは知性がその自己活動によって知性自身から獲得したという意味である。
    そしてその意味で、カテゴリーは知性自身にその根源をもつ概念である。』(p113より引用)
    『たしかにカント以前、とくにライプニッツにおいては、「アプリオリ」と「生得的」とはほぼ同義であった。しかしカントの場合、「アプリオリ」とは「経験に先立つ」すなわち「経験に由来しない」という意味を出ない。その目印は「普遍妥当性」と「必然性」をもつことである。』(石川文康先生『カント入門』p111より引用)

    No3900
    (pipitの私見)
    一応カントの言い分だと、
    人間の持つ能力によって、アプリオリな綜合判断が可能だ、って言ってるんだと思ってるよ。
    だから、人間の能力にすぎない、というのは、カントもそう言うと思ってるよ。

    カントのアプリオリは、生まれつきという意味ではなくて
    根源的獲得、という意味合いみたい。
    獲得、ってあるでしょう?
    どこから獲得するのか。神から?経験から?
    カント的には自分自身の能力から、自ら獲得する、ってしてると私は今の所思ってるの。
    だから、幼児はまだ、自分の持つ能力から、総合判断を可能にするアプリオリな概念を引き出してない、手元に使えるように獲得してない、と考えられるのかな?

    ----------------------------

    それではねー (^^)/
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■41232 / inTopicNo.46)  Re[55]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/16(Sun) 13:55:31)
    現象学の姿勢として、「いつも最初からやり直す」とか「永遠の初心者」って言ってる。
    それに倣って、っていうか〜、っていうより〜、わたしのばあい呑み込み悪い(っていうか理解力低い)せいかな。

    でね、またちょっと戻るんだけど、
    No40924で見たように、
    No40902のKoCから、
    カントの「認識」っていうのを
    (K-E)「認識」=客観的な知、論理的な認識〈知〉
    ってして見てるんだけど、「客観的な知」っていうのどういうの?
    ってうことで、あらためて「客観」、「主観」を調べて見た。

    ネットに、「主観 – Wikipedia」 「客観 – Wikipedia」 があったのでこれを手がかりにしてちょっと考えて見たよ。

    (1)語源のところから―――――――――――――――

    (x)―――――――――――
    (x1)ラテン語の subiectum はギリシア語の hypokeimenon(ヒュポケイメノン:基体)。
    (x2)(ギ)hypokeimenonはアリストテレスの用語。
    (x3)(s1)は、「下に置かれているもの・こと」「ある議論ないし理論において何かを述べたり規定したりするときにその前提とされているもの」
    (x4)(ラ)subiectum、(ギ)hypokeimenon は、古代から近代初頭まで常に「基体」という意味と「主語」という意味で使われてきた。
    (x5)ホッブズ――「感覚の基体(subiectum sensionis)」
    (x6)ライプニッツ――「基体あるいは魂そのもの(subiectum ou l'âme même)」
    (x7) カント哲学以前より (ラ)subiectum には「心の内なる基体」「心の内なる実体」と言った用法が使われていたことが容易に想像できる。

    (y)――――――――――――
    (y1)ラテン語の obiectum はギリシア語の antikeimenon。
    (y2) (ギ)antikeimenonは、アリストテレスの用語。
    (y3) (ギ)antikeimenonは、「向こう側におかれたもの」。
    (y4)(ラ)objectum と objectum の形容詞形である objectivus はアリストテレスにおいて「対象」を意味していた。
    (y5)中世スコラ哲学では(ラ)objectum は「投げられてあるもの」を指し、意識の志向的対象、意識、表象などを意味する。
    (y6)(ギ)antikeimenonは、「向こう側におかれたもの」、複数形で「たがいに対立し合うもの」、単数形で「思考や感覚の働きに対置させるもの」。
    (y7)デカルトやスピノザも realitas objectiva を単に表象され限りの事象内容(可能的事象内容)の意味で使用しており、現実化された事象内容である realitas acutualis(現実的事象内容)や事物そのものの形相として存在する事象内容 realitas formalis(形相的事象内容)を意味している。
    ――――――――――――――――――――――――――

    (2)――――――――――――――――――――――――――
    (xy1)アリストテレスや、中世から近代初頭にかけては、subiectum(hypokeimenon) と objectum (antikeimenon) を対を成す用語(概念)としては使っていなかった。
    (xy2) 中世から近代初頭においては subjectum が客観的存在者を意味しており、obiectum が主観的表象を意味していた。
    (xy3)(ラ)subiectumは(独)Subjek。(ラ)obiectumは(独)Objekt。
    ―――――――――――――――――――――――――――――

    (3)カント以降では―――――――――――――――
    (k1)カント哲学においては意味が逆転し Subjekt が「主観」を Objekt が「客観」を意味するようになった。
    (k2)「主観」と「客観」が対立する概念として扱われるようになった。
    (k3)客観的実在は悟性の範疇で決定されることになった。
    (k4) subiectum(hypokeimenon)は、カント哲学以降のいわゆる「主観」という意味は全く含まれていなかっただけでなく、「基体」という意味で subiectum が使われる場合は「心の外にそれ自体で存在するもの」であるという意味で使用されていた。
    (k5)カントは subiectum を認識機能の「主観」と位置付け、主観自体は世界を超越していながら世界の存在を基礎づけるという意味で「超越論的(transzendental)」な「主観」に読みかえることで、認識される限りの「客観(obiectum)」のみを存在者として認知する「主観−客観関係」という論理を発表した。
    (k6)しかしカントの論理では認識主観とその相手となる客観であるところの「現象」の背後の「主観−客観関係」には人間があらゆる認識手段を使用しても知り得ない「物自体」を想定せざるを得なかった。
    (k7)カントは意識の外側に人間があらゆる認識という手段を使用しても知り得ない事物を想定した。
    ――――――――――――――――――――――――

    「Wikipedia」のをこういうふうにして見たのね。

引用返信/返信 削除キー/
■41231 / inTopicNo.47)  Re[54]: 私見
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/16(Sun) 13:51:42)
    No41224、pipiさま、ありがと
    >超越論的の中に経験的はないかもだけど、<
    >経験的が生まれるためには、超越論的が必要、とカントは考えてるのかなと私は今のところ思ったよ。<

    わたしもそう思ってる。

    <経験的が生まれるためには、超越論的が必要>、これ、わたしのばあい、
    2才児kちゃんの「これ、リンゴ」――経験的認識――これが可能となるためには、
    「超越論的」=〔私たち人間の〈考えること〉のうちにある〈経験に拠るものではない〉(ア・プリオリな)〕――が必要。
    っていうふうに見るんだけど、
    実際、2才児kちゃんには「これ、リンゴ」――たとえその判断が間違っていたとしてもそういう“判断(認識)はできてる”わけだし――が可能になってるわけね。ってしたとき、カントによると、2才児kちゃんには〔〈経験に拠るものではない〉(ア・プリオリな)もの〕(=超越論的なもの)が存在してないとダメなわけなのね。
    それはどのようにしてか、っていうと、「これ」(知覚されてるもの)は「空間と時間という形式」によって、「リンゴ」(考えることによる概念-分類−語)は「純粋悟性概念(カテゴリー)という形式」によって、って、カントのでは、なるのかもだけど、そこらへんがまだよくわかんないのよね〜。

    2才児kちゃんは「超越論的な認識」をすでにもっているのかしら?って。

引用返信/返信 削除キー/
■41224 / inTopicNo.48)  pipitの私見
□投稿者/ pipit -(2025/03/16(Sun) 07:42:05)
    悪魔ちゃん、おはよう(^_^)

    超越論的の中に経験的はないかもだけど、
    経験的が生まれるためには、超越論的が必要、とカントは考えてるのかなと私は今のところ思ったよ。

    これ、リンゴ。これ、ナシじゃない。は、肯定判断と否定判断で、仮にこれを人間のアプリオリな知性判断能力とした時、下記の(カント文の日訳)@から用語を入れ替えてみるね。

    No41201
    (カント文の日訳)@
    >したがって空間も、空間のなんらかのア・プリオリな幾何学的規定も超越論的表象ではなく、こうした表象がまったく経験的な源泉を持たないという認識だけが、それにもかかわらずこれらの表象がどうして経験の対象にア・プリオリにかかわりうるかという可能性だけが、超越論的と呼ばれるのである。<

    pipitによる置き換えA
    したがって肯定判断も否定判断も超越論的表象ではなく、こうした表象がまったく経験的な源泉を持たないという認識だけが、それにもかかわらずこれらの表象がどうして経験の対象にア・プリオリにかかわりうるかという可能性だけが、超越論的と呼ばれるのである。

    朝起き抜けに思いついたのでー
    失礼しましたー  m(_ _)m
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