| No41614 のつづきね
(資料E)p116-117―――――――――――――― 『純粋理性批判』におけるカントの関心は原初的経験ではなく、ニュートン物理学的な経験の可能性へ向けられている。この関心に応じて、先験的感性論における直観も認識―対象―関係の内で経験の対象を与えるものとして考察される。感官の対象はまず認識との関係の内で経験の対象を与えるものと見做される(Vgl.Bd.XX,S.;A45-46,B63)。経験的なものは「それによって対象がその現存在に関して与えられたものとして表象される感覚」Bd.XX,S.276)に対応し、「経験の実質を構成する」(ibid.)。この経験の質料的契機はこの場合経験の非独立的な契機として経験全体の構造のうちで把握され、触発との関係でのみ語られるに過ぎず、原初的な経験の場においてその独自な展開が試みられるということはない(5)。この経験的なものが「意識と結び付くと知覚と呼ばれる」(ibid.)が、こうした知覚は、所与の確認としては、もっぱら感官との関係で語られることになる(Bd.WS.291.)それは構想力の総合が知覚の総合を通して直観に関わる限り感性に属するものと見做されるからである(Bd.W,S.291)。感官における対象の知覚に際して自発性が既に関わっていることは、〈内官の規定〉としての再生的構想力の主観的統一に関して述べているところであるが、それが所与の確認として語られる限りやはり受容性における総合と考えられなければならない。しかし問題は所与の確認ではなく、所与として受容された対象がいかにして経験の対象として定立されるかであり、この所与としての対象が経験的なもの一般として感性的直観の形式(空間と時間)のもとにカテゴリーを通していかに秩序付けられ、経験の対象として成立されるかが『純粋理性批判』において考察される。『純粋理性批判』においては、〈経験的直観の規定されない対象〉としての〈現象〉は所与の確認との関係というより、むしろ経験との関係で語られており経験の質料的契機として経験全体の構造の内で考察される(8)。その限りでは所与としての現象は単に触発との関係で語られた認識の内容(経験の実質)としての現象と言わざるを得ない(9)。 ――――――――――――――――――――――― (注)――――――――――――――――――――― (5)カントにおいて、原初的な経験は知覚判断を通して間接的に考察の舞台に登場する。知覚判断は、経験判断に対し、直接的な知覚に基づく判断と規定されるが、しかし、この判断は経験的な意味での現象を開示し、経験的な場面では仮象に陥る危険性を持つ判断として語られていることから明らかなように、客観的妥当性を持たない判断として消極的に規定される。カントは知覚判断の経験的判断に対する先行性を語るが、しかし、原初的経験の科学的な認識に対する地盤性を必ずしも積極的に評価しているとは言い難い。
(8)経験が経験的認識である限りこの質料的契機は経験にとっての必然的契機である。
(9)Vgl.M.Heidegger(1);a.a.O.,S.37. 原初的な経験の場から離れ、経験の可能性との関係のみで考察すること、この現象は経験の質料的契機に対応する経験的なものを示し、経験の実質を構成する単に理論的な抽象物としての対象と見做される危険性がある。しかし、これは必ずしもカントの真意ではない。原初的な経験の場で出会った対象は、所与の確認との関係では、経験的な意味での現象として開示され、経験との関係では経験的意味での対象自体として開示されるが、経験と直接的な知覚の対象との質料的な観点から見た関係が触発であり、経験の非独立的な質料契機との関係で語られる対象が、この場合の現象である。 ――――――――――――――――――――
これ、香川さんから見たカント解釈だと思うんだけど、いま(本Ko)のと見くらべ見てるところ。 なかなか訳解で難しくて、これについてのわたしのは後にしま〜す。
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