| そこはかとなくなんだけど、ちょっと戻って、
〔認識には直観と概念の両方が必要ですが、加えて、両者が統一されることが必要です。カントはそれを、「直観を悟性的にする」ことと「概念を感性的にする」ことが必要であるとも表現します(A51/B75)。彼は、こうした認識の営為を必要とせず一挙に対象を認識する「直接的悟性」や「知的直観」を人間は持ち合わせていないと考えています。ここにカントの認識論の一つの特徴があります。〕(本Ko-p110)
〔私たちに物それ自体を認識する可能性がないことをあらためて主張します。もっとも、人間ならざる知性的存在にとっても同様であるとは言えないことを付言します。カントはしばしば人間ならざる知性的存在を念頭に置きつつ、人間における認識の可能性と不可能性を語りますが、・・・・〕(本Ko-p104)
っていうことから、カントは〔人間ならざる知性的存在〕と、その〔知的直観〕〔直接的悟性〕っていうのを想定しているみたい。わたしこういうのを〈神的な〉って呼んでる。
ここらへんちょっとペイントして見たのあるから添付しま〜す。題名は「神の知と人間の知」(a)
メルポンに倣って、「感官(身体-運動)」を忘れないように(注)入れといたんだけど、ふと思ったのね。ある外国人のいう「神」みたいなの、わたし身体無い感じしてるんだけど、カントの言う〔身体ならざる知性的存在〕と「人間」との違いは結局、身体を持ってるか持ってないかの違いなのかも? ん?神が受肉した、っていうのも聞いたことあるし。ってすると、神も身体を持ってるっていうことになるから、違うのかかもね。ん?ってすると〜、カントのからすると、神が身体を持っちゃたら人間のようになっちゃって、「物それ自体」の「直接的悟性」や「知的直観」、失っちゃうことになっちゃうじゃないかしら?
-------- (注)『〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。』(「モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009」P.106)
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