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■41771 / inTopicNo.25)  Re[76]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/05(Sat) 12:20:00)
    いまは
    No41696のメルポンの〈0点の知覚は0点にある〉って、なに?にはまってるんだけど、これ後にしてカントのに戻るね。

    No41672の(資料E)についての、

    結語に、
    (E-1)〔この論稿においてはカントの三つの現象概念―経験的意味での現象、先験的意味での現象、所与としての現象―の意味がそれぞれにおいて解明された。しかし、この解明にあたって先験的な場面での現象についての議論が必ずしも十分ではなかった。そのためには、先験的な意味での現象と現象自体の区別や空間、時間、現象の先験的観念性の問題、ひいてはカントの先験的観念論の性格にまで議論を及ぼさなければならない。しかし、この点についての考察は他日を期したい。〕
    ってある。

    「先験的」ってあるのは、「先験的区別(transzendentaler Unterschied)」 (p100)ってあるから、香川さんは「transzendentaler」を「超越論的」じゃなくて「先験的」って訳してるみたい。わたしどっちでもいいと思うんだけど(中島さんには叱られるかもだけど)。ちなみにわたしのばあい〈非経験的・普遍的な〉ってして見てる。

    結語にあるように、(資料E)は主題が「カントの現象概念について」だから、「フェノメナ」は出てくる(ヌーメナもあるけどちょっとだけしか書いてない)けど、「先験的」についてのは、あまり詳しく書かれてない感じ。

    (資料E)によると、カントには三つの現象概念、
    (a)所与としての現象
    (b)経験的意味での現象
    (c)先験的意味での現象
    があるらしいのね。
    〔単なる現れとしての現象〕とも書かれてあるんだけど、たぶん(a)のことだと思う。
    これと、
    これまでカントのを読んで考えてきたなかでわたしに浮かんできたの図にして見てるのあるから添付するね。

    図はね、
    No41110のを基本形として描いて見た。現象学のも少し入れてる。
    わたしの関心事は、「私たち人間の経験的認識」についてカントはどのように考えてるの?だから、
    No41513の〔人間ならざる知性的存在〕〔知的直観〕〔直接的悟性〕っていう〈神的な〉のをなくしちゃったの。
    まだ「超越論的(先験的なもの)」についてはあやふやだし、「知覚」をどこに位置づけようかまだ決めかねてるんだけどいまのところのひとまずのね。

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■41746 / inTopicNo.26)  Re[75]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/04(Fri) 19:45:39)
    そこはかとなく

    なんかネットニュース見てたらアメリカ国人種の関税の話しあったんだけど

    「依存」が存在しなければ、「あ、そう」で話は終わっちゃう気がするんだけど。
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■41741 / inTopicNo.27)  Re[74]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/04(Fri) 18:52:55)
    ちょっと気をとり直して

    現象学のでわたしが好んでる主要な本を書いとくね。

    (M-C)【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】
    『LA STRUCTURE DU COMPORTEMENT』

    (M-P)【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】
          『Phenomenologie de la Perception』(アキュートアクセントは省略)

    (M-V)【『見えるものと見えないもの』1964滝浦静雄・木田元訳みすず書房1989】
          『LE VISIBLE ET L’INVISIBLE』

    (F-D)【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】

    いちいち書くのめんどだし。

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■41723 / inTopicNo.28)  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/03(Thu) 20:02:12)
    ふと、そこはかとなくね

    日本の学者さん?有識者?なんかよくわかんないけど、
    そういう人たちが「フィロソフィア」を「哲学」っていう「科学」にしちゃったっていうことは〈疑いの余地がないこと〉ってしていいかな?



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■41696 / inTopicNo.29)  Re[72]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/02(Wed) 19:16:05)
    No41615についてわたしのどうお喋りどうしよっかな〜、っていろいろ考えてるんだけど、

    なんか興味深いの出て来たのね。

    【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』1942 滝浦静雄・木田元訳みすず書房 2014】のなかに

    『〈点0の知覚は0点にある〉という考えは、ベルクソンにではなくカントにこそさかのぼるべきものであろう。』(下p126)
    ってあって、〈点0の知覚は0点にある〉(0)、なにこれ?って思たんだけどやりすごしてたんだけど、

    No41672の(本Ko)のp271あたりに〔純粋直観=0〕とか〔無=0〕っていうの出てきてるじゃん。
    ん?これってメルポンの言ってる(0)のこと?って思って、ネットで調べたら、

    (資料O)「存在のゼロ」――後期メルロ=ポンティにおける否定的なもののカント的意味――柳瀬 大

    っていうのあったのね、を介した
    いまこれに取り組んでるところ。

    No41672の三つの資料のと(資料O)のからわたしふうにまとめようとしてるとこ。

    あ、(資料O)の題名についてはわたしちょっと不満で、わたしのばあい〈「0という存在」――カント的意味を介したメルロ的意味〉っていうふうに見てる、いまんとこ。


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■41674 / inTopicNo.30)  Re[71]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/01(Tue) 18:57:27)
    ふと、そこはかとなくね

    カントの言う「経験」っていうの、「実在(実際に存在してる)」とか「リアル(現実)」とかっていうふうに見たらどうかな?って。
    ん〜ん、メルポンのに倣うと、「生きられた」とか「生(なま)の」っていう言い方の方がいいかな。
    だから、「経験的直観」って言うのは〈生(なま)の直観〉(r-i)ってなる。

    わたしのばあい、〈思考された直観〉の方より(r-i)の方に興味があるみたい。

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■41672 / inTopicNo.31)  Re[70]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/04/01(Tue) 18:53:43)
    わたしが読んでる資料、ちょっとごちゃごちゃしてきたってるからちょっと整理しとくね。(出どころ書かなくっちゃダメみたいだし)
    いまのわたしの物語りの主になってる資料は、

    (本Ko)【「カント純粋理性批判」御子柴義之著/角川選書(令和6年)】
    ネットから、
    (資料Kh)カント「純粋理性批判」感性論Tomokazu Hanafusa
    (資料E)「カントの現象概念について」 香川 豊

    です。

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■41615 / inTopicNo.32)  Re[69]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/30(Sun) 19:04:23)
    No41614 のつづきね

    (資料E)p116-117――――――――――――――
    『純粋理性批判』におけるカントの関心は原初的経験ではなく、ニュートン物理学的な経験の可能性へ向けられている。この関心に応じて、先験的感性論における直観も認識―対象―関係の内で経験の対象を与えるものとして考察される。感官の対象はまず認識との関係の内で経験の対象を与えるものと見做される(Vgl.Bd.XX,S.;A45-46,B63)。経験的なものは「それによって対象がその現存在に関して与えられたものとして表象される感覚」Bd.XX,S.276)に対応し、「経験の実質を構成する」(ibid.)。この経験の質料的契機はこの場合経験の非独立的な契機として経験全体の構造のうちで把握され、触発との関係でのみ語られるに過ぎず、原初的な経験の場においてその独自な展開が試みられるということはない(5)。この経験的なものが「意識と結び付くと知覚と呼ばれる」(ibid.)が、こうした知覚は、所与の確認としては、もっぱら感官との関係で語られることになる(Bd.WS.291.)それは構想力の総合が知覚の総合を通して直観に関わる限り感性に属するものと見做されるからである(Bd.W,S.291)。感官における対象の知覚に際して自発性が既に関わっていることは、〈内官の規定〉としての再生的構想力の主観的統一に関して述べているところであるが、それが所与の確認として語られる限りやはり受容性における総合と考えられなければならない。しかし問題は所与の確認ではなく、所与として受容された対象がいかにして経験の対象として定立されるかであり、この所与としての対象が経験的なもの一般として感性的直観の形式(空間と時間)のもとにカテゴリーを通していかに秩序付けられ、経験の対象として成立されるかが『純粋理性批判』において考察される。『純粋理性批判』においては、〈経験的直観の規定されない対象〉としての〈現象〉は所与の確認との関係というより、むしろ経験との関係で語られており経験の質料的契機として経験全体の構造の内で考察される(8)。その限りでは所与としての現象は単に触発との関係で語られた認識の内容(経験の実質)としての現象と言わざるを得ない(9)。
    ―――――――――――――――――――――――
    (注)―――――――――――――――――――――
    (5)カントにおいて、原初的な経験は知覚判断を通して間接的に考察の舞台に登場する。知覚判断は、経験判断に対し、直接的な知覚に基づく判断と規定されるが、しかし、この判断は経験的な意味での現象を開示し、経験的な場面では仮象に陥る危険性を持つ判断として語られていることから明らかなように、客観的妥当性を持たない判断として消極的に規定される。カントは知覚判断の経験的判断に対する先行性を語るが、しかし、原初的経験の科学的な認識に対する地盤性を必ずしも積極的に評価しているとは言い難い。

    (8)経験が経験的認識である限りこの質料的契機は経験にとっての必然的契機である。

    (9)Vgl.M.Heidegger(1);a.a.O.,S.37.
    原初的な経験の場から離れ、経験の可能性との関係のみで考察すること、この現象は経験の質料的契機に対応する経験的なものを示し、経験の実質を構成する単に理論的な抽象物としての対象と見做される危険性がある。しかし、これは必ずしもカントの真意ではない。原初的な経験の場で出会った対象は、所与の確認との関係では、経験的な意味での現象として開示され、経験との関係では経験的意味での対象自体として開示されるが、経験と直接的な知覚の対象との質料的な観点から見た関係が触発であり、経験の非独立的な質料契機との関係で語られる対象が、この場合の現象である。
    ――――――――――――――――――――

    これ、香川さんから見たカント解釈だと思うんだけど、いま(本Ko)のと見くらべ見てるところ。
    なかなか訳解で難しくて、これについてのわたしのは後にしま〜す。

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■41614 / inTopicNo.33)  Re[68]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/30(Sun) 18:59:46)
    No41575のように、
    カントの〈神的な〉〔人間ならざる知性的存在―知的直観、直接的悟性〕を横に置いといて、
    「私たち人間の経験的なもの」を中心に置いて見ることにしたなかで、カントはどう見てるの?っていうことで、

    (資料E)の中からそれとわたしに思われる部分、ちょっと書き出して見ることにしたよ。
    ちょっと長いから今日は書き出すだけとくだけにしとくけど、

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■41577 / inTopicNo.34)  Re[67]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/29(Sat) 18:37:31)
    ところで、
    日訳されてる「物それ自体」についてね。
    これを「私の外にあるもの」で見て見たのね。

    「私の外にあるもの」の「もの」を「物」ってして、「物」についての認識についての論みたいなんだけど、わたしのばあい「物」っていうと「物体」っていうイメージなのね。
    「もの」を「者」ってした場合、すなわち「人」ね。カントの「超越論的」ではどうなるのかしら?

    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に、
    ―――――――――――――――
    ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorups、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体Korper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、Korperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。
    ――――――――――――――――
    (〔Korper〕の〔o〕の上の・・は省略しました)
    って言うのちょと思ったのね。

    人間の「身体」と「物体」とはカントの場合、はっきり区別されてたのかしら?って、ふと。

    もし区別されてて、日訳されてる「物それ自体」の「物」を「物体」として見ていいんだとしたら、カントの認識は「物体に関する認識」についての論に限られてるのかも?
    こう考えると、なんか、物理学(科学)者の認識についての論みたいなのかな?って。

    もっとも、カントは、物理学、数学、論理学、…っていう「科学」(学問)も〈人間の〉だから、「経験的認識」に属するものとして見てるみたいで、やっぱカントの最大の関心事は、
    No40973の(KoQ)だったのかな。

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■41575 / inTopicNo.35)  Re[66]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/29(Sat) 17:46:47)
    もし、カントのが
    〔人間ならざる知性的存在〕〔知的直観〕〔直接的悟性〕(G)―vs―「私たち人間の経験的認識」(H)
    っていうなかで考えてるんだとしたら、ね。

    まず(G)のようなのをカントが想定して(前提として)、それからそれに対して(H)を考えたのは、
    たぶん、
    No41109で見たような、
    (a)「形而上学」⇒人間の経験-感性的知を超えたところに、普遍・必然的な知があるとする学問
    ってしたとして、
    そして『純粋理性批判』でのカントの問い、
    No40973で見たような、
    (KoQ)『いかにして学問としての形而上学は可能であるのか』 (B22)
    みたいなのがあるからだと思う。

    でもね、
    私たち人間の経験(感性)的認識を見ようと(考えようと)するとき、(G)のようなのを想定する(前提とする)必要があるのかしら?って。

    わたしには(G)のようなのないから、カントの『純粋理性批判』、分け分かんないんだと思う。

    でね、(G)vs(H)っていう見方から(G)をナシに(カントのように捨象)しちゃって、主に(H)に関することについてカントのから抜き出して見よっかな、って。

    ん?それじゃカントのを読む意味ない?-----〈神的〉なのを念頭においている人にとっては-----そうかもね。

    でも、今から思うと、わたしがカントのから知りたかったのは、私たちの経験的認識(日常の認識や科学的認識〉について、カントはどう見てる(考えてる)のかな?っていうことだったような気がしてる。
    だって、メルポンは「私」や「日常の生活世界と私とのかかわり」について考えてるみたいだし。

    こういうのから、わたしのばあい、
    No41410の(資料E)には興味あるのかも。

    なんかお喋りしてて、『純住理性批判』からわたしが知りたいところが絞れてきた感じ。

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■41541 / inTopicNo.36)  Re[65]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/03/28(Fri) 19:32:55)
    もし、カントのが
    No41513のペイントしたようなのだとしたらで、ね。

    〔人間ならざる存在による直接的悟性・知性直観〕vs〈私たち人間の経験的認識(判断)〉
    っていう見方・考え方において、〈私たち人間の経験的認識(判断)〉には、
    ある「対象」の〈日常の経験的な認識〉と〈数学的・物理学的認識〉がある、っていう分け見かたもあると思うのね。
    だって両方とも〈人間の〉だし。

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